ブラッサイの写真展を観てきた。ブラッサイは「夜のパリ」と「昼のパリ」の写真集しか観た事はなかったのだけれど、今回の展覧会ではその他のシリーズも観る事が出来て良かった。私が得に気に入ったのは「落書き」のシリーズ。壁を石で削って描かれたその落書き達は、その深遠な表情と声ならぬ声で観る者に語りかけてくるようだ。ブラッサイはこれらの落書きを「時間のもたらす風化を確認するために」数年間に渡って繰り返し撮影されたそうだ。

 ブラッサイは、やはり夜を撮った写真が好きだ。絶妙な光加減でパリの街やそこに佇む人達を浮かび上がらせる。本展のコミッショナーであるアラン・サヤグ氏のコメントにはこうある。

 ブラッサイは一度もスタジオを持ったことがない。ルポルタージュやモード、あるいは広告にもまるで関心がなかったし、また、事故や犯罪の現場に駆けつけることもなかった。彼はセンセーショナルな出来事を嫌っていた。(中略)ブラッサイは世の中を凝視する人間であろうとし、またそうであることに深い喜びを感じていた。彼は儚いものを越えて、永遠なるものを引き出し、不変の規範をそこに与えた。

(夜を撮った写真とは余り関係のない話になってしまったが)写真表現が成立する理由として、それだけを全面的に支持する訳ではないが、人間の欲求としてそれを全面的に支持する。荒木経惟も同じような事を言っているが、彼は舞台を創ったりもする。森山大道や中平卓馬はどうだろう。考えれば切りがない。別に批判をしているのではなく、僕が自分の中で区別整理したいだけなのである。今自分が見ている世界や人々以外に凝視すべきものなど有り得ないし、そうであれば、何をどうすれば良いのだろう。写真に限らず、それは僕の命題であるように思われる。