狙われた円爾は謝国明に助けを求める。謝国明は宋出身で、小呂島(福岡市西区)を貿易の基地にし、日本人女性を妻に持つ博多網首。義侠の人でもあった。円爾を櫛田神社近くにあった自宅にかくまったという。一連の騒動は、双方にとって貿易の利権がどれほど大きかったか、博多がいかに重要な位置にあったかを物語っている。
 謝国明は、禅への信仰心も厚く、多くの足跡を残している。
 JR博多駅近くにある承天寺は、謝国明の援助によって円爾が建立した。円爾の恩師である宋の無準師範の径山万寿寺が火災に遭った時は、木材千枚を贈った。その五年後に承天寺が焼失。謝国明はたった一日で、仏殿など一八の建物を再建させたと伝えられる。それほどまでに禅に帰依していた理由は何か。「故国を離れて暮らす網首たちにとって、禅宗は心のよりどころだったのでしょう」と大庭康時主査はみる。しかし、それだけではない。禅という共通の文化を持つことが、宋とのつながりを強固にし、間違いなく貿易事業のうえでも大きな利益を生んだ。若き日、東シナ海の波濤を越えて博多へやってきた謝国明。文化人であり、並外れた財力を持つ貿易商人だった。後に登場する博多の豪商たちの原形をみる思いがする。
 飢饉になったある年の大晦日のこと、謝国明は、飢えた人々を承天寺の境内に集めて「そばがき」をふるまった。これが年越しそばの起源になったとも言われる。
 弘安三(一二八〇)年、八十八歳で没したと伝えられる。墓は承天寺近くにある。墓のそばに植えられた楠が巨木になったことから、「大楠様」と呼ばれるようになった。毎年八月の命日には、遺徳をしのぶ「千灯明祭」が営まれている。

読売新聞西部本社編『博多商人〜鴻臚館から現代まで〜』2004年 pp.20-21