朝八時、通勤電車の車両は暖かく心地が良い。この季節では布団の中と風呂の中、そして電車の中に身を置く事をとても幸せに感じる。誰しもが黒っぽいウールの外套に身を包み、皮や毛糸の手袋をはめて、分厚く大きなマフラーで顔を半ば覆い隠すようにしている。車両の彼方此方から咳をするのが聞こえてきたり、くしゃみをしたりしている。誰かが新聞を広げているのかカサコソと音がする。耳を澄ませば、隣で吊革に捕まっている男の文庫本の頁を捲る音さえ聞こえてきそうである。幸いな事に僕の近くでイヤフォンを耳の穴に突っ込んで音楽を聴いている者は居ない。僕が電車に乗っている時間は約20分。もしこれが一時間も続くようならもっと幸せな気分になるのだろうな、と思う。電車が河を越える。水面の煌めきに目を細める。広くなった空から差し込む朝日が、僕が手にした文庫本の活字を照らす。