ダライ・ラマは二〇〇八年に七三歳になるが、いたって健康のようだ。しかし、仮に逝去したらどうなるのかということを、考えざるをえない。チベット仏教では、ダライ・ラマは転生すると考えられており、第一四世が逝去すれば、その転生者の子供を捜すことになる。その選定には何年もかかることが多い。しかし、誰が選ばれるにせよ、あらたに三つの厄介な問題が生じる。
 ひとつ目の問題は、二〇〇七年には中国政府が、チベットの高僧のすべてを政府が取り仕切るというあらたな規制ををもうけたことだ。つまり、候補者が転生霊童であるかどうかを最終的に決めるのは中国政府ということになる。いい換えれば、無神論者の中国共産党幹部が、チベット人の宗教上の決断を支配する。しかし、チベット仏教支配のために、清朝もおなじような規制を行っているし、中国政府は中国カトリック教会の司教の任命権も握っている。問題は、自分たちの宗教指導者に関する中国政府の決定を、チベット人が受け入れるかどうかということだ。中国のこの方針に対して、第一四世ダライ・ラマは、死ぬ前に第一五世ダライ・ラマを指名することを考えていると述べた。ふたつ目の問題は、自分は中国の支配する土地には転生しない、とダライ・ラマが明言していることだ。信者がこの言葉に従うとすると、中国領内で見つかった転生霊童は受け入れられないことになる。三つ目の厄介な問題は、第二位の高僧であるパンチェン・ラマが、中国政府の後押しで新ダライ・ラマ選定に大きな役割を果たす可能性が出てきたことだ。だが、一九八九年に第一〇世パンチェン・ラマが逝去すると、ふたりの転生霊童が選ばれた。ひとりはチベット亡命政府の選定委員会が選び、ダライ・ラマが承認した転生霊童であり、もうひとりは中国政府主導の探索委員会が選んだものだった。ダライ・ラマの選んだ転生霊童は、家族とともに拉致されて消息を絶った。おそらく政治犯として囚われているものと思われる。

ビル・エモット著/伏見威蕃訳『アジア三国志〜中国・インド・日本の大戦略〜』日本経済新聞社 2008年 pp.295-296