その時二階の下宿の二十五歳の早稲田の大学院の加藤さんが顔を出して「これは、これは。今日は一段とお美しい」と声をかけたら、四十の叔母さんは「あーらいやだ、加藤さん」といやに若々しい声を張り上げた。あなたはお腹の中で「何勘ちがいしてるの。二十五の加藤さんは四十のあなたにお美しいと言ったんじゃなくて、二十のこのわたしに言ったの」と思っていたでしょう。
 そう思ったあなたが今でも私は恥ずかしい。田村正和みたいな加藤さんは、四十の叔母さんに言ったのです。ハンサムでプレイボーイな美青年は、正しい感受性というものを持っていたのです。
 白い割烹着を、きりっと紺と灰色のたて縞の和服の上につけた、背のすらりとした四十の叔母さんの成熟した色気とか人間性というものはあなたには見えない。若さが全てだと何の根拠もなく、にきびだらけでうす汚いジーンズ、体全体が不機嫌とギスギスした不協和音を出している女子学生など、女の仲間にさえ入っていない。その鈍感な思い上がりが若さというものです。
 神様は、その様にこの世をお創りになった。若さというものは身勝手な単純な無神経を持ってしか生き抜くことの出来ないものなのです。見えない未来に、幻想を抱き、右も左も腹を立て、同じ年頃の無神経な友達とだけ共感し、それに共感しないものは切り捨て、二言目には「古いんだよ」とはき出し、傍若無人に、街にくり出して行き、この世に、一歳の赤児も七十の老婆も病んでいる青年がいることも見えず、そして満たされることもなかった。そしてどう使っていいかわからないエネルギーだけを持っていた。あなたはそれでも無我夢中に絵を描き、貧しい才能におびえたり、目をつぶったり、いつか現れるべき好もしい青年の出現を待ちながら我が身の容貌に絶望し、それでも物欲しげにキョロキョロとあたりをうかがっていた。あーいやだ、見たくもないよ。二十歳のあなたなど。

佐野洋子著『私はそうは思わない』ちくま文庫 1996年 pp.185-187