先日のエントリで母の事を書いていて思い出したのが、リリー・フランキーの「東京タワー」の中の一節。産み育てた子供達が皆家を出、其処に独り残された二人の祖母の話だ。一部を少し引用すると。

 筑豊のばあちゃんは相変わらずひとりで、黄色くなったジャーの中の御飯を食べていた。(中略)誰も居なくなった家で、黄色くなった御飯を食べながら、心臓病の薬を飲み、映りの悪くなったテレビを観ている。ばあちゃんにとって、一日のどんな時が楽しいのだろう。人生の何が楽しみなのだろう。

 その後に続く本文にも同じような事が書いてあるのだが、そんな祖母の後ろ姿を想像しては、僕は自分勝手にやりきれない気分に陥ってしまう。父方の祖母は既に亡くなっているが、母方の祖母は、一昨年に伴侶を亡くし今は独りで暮らしている。母の末弟が近くに住んでいるのでちょくちょく様子を見に行ってはいるし、その叔父や母が一緒に暮らす事を薦めても頑としてその家に留まる考えを変えないと聞く。
 長い年月を生き続けた一人の人間が自ら選んでそうしている事だし、僕のようなまだまだものの解っていない人間がどうこう言える事ではないとは思うけれども、切なく、非常に無力感を伴う。祖父が亡くなった時、僕は仕事をどうしても抜ける状況ではなかったので、別れを告げる事が出来なかった。そして前年の末は、帰省はしたのだが、著しく体調を崩した為に祖母の元を訪れる事が出来なかった。つまり独りになってしまった祖母には一度も会っていない。

 そんな経験をすると、明確な答えなど見つかるはずもないと思ってはいても、つい「一体どういう状態での家族の在り方が一番正しいのか。」などという事を考えてしまう。事情は千差万別。それが家族であれ何であれ、人と人との関係は「思うようにはいかん。」のが常であり、もし健康的な繋がりを保てそうな気配がするのであれば、それはきっと守るべきものである。僕は今そんな風に考える。

 タイトルに大層な事を銘打ってしまったが、実際問題、僕に女の人生について語れる訳はない。ただ、親しい人間の寂しそうな姿を見るのは辛い。それは勝手な思いこみだし、根拠としてはそれだけしか無いのだけれど、とても大事な事のような気もしている。