軽井沢は由緒ある古い金持ちだけの別荘地で今は若者であふれ返っていて、本当の金持ちは苦々しい思いでいるそうだが、北軽井沢は開拓農村で誰も苦々しい思いをしなくてもよい。牛がモウモウ鳴いているし、時期になると肥料の匂いが広々と匂ってくる。軽井沢から車で四〇分位山を登る不便なところであるが、夏は登った分だけ涼しい。冬も登った分だけ寒い。
 私はどうしてここに家を建ててしまったのか理解に苦しむ。私は脳の病気で、その病気は大きな決断を決してしてはいけない(例・結婚、あるいは家を建てることなど)とどの本にも書いてあった。友人の娘の要子ちゃんが設計してくれた。
 気がついたら建っていた。何だかストーブだけにやたら熱心になった。本当はストーブなんか必要なかったのかも知れない。床暖房を要子ちゃんがすすめてくれたからだ。でも私は子どもの頃から炎を見るのが何より好きで、人の家の風呂までたきに行っていた(昔はみんな風呂に薪でたいていたのだよ)。放火魔になる可能性は充分にある。
 要子ちゃんと私は趣味が合っていて、その趣味はフツウに尽きている。オシャレに見えることが大嫌いなのだ。ストーブのパンフレットを見て二人で「これ」と同じものを指さし「男もこれ位シンプルで丈夫そうなの居ないかね」と笑えて来た。
 出来上がったら、私はいたく北軽井沢が気に入った。そして一年中住むようになった。一年中住むと冬が一番好きになった。
 そして毎日そこに居ることが、何よりも大事なことがわかった。遅い春山がグレーがかったピンク色にふくらんで来る。山が笑いをこらえている様に見える。そして若芽は一晩で一センチ位も伸びることを知った時驚いた。不思議なことに毎年驚くのだ。驚きは喜びである。その喜びはタダなのだ。庭のフキノトウもタラの芽もタダなのだ。音もなく降りつもる雪をボケッと見ている陶酔も、一面の銀世界もタダなのだ。私がストーブをたかないのは七月と八月だけだった。私は毎日薪を放り込み踊る炎を見つづけて、炎が大きくなるのを楽しみに、ストーブにへばりついて汗をふいていた。そして残念なことに薪はタダではなかった。
 そして、ストーブは実に有能だった。よく燃え、厚いぼってりしたイモノは健気に熱をたくわえ、どんな小さな火種からも、再び立ち上がり、雄々しいのだ。
 最初の冬は家の中はほとんどサウナだった。そして風邪ばかりひいていた。
 ドレッシングをかけて食べたい程の若菜の季節が移り木々が深い緑色になると下界は猛暑である。猛暑になると沢山友達が来てくれた。ベランダで朝食など食べると「ヤダ避暑地客みたいに気取って見える、恥ずかしい」と私は思う。しかし本当に涼しい。テレビを見て、東京から遊びに来てくれた人に「ホラごらん、東京三九度だってさぁ」。私の夏の楽しみは下界が暑いということである。
 私の村も、古い別荘地で、七月と八月は、閉じていた家もあけて人が沢山来る。そして八月の末は誰も居なくなる。一年に一度、会う人達も居る。岸田今日子さんとか長嶋有君とか古道具屋のニコニコ堂とか。いかにも避暑に来たという友達と行ったり来たりすると私も避暑地にいるんだと上ずった気分になる。
 又シーンとした生活が始まる。
 そして紅葉の季節になる。私は紅葉がこんな金らんどんすだと知らなかった。金らんどんすは少しずつどんどん派手になる。空はますます深く青くなる。こみ上げて来る幸せな思い。この幸せタダである。最後にから松の金の針がサァーッと降ると秋も終わる。
 そして私は又ストーブにへばりつく。
 雪の中車をころがして農家のアライさんちに行く。冬になると友達はアライさんだけになる。又風邪ひいたと言うとアライさんが「思うに佐野さんちはちぃと家の中が暑すぎるで。それで風邪ひくだよ」。

佐野洋子著『問題があります』ちくま文庫 2012年 pp.192-195