近所のパン屋へ続く露地の途中に、初夏の頃になると庭一杯に紫陽花を咲かせる古い民家が在る。木造の小さな門と垣根から零れるように咲き誇る色違いのグラデーションを、毎夏眺めるのが数年来の僕の密かな楽しみである。

 先の土曜日。暫くの間行っていなかったパン屋へ行こうとその露地を歩いたら、紫陽花自慢の古い民家は取り壊され、新しく建てる家の為のコンクリート基礎が既に打ってあった。
 僕は唖然としながら、その更地となった空間を見つめていた。もう、あの優しげな色に彩られた庭を見る事が出来ないのだ。寂しいやら、悔しいやら、である。
 僕は部屋に戻り、これまでに撮ったフィルムをひっくり返し、あの民家の写真を探した。きっと残っているはずだと思ったのだ。しかしながら残ってはいなかった。よくよく思い出してみれば、その露地は狭く、どうしても庭全体を具合良く収める構図が見つからずに、毎年諦めて紫陽花に近寄って撮っていただけだったのだ。紫陽花の向こうには縁側が在り、人の気配がする時にはカメラを向ける事を躊躇する事も多かったので、十分に構図を探す事が出来なかったのだ。

 失われてしまった光景というのは、どうしてこうも後悔の念を植え付けるのだろうか。勿論記憶には残っているので、思い出す事は出来る。しかし記憶でしかないのなら、自分の都合の良い解釈で描き換えられ、不必要に甘美な色が加味されてしまう。現実に質量を持つ存在の確かさと、その存在の凛々しさというようなものは思い起こす事が出来ない。