日本でも一九二〇年代は、デフレはおだやかなものにとどまっていましたが、一九三〇(昭和五)年と三一年は消費者物価の下落率は一〇%台にも達しました。この強烈なデフレにともなって、一九三〇年と三一年の実質GNPの成長率は大きく低下しました。のちに歴史家は、一九三〇年から三一年にかけての不況を昭和恐慌と呼ぶようになります。
 このときのデフレでもっとも大きな打撃を受けたのは農村でした。コメなどの農産物価格がほぼ半分になり、繭などは半分以下になってしまったからです。

 (中略)

 農産物の価格が半分から半分以下になってしまったのでは、いくら何でも農民は暮らしていけません。そこで、農村では生活できない人々が大量に都市へと流出しました。しかしデフレ下では、勤め先をみつけることは望みえず、失業者が増え、賃金は低下し、都市の人々の生活もまた困難に陥りました。
 企業は大幅な人員整理と賃金の引き下げを実施しました。温情主義的で円満な労使関係を誇っていた鐘紡ですら、賃金の四割カットが発表されると、大ストライキが発生しました。
 農業収入が減る一方、紡績や生糸産業も不況のため、娘たちは工場へ出稼ぎに行くこともできなくなり、農民は頼母子講や高利貸しから借金するしかありませんでした。少なからずの農家が借金返済のために娘を身売りさせなければならないという、苦境に追い込まれました。
 このような農村の窮乏を、青年将校たちは農村出身の新兵を教育するうちに知ることになります。一九三一年の三月事件にはじまる青年将校のクーデター参加、その後の一連の政治家暗殺事件発生は、こうした青年将校たちの農村・農民への同情と正義感に基づくものが多かったのです。
 デフレ不況を引き起こした当時の首相・浜田雄幸は、右翼青年によって東京駅で狙撃され、その傷がもとで死亡しました。浜口内閣の蔵相・井上準之助も、一九三二年二月に、そのときにはすでに蔵相を退いていましたが、選挙応援演説の最中に、血盟団によって暗殺されてしまいます。

岩田規久男著『日本経済にいま何が起きているのか』東洋経済新聞社 2005年 pp.20-22