DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: January 2007 (page 2 of 2)

千の風になって

 昨年末の事。恒例の紅白歌合戦で秋川雅史が歌う「千の風になって」を聴いた。僕は全然知らなかったのだけれど、世界中で知られる詩に新井満が曲と訳詞をつけた歌であるらしい。聴いていて、不覚にも家族の手前で涙を流しそうになった。映像の中でも紹介されているように、この詩の起源は作者不詳と認識されているようなのだが、色々と探してみると諸説あるようである。詩の内容を読んでいると、何となく神道に近いような気もする事から、個人的にはネイティヴ・アメリカンの民話から出たのではないだろうかと思っている。
 「あなたがわたしを思うのならば、わたしはいつでもここにいます。」というような文を何処かで読んだ事があるような気がするのだけれど、あれは一体何の文章だったのだろうか。

千の風になって(新井満のHPより)

冬季編成列車

 朝八時、通勤電車の車両は暖かく心地が良い。この季節では布団の中と風呂の中、そして電車の中に身を置く事をとても幸せに感じる。誰しもが黒っぽいウールの外套に身を包み、皮や毛糸の手袋をはめて、分厚く大きなマフラーで顔を半ば覆い隠すようにしている。車両の彼方此方から咳をするのが聞こえてきたり、くしゃみをしたりしている。誰かが新聞を広げているのかカサコソと音がする。耳を澄ませば、隣で吊革に捕まっている男の文庫本の頁を捲る音さえ聞こえてきそうである。幸いな事に僕の近くでイヤフォンを耳の穴に突っ込んで音楽を聴いている者は居ない。僕が電車に乗っている時間は約20分。もしこれが一時間も続くようならもっと幸せな気分になるのだろうな、と思う。電車が河を越える。水面の煌めきに目を細める。広くなった空から差し込む朝日が、僕が手にした文庫本の活字を照らす。

故郷という幻想背景

 年末年始に故郷へ顔を出すのが習慣になっている。そうして自分が生まれ育った土地に帰る度にいつも、何とも言いようのない複雑な気分に苛まれるのもこれまた常である。

 僕が生まれたのは如何にも取り残されたような田舎町で、帰る度に年々寂れていく街並みに淋しさを覚える事は、年老いて小さくなっていく両親の姿を見るのと同様に非常なる無力感を感じる事である。それでも両親や兄弟はその場所でしっかりと生活を続けていて、相変わらずな部分は相変わらずで、その存在に代わらぬ重みを持たせている。恐らく、彼等がもし死んでしまったとしても、後に僕の中に残るのはそういう部分なのではないだろうかと思っている。正確なところは実際にそうなってみなければ判らないが、何となくそう思うのである。

 廃れ朽ちていく部分が増えるのと同時に、新しく生まれ出る部分も増えている事も確かである。それは家族の事であれ町の事であれ同じ事。家族の誰かが目新しい何かに興味を持ち始めていたり、新しい知り合いが増えていたり、新しい店が開店していたり、新しい誰かが近所に住み始めていたりとかそういう事が色々と目に付く。確実に失われてしまうのは、かつて僕が見知っていた何か。子供の頃遊んでいた用水路が地下に埋設されてしまっていたり、登って遊んでいた神社の大木が伐採されていたり、通っていた保育園が空き地に代わり果てていたり。
 故郷とは、いつの時でも変わらぬ視線で自分を受け止めてくれる場所では決してない。勿論そういう部分が在る事も否めはしないが、それはある種の内なる幻想でしかない。自分にとっては故郷でも、現在は過去を塗り替え、自分自身の存在とは全く無関係に絶え間なく変化し続けているのだ。僕等は安心を得る為に故郷へと帰る。しかしそれと同時に過去と決別する為に故郷へと旅しているのかも知れない。

トニー滝谷 / 市川 準

 水面に触れるような坂本龍一のピアノ。ナレーションというより日記を読み返すように呟く西島秀俊の声。それらが主人公トニーの静けさの中で抑えられた崩壊寸前の精神の均衡を表しているように思える。イッセー尾形、宮沢りえの演技は決して彼等の感情を映し出さず、他者との間の透明な壁の存在を思わせる。他者への深い諦めと、自分に対する忠実さを人型に押し込めてしまえば、簡単にトニー滝谷が出来上がってしまうように思う。各場面で、まるでピリオドを打つように映し出される大きなガラス窓、そこから差し込む美しい光に救われたような気持ちになる。

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