日本は隋唐を模範にして律令国家を建設した。古代中国では、馬、牛、羊、豕(豚)、犬、鶏を六畜(六つの家畜)として法に定めた。家畜は使役に使い、食料になり、神への捧げものになる。人が所有する財産だからトラブルも起きる。そこで六畜の取り扱いやトラブル時の罰則などが定められた。律令国家を目指す日本にも当然、六畜の法と概念が入って来た。
「人を噛む畜産は(他人が見てもわかるように)両耳を切る」
「狂犬を殺さなければ笞三十」
「畜産がよその物を壊したらその減価を償え(弁償しなさい)」(『厩庫律』)
 このほか、こまかい規則がいろいろあるが、のちに朝廷や伊勢神宮で問題になった六畜の穢れに関する法律はまだ定められていない。
 平安時代の天皇は桓武、平城、嵯峨、淳和、仁明と続くが、平城を除く歴代天皇は大いに狩りを好んだ。狩りをするということは肉食をしていたということだ。死者の供養のため、世の中の平安祈願のため、動物たちを放生することはあっても、隋唐と同じように肉食と穢れは無縁と考えられていた。

 (中略)

 仁明の次はその子・文徳が天皇となるが、この時から天皇が直接、遊猟に出た記録が消えてしまう。さらにその子・清和天皇の時代から六畜による穢れの記述が続々と現れる。天皇の母は太政大臣・藤原良房の娘。天皇は幼少時、外戚良房のもとで育ち、九歳で即位した。良房は摂政となって政治の実権を握り、天皇の神聖化、清浄化を進めた。

仁科邦男著『犬の伊勢参り』平凡社新書 2013年 pp.114-116