ひきこもり事例では両親に対して密かに「恨み」を持っていることがあります。例えば「こんな惨めな自分が今あるのは、育てた親の責任である」「本当は行きたくない学校に、無理に行かされた」「あの時無理にでも学習塾に入れてくれれば、皆に遅れることはなかった」「いじめられて苦しんでいる時に、気づいてくれなかった」「近所の環境が悪かったのに、引っ越しをしてくれなかった」「中学生からやり直したい。時間を元に戻して欲しい」などのような。
 こうした理不尽とも思える非難の矛先を向けられた時、それでも冷静でいられる親は少ないでしょう。「それは事実ではない」とか「そんな理屈は通らない」といった、「正しい反論」をつい、したくなってしまうかもしれません。しかし、ここでも「正しさ」は、さして重要なことがらではありません。とにかくいいたいことはさえぎらずに、最後までいわせ、耳を傾けること。すでに遮って反論したり、無理に話をそらしたりすべきではないのです。たとえ本人の記憶が不正確で、明らかな事実誤認があったとしても、本人がどのような思いで苦しんできたか、まずそれを丁寧に聞き取ることに意味があるのです。
 もちろん「いつも同じことを、くどくど聞かされるので参ってしまう」とこぼす家族も、少なくありません。しかし、そのような家族は、しばしば本人にいいたいことを十分にいわせていません。本人が最後の言葉をいい終わるまで、じっと聞き役に回り続けることは、かなり困難なことです。「何が正しいか」ではなくて、本人が「どう感じてきたか」を十分に理解すること。それが誤った記憶であっても、「記憶の供養」をするような気持ちでつきあうこと。これは本当のコミュニケーションに入る手前で、どうしても必要とされる儀式のようなものです。
 ただし、注意すべきなのは、「耳を傾けること」と、「いいなりになること」はまったく異なる、という点です。当たり前のようですが、しばしば混同されがちなことです。例えば、、本人が腹立ちのあまり、謝罪や賠償を要求してくることがあります。こうした要求に対しては、原則として応ずるべきではありません。私の推測では、こうした要求は、訴えに対して十分にとりあわなかった家族に向けられがちのようです。訴えを家族に届かせるために、より強烈な表現が選ばれた結果の、謝罪・賠償要求なのです。ですから、やはり大切なことは、本人がほんとうに「自分の気持ちを聞き取ってもらえた」と感ずることです。そのように感ずることで、格別のことは何もしなくても、恨みや要求は次第に鎮まっていくものです。

斎藤環著『社会的ひきこもり〜終わらない思春期〜』PHP新書 1998年 pp.141-143