東京は新宿西口、淀橋村の後ろ側、とあるビルの二階に在るカフェで遅い昼食を摂ろうと、スパゲティ・アラビアータを注文した。料理が運ばれてくるまでの暇潰しに、デイパックから本を取り出して読み始めた。暫くして一組の男女が僕の目の前のテーブルに案内されてきた。男は40代後半から50代辺り。女の顔を見る事は出来なかったが、服装や声からすると20代半ば辺りだろうか。彼らはどさりと椅子に腰を下ろすなり、さっきまでの口論の再開とばかりにやおら話し始めた。聞こえてきた言葉の中心は「幸福」について。それを喧嘩腰で喋っている。嫌な予感がするので聞きたくなかったのだが、何しろ声が大きいのでどうしても耳に入る。本に集中しようと試みたが果たせなかった。そしてその後、男の方は聞き役に回ったらしく、時折相づちを打つ程度に大人しくなった。

 この二人は一体どういう間柄なのだろうか。女はため口で喋っているので上下があるようには見えないし、かと言って恋人同士のような甘さも見当たらない。よく判らない。女の話は家族との関係性についての事柄に移っていく。そしてそこから女は更に興奮し始め、「そんなに育てるのが嫌なら、捨てて欲しかった」という言葉から連想または派生するあらゆる呪詛を吐き始めたのである。吐き出される全ての言葉は攻撃性を帯び、時折高笑いが混じる。今現在一体誰を話しているのか。呪わしき記憶に向けてだろうか。彼女が言葉を発する度、僕が頬張るスパゲティ・アラビアータから味が失われていく。改めてそちらのテーブルを見遣る。男の顔は精気を失い、明日にでも死んでしまうのではないかと思ってしまう程に疲労の影が差していた。しかしそんな男の状態に気付かないのか、女の呪詛は続き、あるで暴風雨が吹き荒れているかのようだ。誰が悪いなんて思わないけど、嫌なものを見た。そう思った。

 床が大きく揺れた。思わず店内を見廻す。周囲の客達や店員達も動きを止め、僕と同じように見廻している。「え? 地震?」女が声を上げる。男が耳打ちしたようだ。「私気付かないんだよねー!いつも『あんたが揺れてるからでしょー』て言われる!」僕もそう思う。あなたはいつも揺れているのだろう。料理を食べ終えた僕は、早々に店を出た。

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 それから遡る事二時間。僕は上野公園に居た。長谷川等伯の展覧会を観に行ったのだ。混雑した館内から抜け出し、園内を歩いたところ、20代半ばくらいの息子らしき青年と、50代くらいの母親らしき女性が、妙に身体の大きいブルドッグを三匹連れているのに遭遇した。ペットとして飼っているのかそれともブリーダーをやっているのか判らないが、均質な体つきで毛並みも綺麗だった。ま、それはいいとして、面白かったのが、そのうちの一匹を台車に乗せて運んでいたのだ。別に怪我をしている訳でもなさそうだったのだけれど、何故かそうしていた。そもそも台車は一体何の為なのだろうか。
 僕が気に入ったのは、その台車に乗せられたブルドッグが妙に誇らしげだった事だ。四肢を伸ばしすっくとした出で立ちは、何処かしら滑稽で、何となく勇ましかった。その眼差しは真っ直ぐに前方を見つめ、そのままの姿勢で陽が傾き始めた公園をゴロゴロと運ばれていくのだ。良いものを見たな。そう思った。

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 どうせ同じ出来事に遭遇しなければならないのなら、この順番であって欲しかったなあ。と思う小春日和の日曜日。