今日はロスト・イン・トランスレーションについて他の人達がどんな事書いているのか検索して回っていました。人ぞれぞれ、気に入った気に入らないビル・マーレイがどうのこうの HIROMIX がどうのこうの藤原ヒロシがどうのこうの並んで観るほどではないレンタルで十分などなど・・・僕を含め観て「感じた」個人的な都合を羅列しているだけである。別にそれで悪いという訳ではないが、5エントリも読めばもうお腹一杯。そんな中ちょいと印象に残るエントリが一つ在りました。灯台もと暗し、自分んとこにリンクしてる Sekiya 氏のエントリ(一部ネタバレ)にこういう記述が。

 普通に『東京は人が住むところじゃない』とかいう台詞が出るように、普段こんな状態、街としておかしいなと思いながらも日常は進んでいて、とりあえずそういう疑問はまた明日!って先延ばしになっていく。そういう日常と、非日常のピュアな出会い、ときめきというスパイス。でも若い頃ってそういうことが日常だったよな、と振り返ってもキスどまり。そして先送りの日常に戻っていく。その舞台となった先送りしながら歪んでいく東京はもはや、しょうがないのかもしれない。

 先送りの日常、という言葉が腹にズンと来ます。選択する事を放棄した惰性の日常。何も選択しないという事は、取り敢えずは何も失わないという誤魔化し。未だ日常の域に達していない非日常的な選択肢は、それを失っても最小限の痛手で済む。現実ではなく、数ある可能性の中のたった一つを消去したに過ぎないから。やがてそれは白く靄がかったカーテンの向こう側へ仕舞い込まれ、甘い唾液を提供する思い出となる。痛みと伴う現実として引き込むより、自ら手放した可能性として振り返る方を選び取るという術。失わず、何も手に入れられないという法則。Sekiya 氏は東京という街を指して書いていますが、それはあらゆる側面に蔓延しているように思えます。少なくとも僕の日常には。くるりの ” ワンダーフォーゲル ” という曲の歌詞にこう在ります。

ハローもグッバイもサンキューも言わなくなって
こんなにもすれ違ってそれぞれ歩いてゆく

 痛みもなく、喜びもなく、ただ繰り返していく日常。やがて無に帰すまでの長い道のり。私の手のひらには砂粒一つ残らない。