自分の観たい映画リストに放り込まれていたのだが、粗筋を読んでも何故この映画をチェックしたのかがさっぱり思い出されず、かといってそのままにしておくのも何なので観てみた。
ホテルの一室で1人の青年がベッドで考えごとをしている。しばらくして地図を手に街に出かけた青年はカフェで1人の女性客に声をかけるが無視されてしまう。翌日、青年が演劇学校の前のカフェで客たちを眺めながらノートにデッサンをしていると、ガラス越しに1人の美しい女性を見つける。彼女がカフェを後にすると彼は後を追う。街中を延々と歩き続け、市電の中でようやく彼女に声をかけることができた彼は「6年前に会ったシルビアだよね?」と尋ねるが、彼女は人違いだと答え、更に彼が追って来たことを責める。翌朝、青年はカフェに寄ってから市電の駅に向かい、そこで佇む。彼の目に多くの人々の姿が映り、彼のノートが風にめくられる中、目の前を何本もの市電が通り過ぎて行く。
シルビアのいる街で – Wikipedia
ウィキペディアのストーリー項目にはこう書いてあるが、全くこのままで、これ以上の話はほぼ出て来ない。主人公の青年の表情や歩く姿、そして一人の女性の表情や歩く姿以外では、カフェに集う人々や、街中の通りを行き交う人々、市電を利用する人々を淡々と定点観測のように映しているだけである。しかし、それが良い。カフェで人々は柔らかい陽光の下で風に吹かれながら、連れと喋っていたり、物思いに耽っていたり、思い思いに過ごしている。映像としても音響としても、人々は互いに見切れ、重なり合って映し出される。状況の中に埋没してしまいそうだ。街中の通りでは、目的地へと急いでいたり、座り込んで途方に暮れていたり、時間と場所を変えて同じ人が歩いていたり、せっせと働いていたり、様々な人々が縦横無尽に行き来する。そしてこの二つの場所を一人の物売りが渡り歩き、単調な流の中でアクセントとなっている。このような光景の連続が、時折ほんの少し居心地悪く感じる場面があっても、心地良いのだ。
このように異色な作品だが、テイストが珈琲時光に似ている気がする。どちらともストーリーはあくまで時間を進め場所を移動する為の口実でしかなく、映像と音響が主体である点がそう感じるようだ。しかもそれは、その辺りにいくらでも存在する「日常」的な光景。ありふれた光景の中に美を見出し、それをクローズアップする為にあらゆる事を従わせて出来上がった映画という印象を持った。
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