応仁の乱(一四六七-七七)で京都が荒廃し、公家をはじめ多くの住民が戦乱をさけて地方に下り、文化の地方伝播に一役かったことは、よく知られている。大山崎離宮八幡宮の油神人の九州下向も、当然ありうることだ。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 p.66