一月前の事。叔父(母の弟)から、祖母が調子を崩しているとの連絡があった。御年百を超える祖母は長らく介護施設に入所しているのだが、少し前から物が食べられなくなって来ているとの事だった。そして当人も、自分もそろそろみたいだ、というような事を口にしているらしい。
 前回祖母を見舞ってから数ヶ月が経っていた。理由は家業が忙しかったり、父の容態が悪くなっていたり、とにかく母が行きたがらなかったりと理由は様々だ。その間にも、定年を迎えたばかりの叔父は祖母の様子を伺いにせっせと通い詰めており、時折近況を知らせて貰っていた。そういう状況なので母は何処か安心していたのだと思うが、さすがに今回はすぐに見舞いに行くことに決めたようだ。そして今回は父も同行すると言う。僕ら兄弟は、母が見舞うときには誰かしらが同行しているが、父はもう長く会っていなかったはずだ。しかも、自分もすでに棺桶に足の小指の先くらいは突っ込んでいるような状態なので、何かしら思うこともあったのだろう。
 恐らく祖母は、その施設の中では一番年上である。しかし取り分け元気な方であるようで、自分で歩いて用は足せるし、食堂へも自分で行ける。同施設内には祖母よりも10歳20歳若くても、すでに車椅子を使わなければ移動は出来ず、食堂のテレビの前で死にそうな顔をしながら過ごしている老人がたくさん居た。「あの人達と一緒にいたら、こっちまで辛くなってくる」と祖母はよく溢していたらしい。
 しかしそれは以前の話だ。今ではそうは出来なくなってしまったのだ。知らせを受けた三日後に、我々家族は祖母を見舞うべく車に乗り込んだ。

 祖母が入っている施設は筑後川の側に在る。我々は県道を北上した。その日は天気が良く、県道の両側に建ち並ぶ家々や商店について話が弾んだ。あれは誰それの家だとか、あの店は以前はなかったとか、かつてのあの店は無くなって残念だとか、父母を中心にして、僕や弟が時折意見を差し込む感じでずっと話していた。これから親戚の見舞いに赴こうとするような神妙な雰囲気ではなく、僕ら家族は浮かれていた。父があちこち手術を繰り返し、歩行が困難になり、排泄にも少し支障を来すようになってからは遠くまで出かけることを控えていたのだ。なのでこれは久しぶりの外出で、しかも家族揃って(実際には末弟がいなかった。しかし彼は今フランスに住んでいるので不可能)の外出である。
 やがて、父が手術で何度も入院した医大の横を通り過ぎ、堤防を上って橋の上に出た。途端に視界が開け、河川敷を含む河川の全貌が眼前に広がった。青空と、輝く川面と、芝生で覆われた河川敷しかない光景であったが、とても美しい景色だった。僕ら家族は感嘆の声を上げ、「近所の川じゃあこうはいかないよね」とか「田主丸の方にもこんな景色を見る事が出来る場所があるらしい」とか「今度は是非ともそこに行きたいよね」というようなたわいもない事を、実際には方言で喋った。
 僕は心密かに打ち震えていた。さっき過ごしたほんの一瞬。あれは恐らく僕が小学生の時以来初めて経験する、我が家族の最も幸せな一瞬であったであろう。我が家は、僕ら兄弟が思春期を迎えた頃に意思の疎通が行われなくなり、共に過ごす事が困難になってしまったので、その後はロクな時間を過ごして来なかった。大人になったらなったで、住む場所がバラバラになってしまったので、たまの帰省で顔を合わせる程度だった。だからこんなにも心から和やかに笑い合う日が訪れるとは思ってなかった。僕が三年前に帰福した理由の一つに、もう一度家族というものをやり直す、というと大袈裟になるが、短くてもいいから家族らしい時間を過ごしてみようと思ったのだった。僕はそうして来なかった事がずっと気掛かりであったし、なんと僕はそれまでの二年ほどは家族と音信不通状態であったのだ。それまでの自分の行いを反省をしたというより、自分のやり残している事をようやく実行する気になったという感じだった。なので今回は、僕の想っていた事を少し実現出来たようで嬉しかったのだ。つくづく末弟が居なかった事が残念で仕方がない。

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 祖母は今日、介護施設から病院へと転居した。施設は看取りまですると言っているようだが、祖母は内蔵に病気を抱えているので、その点の医療的な対応が難しいとの判断で病院へ移る事に決めた。要は終末医療である。祖母の、百年以上も生きた女性の人生がもうじき終わる。