DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: March 2016 (page 3 of 3)

 ここで指摘しておきたいのは、筑前の商人の海外渡航が、十世紀以降急速にふえ出したことである。つまり、東アジア商圏への筑前の地場商人の参画がそれだ。博多商人の反中央、反体制の烽火はかくして上がり、現在へと続くのである。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 p.22

 狙われた円爾は謝国明に助けを求める。謝国明は宋出身で、小呂島(福岡市西区)を貿易の基地にし、日本人女性を妻に持つ博多網首。義侠の人でもあった。円爾を櫛田神社近くにあった自宅にかくまったという。一連の騒動は、双方にとって貿易の利権がどれほど大きかったか、博多がいかに重要な位置にあったかを物語っている。
 謝国明は、禅への信仰心も厚く、多くの足跡を残している。
 JR博多駅近くにある承天寺は、謝国明の援助によって円爾が建立した。円爾の恩師である宋の無準師範の径山万寿寺が火災に遭った時は、木材千枚を贈った。その五年後に承天寺が焼失。謝国明はたった一日で、仏殿など一八の建物を再建させたと伝えられる。それほどまでに禅に帰依していた理由は何か。「故国を離れて暮らす網首たちにとって、禅宗は心のよりどころだったのでしょう」と大庭康時主査はみる。しかし、それだけではない。禅という共通の文化を持つことが、宋とのつながりを強固にし、間違いなく貿易事業のうえでも大きな利益を生んだ。若き日、東シナ海の波濤を越えて博多へやってきた謝国明。文化人であり、並外れた財力を持つ貿易商人だった。後に登場する博多の豪商たちの原形をみる思いがする。
 飢饉になったある年の大晦日のこと、謝国明は、飢えた人々を承天寺の境内に集めて「そばがき」をふるまった。これが年越しそばの起源になったとも言われる。
 弘安三(一二八〇)年、八十八歳で没したと伝えられる。墓は承天寺近くにある。墓のそばに植えられた楠が巨木になったことから、「大楠様」と呼ばれるようになった。毎年八月の命日には、遺徳をしのぶ「千灯明祭」が営まれている。

読売新聞西部本社編『博多商人〜鴻臚館から現代まで〜』2004年 pp.20-21

 台湾は、中国にとって瑣末な法律問題ではない。中国人の感情を揺さぶる問題なのだ。私は、二〇〇一年に中国外交部軍控司(軍備抑制と軍縮を担当する部局)司長として武器制限交渉を担当していた沙祖康(駐ジュネーブ国連大使を経て、現在は経済社会局事務次長)に話を聞いたときのことを思い出した。話題が米中関係であり、しかも、アメリカの偵察機が中国の戦闘機と接触して海南島に強制着陸させられた直後だったにもかかわらず、驚くほど穏やかでなごやかなインタビューだった。沙司長は冗談もいえるくらい英語に堪能で、自信に満ちた人物だった。ところが、台湾が話題になると、突然語調が変わった。そばにあったコーヒー・テーブルを拳で叩いた。それは演技だったが、戦法の狙いどおり私はびっくり仰天した。すると、沙司長は声を荒らげ、こう叫んだ。「台湾を母国に復帰させるためなら、私は命を投げ出す覚悟であることを、知っておいてもらいたい!」
 中国はーー沙祖康以外の中国人もすべてーー台湾のために戦うだろうか? ここ数十年のあいだに中台の緊張がつのり、中国の侵攻の懸念が高まったときは、つねに台湾の国内政治が原因だった。一九九二年から、台湾は民主主義に移行した。その下準備をしたのは蒋介石の息子の蒋経国だったが、完全な民主化を行ったのは、蒋経国の後継者李登輝だった。一九九〇年代には台湾独立を唱える政治家が登場し、台湾人のナショナリズムに訴えて人気を集めた。李登輝は、一九九五年に初の民主的な選挙による総統に当選し、法に則った独立の明確な計画を打ち出しはしなかったが、その方向に向かうことを示唆した。李登輝は日本の植民地だったころの台湾に生まれ、日本語を流暢に話すことができて、日本の政界との結びつきも強い。いずれも中国にとっては不愉快なことだった。一九九五〜九六年、中国は本土と台湾のあいだの台湾海峡でミサイル試射を行うという威嚇行動に出た。クリントン大統領は、この脅しを重大事として、軍事解決を図らないように中国を警告するために、二個空母戦闘群を派遣した。それで双方とも引き下がった。

ビル・エモット著/伏見威蕃訳『アジア三国志〜中国・インド・日本の大戦略〜』日本経済新聞社 2008年 pp.304-305

 ダライ・ラマは二〇〇八年に七三歳になるが、いたって健康のようだ。しかし、仮に逝去したらどうなるのかということを、考えざるをえない。チベット仏教では、ダライ・ラマは転生すると考えられており、第一四世が逝去すれば、その転生者の子供を捜すことになる。その選定には何年もかかることが多い。しかし、誰が選ばれるにせよ、あらたに三つの厄介な問題が生じる。
 ひとつ目の問題は、二〇〇七年には中国政府が、チベットの高僧のすべてを政府が取り仕切るというあらたな規制ををもうけたことだ。つまり、候補者が転生霊童であるかどうかを最終的に決めるのは中国政府ということになる。いい換えれば、無神論者の中国共産党幹部が、チベット人の宗教上の決断を支配する。しかし、チベット仏教支配のために、清朝もおなじような規制を行っているし、中国政府は中国カトリック教会の司教の任命権も握っている。問題は、自分たちの宗教指導者に関する中国政府の決定を、チベット人が受け入れるかどうかということだ。中国のこの方針に対して、第一四世ダライ・ラマは、死ぬ前に第一五世ダライ・ラマを指名することを考えていると述べた。ふたつ目の問題は、自分は中国の支配する土地には転生しない、とダライ・ラマが明言していることだ。信者がこの言葉に従うとすると、中国領内で見つかった転生霊童は受け入れられないことになる。三つ目の厄介な問題は、第二位の高僧であるパンチェン・ラマが、中国政府の後押しで新ダライ・ラマ選定に大きな役割を果たす可能性が出てきたことだ。だが、一九八九年に第一〇世パンチェン・ラマが逝去すると、ふたりの転生霊童が選ばれた。ひとりはチベット亡命政府の選定委員会が選び、ダライ・ラマが承認した転生霊童であり、もうひとりは中国政府主導の探索委員会が選んだものだった。ダライ・ラマの選んだ転生霊童は、家族とともに拉致されて消息を絶った。おそらく政治犯として囚われているものと思われる。

ビル・エモット著/伏見威蕃訳『アジア三国志〜中国・インド・日本の大戦略〜』日本経済新聞社 2008年 pp.295-296

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