DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: April 2016 (page 2 of 2)

シルビアのいる街で

シルビアのいる街で

シルビアのいる街で:KINENOTE

 自分の観たい映画リストに放り込まれていたのだが、粗筋を読んでも何故この映画をチェックしたのかがさっぱり思い出されず、かといってそのままにしておくのも何なので観てみた。

 ホテルの一室で1人の青年がベッドで考えごとをしている。しばらくして地図を手に街に出かけた青年はカフェで1人の女性客に声をかけるが無視されてしまう。翌日、青年が演劇学校の前のカフェで客たちを眺めながらノートにデッサンをしていると、ガラス越しに1人の美しい女性を見つける。彼女がカフェを後にすると彼は後を追う。街中を延々と歩き続け、市電の中でようやく彼女に声をかけることができた彼は「6年前に会ったシルビアだよね?」と尋ねるが、彼女は人違いだと答え、更に彼が追って来たことを責める。翌朝、青年はカフェに寄ってから市電の駅に向かい、そこで佇む。彼の目に多くの人々の姿が映り、彼のノートが風にめくられる中、目の前を何本もの市電が通り過ぎて行く。
シルビアのいる街で – Wikipedia

 ウィキペディアのストーリー項目にはこう書いてあるが、全くこのままで、これ以上の話はほぼ出て来ない。主人公の青年の表情や歩く姿、そして一人の女性の表情や歩く姿以外では、カフェに集う人々や、街中の通りを行き交う人々、市電を利用する人々を淡々と定点観測のように映しているだけである。しかし、それが良い。カフェで人々は柔らかい陽光の下で風に吹かれながら、連れと喋っていたり、物思いに耽っていたり、思い思いに過ごしている。映像としても音響としても、人々は互いに見切れ、重なり合って映し出される。状況の中に埋没してしまいそうだ。街中の通りでは、目的地へと急いでいたり、座り込んで途方に暮れていたり、時間と場所を変えて同じ人が歩いていたり、せっせと働いていたり、様々な人々が縦横無尽に行き来する。そしてこの二つの場所を一人の物売りが渡り歩き、単調な流の中でアクセントとなっている。このような光景の連続が、時折ほんの少し居心地悪く感じる場面があっても、心地良いのだ。
 このように異色な作品だが、テイストが珈琲時光に似ている気がする。どちらともストーリーはあくまで時間を進め場所を移動する為の口実でしかなく、映像と音響が主体である点がそう感じるようだ。しかもそれは、その辺りにいくらでも存在する「日常」的な光景。ありふれた光景の中に美を見出し、それをクローズアップする為にあらゆる事を従わせて出来上がった映画という印象を持った。

 喜多流の仕手(能の主役)方として代々、福岡藩の黒田家に仕えたのが、梅津家である。喜多流を酌んだいきさつは、流祖北七大夫がまだ喜多流を確立していなかったころにさかのぼる。
 一六一五年(元和元年)、大坂夏の陣で豊臣方に加担した七大夫は、黒田長政に保護され、筑前に下って紅雪と名を改めた。その時、七大夫の身近にあって、修行をしたのが、筑前夜須郡甘木村の美麗作右衛門の長子、次久(のちの権右衛門)であった。
 筑前の美麗家は、大善寺玉垂宮など、筑後一円の社寺に田楽を奉仕した中世の美麗田楽の系譜をひいた一族である。
 もともと京都の梅津に住んでいたが、菅公の供をして筑紫に下ったと伝えられ、太宰府天満宮で「竹の囃子」を奉仕した、という由緒を持っていた。
 美麗の号は「容顔美麗」であったことから、頼朝から許されたものだ、と伝えている(福岡市在住の梅津忠弘師が所蔵する「筑前梅津家文書」)。
 美麗家は、のちに梅津家を称した。

朝日新聞福岡本部編『江戸の博多と町方衆〜はかた学5〜』葦書房 1995年 p.155

 一六〇三年(慶長八年)征夷大将軍に任じられた徳川家康は、早速、二条城で盛大な祝賀能を開いた。それまで秀吉の庇護の下にあった観世・金春・宝生・金剛の四座の能役者たちは、これ以後、徳川幕府の公式の式楽を担当する地位を確かなものとする。そこへ出雲のおくに一座が、歌舞伎おどりの新しい芸能を携えて登場する。芸能史の上でも、画期的な時代が到来しようとしていた。
 江戸時代の能楽は、個人的趣味にとどまらず、祝儀の際の接待として社会的にも大きな役割を持っていた。また、社交場必要なこともあって、能楽は諸藩でも盛んに行われ、大名自らの嗜みのためにも、競って能役者を重用した。
 とりわけ外様大名である黒田家では、武器をおさめる偃武の姿勢を天下に示す意味もあって、能楽を奨励したのであろう。
 長政は謡を愛好した。師である観世大夫黒雪が、長政のために節付けした見事な『観世章謡本』五十四冊(福岡市美術館蔵)も残されている。
 藩主が能楽に深い理解を示したことは、周辺の家臣たちにも影響を与えた。
 但馬は屋敷内に能舞台を持つと伝えられるほどの堪能であった。また、忠之や栗山大膳とともに、長政の病床に侍り、遺言を記録した岩崎平兵衛、太鼓の達人として江戸に知られていた。

朝日新聞福岡本部編『江戸の博多と町方衆〜はかた学5〜』葦書房 1995年 pp.151-152

『長野日記』には、翌元禄十五年にも、福岡城内で上覧相撲の行われたことを記しているが、この時は福岡・博多両市中対抗の取組みで、福岡二十五人、博多二十八人の力士の名があげられている。この中には、前年の勧進相撲にはなかった三十人の新しい顔ぶれが見られ、筑前力士の層の厚さがうかがわれる。そして、これらの中から、越前藩や四国丸亀藩のお抱え力士になった者も出ている。

 (中略)

 江戸時代も後期になると、江戸大相撲の全盛期となり、博多・福岡での興業は、一七九九年(寛政十一年)の箱崎浜と福岡西町浜の興業を皮切りに、一八〇二年(享和二年)の博多浜小路浜、一八〇五年(文化十二年)の博多櫛田神社境内、一八一一年(文化八年)の福岡西町浜、一八一五年(文化十二年)の那珂川河原、一八二〇、二一年(文政三、四年)の下市小路浜と、ひんぱんに見られる。
 大関雷電・押尾川・千田川等にまじって、筑前出身の田子浦、久留米出身の久紋龍、博多出身の鬼面山・平岩等に人気が集まった。

朝日新聞福岡本部編『江戸の博多と町方衆〜はかた学5〜』葦書房 1995年 pp.142-143

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