DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 日本橋をはじめとして、一般に下町は保守的である。もちろん、町人を最下層に置く幕府の厳しい身分制度にたいして、不満はあった。この不満をぶつける手段として、下町の文芸や芝居には諷刺的性格が強く、山の手の武士階級を揶揄して溜飲をさげる気風もあったけれども、幕府体制の脅威となるほど強力なものではない。江戸っ子は将軍様のお膝下にいることを誇りとし、そして代々の将軍のほうでもまた、催事の折など、町人にたいして鷹揚に配慮を見せるだけの知恵はあった。やがて、実際に幕府の脅威となる勢力が現れることになるが、これは遙か西南の地方から迫った脅威であって、江戸っ子は、この田舎侍たちが新しい権力者として乗り込んできた時、旧幕府時代の武士にたいするよりもはるかに強い憤懣の念を抱いた。
 江戸っ子は独りよがりだと批判することはできるかもしれない。いわばプロの江戸っ子の末裔は今日でもいるけれども、この手の連中の自尊心はむやみに強く、ほとんど不作法とさえ呼べるだろう。世界には下町と下町以外という区別しかなく、そしてもちろん、下町以外はものの数にも入らない。谷崎潤一郎は生粋の江戸っ子で、明治十九年、日本橋の商家の生まれだけれども、仲間の江戸っ子を好まなかった。谷崎に言わせれば、江戸っ子は弱虫で、始終不平ばかりこぼし、概して実行力がない。しかし江戸時代の下町は、きわめて洗練された高度の趣味を具えていた。その後の時代の推移を見れば、この高度の洗練を維持してゆくには排他性が必要だったことも頷ける。とすれば、この程度の欠点はむしろ安い代償と言うべきかもしれない。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.24-26

 昔の酒屋には計り売りの酒というのがあったが今の酒屋にはない。今の酒屋をのぞくと銘柄ものの瓶がずらりと並んでいるばかりである。昔の酒屋にもそりゃ銘柄ものもあったけれど、そんなものは、特別のおつかいものに使うくらいで、普段は計り売りの酒を飲んでいた。
 この計り売りの酒というのがそこの酒屋の酒ということで、つまりそれぞれの酒屋の親父が、それぞれのルートや顔で、安い地酒を数種類集めてきて、それを各自の味覚臭覚でブレンドする。つまり酒屋一軒一軒が、みな違った味わいの酒を樽に入れて計り売りしていたということである。
 こんな楽しいことが、今では酒税法の関係でできなくなってしまったと聞いたことがある。
 酒屋それぞれのオリジナルの計り売りの酒だから、いくや気安くつき合っている酒屋でも、それだけでその店から買うというわけにはいかない。酒飲みは、それぞれの好みの酒屋を探してそこから買うということになる。

渡辺文雄著『江戸っ子は、やるものである。』PHP文庫 1995年 pp.151-152

 ところで、「そば屋の風邪薬」というものをご存知だろうか。
 ちょっとした風邪をひいて鼻をグチュグチュいわせていると、どてらをかかえた親父に「おい! 来い」とそば屋に連れていかれる。
 そば屋の壁にはたくさんの薬包みがはられた「そば屋の風邪薬」と大書きされた紙が下げられていて、その一つがもぎとられ、私の手に渡される。しぶっている私に、「おい! のめ!」とちょっとこわい顔をして「かけともり」とそばを注文する。風邪薬を飲んで、熱々のかけをすすり出すと、背中にどてらがかけられる。そんな私を、もりを肴にチビチビとやりながら親父はじっと見つめている。そのかけを食べ終える頃には、額にじっとりと汗がにじむ。
「さ、早く帰って寝ろ! どてらかぶってかけだして行くんだぞ!」
 親父の方は、いつか話し相手をみつけて、お銚子のおかわり。
 この風邪薬、とっても効いた覚えがある。病院の風邪薬ではなくて、そば屋の風邪薬。
 できればそば屋の風邪薬で風邪を治したいと思うのは、中年男のセンチメンタルだと、やはり言われてしまうのだろうか。

渡辺文雄著『江戸っ子は、やるものである。』PHP文庫 1995年 pp.88-89

 まったく変な遊びがはやってたもんだ。ドロダンゴ。土でダンゴをつくりその強度を競いあう。
 もう少し具体的にいうと、ジャンケンで負けた方が、砂場の砂の上に、自分のドロダンゴを置き、勝った方が、その上に自分のダンゴを落下させる。もちろん割れた方が負け。割れなければ代わり番こにくりかえす。
 実に単純な遊びだが、子供達はその土ダンゴの強度を高めるために、ちょっと大げさにいえばそれこそ命がけであった。材料の土とネンドと砂の割合をいろいろ変えてみたり、でき上がったダンゴを土にうめてみたり、またそのうめる所をいろいろ変えてみたり、それこそありとあらゆる試みにいどんだ。
 勝ちすすんだダンゴは、いつも掌中にあるため、つやつやと黒光りして、それはもう間違いのない宝物であった。このドロダンゴ(と何故か呼んでいた)の重要な材料がイイネンドなのである。

渡辺文雄著『江戸っ子は、やるものである。』PHP文庫 1995年 p.70

 家族の機能強化を狙った日本型福祉社会論は、時代の流れに逆行し、挫折したものとして批判されることが多い。しかし、ケア労働が国家からアウトソースされた先が、地域福祉を担う主婦パート層であったことを考えると、それは、「サラリーマン/専業主婦」体制を揺るがすことなくケア労働を社会化し、社会保障費の抑制という当初の目的を達成したという点で、ある程度の成功をおさめたといえるだろう。家族だけに話をとどめず、地域社会にまで目を向けると、低賃金なケア労働を地域の主婦層が担うという構図は、基本的には日本型福祉社会論の目指すところでもあった。
 このことは、1976年に策定された日本型社会福祉論の「原点」である「昭和50年代前期経済計画」をみると一層はっきりする。君島昌志によると、この計画で描かれている国民の福祉の向上は、政府によって実現されるものではなく、個人、家庭、企業の役割や社会的、地域連帯感に基づく相互扶助によって達成されるものであった。(「福祉政策の転換に関する考察(1)『島根女子短期大学紀要』35号)。日本型社会福祉論の主な目的が家族の機能の強化にあったことは確かであるが、地域社会の役割にも期待がかけれらていた。そう考えると、家族のなかの主婦の役割が弱くなったからといって、日本型社会福祉論を失敗したものとして結論づけるのは早計であろう。主婦パートが担うケア労働の社会化は、十分に日本型社会福祉論の枠内で語りうるものである。
 その象徴が、主婦層を積極的にケア労働化してきた生協系の社会福祉法人であった。生活クラブ系の生協は、「共助」の理念のもと、介護保険施行以前の早い時期から事業のなかに福祉関連事業を取り入れてきた。「共助」の理念とは、いわゆる「アソシエーション」に仮託された理念であり、そこで目指されるのは、旧来の官僚制的なシステムのなかでは満たされなかったニーズの充足と新しい働き方であった。
 そして、その理念を担ったのは、組合員の女性、すなわち主婦層であった。「現代フェミニズムと日本の社会政策」(『女性学と政治実践』勁草書房)で「主婦フェミニズム」を批判した塩田咲子によると、1980年代とは同じ被扶養の主婦でありながら、リッチで時間を持て余している主婦、主婦の座を逆手にとって多様な社会参加をする主婦、趣味や実益をかねて働く主婦など、主婦の多様化が進展した時代であった。そのなかで、主婦のケア労働は家庭での労働から地域での労働へと移り変わったのである。
 すなわち、ケア労働とは、そもそも女性の、それも主婦のパート労働であり、その背後には、その主婦を扶養する配偶者がいることが前提とされていた。塩田によれば、1975年以降急増した主婦パートタイマーは、その70%が被扶養型の共働き世帯であった。それは社会政策上は専業主婦帯であり、性別役割分業の基盤でもあった。「会社に系列化された家族」のなかの被扶養者である主婦が担うケア労働。つまり、誤解を恐れずに言えば、この意味で、ケアの職場とは、労働者が独り立ちするための収入を得ることのできる、一般的な意味での「職場」などではなく、家庭の延長線上にある、理念先行型の「疑似職場」とでも呼ぶべきものであったと考えられる。

阿部真大著『働きすぎる若者たち〜「自分探し」の果てに〜』生活人新書 2007年 pp.68-71

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