DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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国立科学博物館付属自然教育園

 植物に囲まれないと堪えられない(この感覚は非常に理解し難いと思うが)と思い、先々週JR目黒駅に近い国立科学博物館付属自然教育園に行って来た。

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 これまで東京に在る植物園と言えば都立夢の島熱帯植物園東京大学大学院理学系研究科付属植物園(小石川植物園)などは時折訪れていたのだが此処には初めて来た。隣の東京都庭園美術館には来た事があったのだけれど。

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 敷地は広くそして開けた場所も少ないので、敷地の端に寄らなければ森に遮られて周囲に建つビルなど全く視界に入って来ない。森の中を歩き回っていてふいに空を見上げて「あれ、此処は何処だっけ」という感覚に陥る事が頻繁に有る。森林や湿地を歩いていると色々な懐かしい匂いがしてくる。樹木の匂い・落ち葉の匂い・草の匂い・池の匂い・土の匂い。かつての僕は一体何処でこのような匂いを嗅いでいたのかまるで判然としないのだが、とにかく不可思議で安心する。そして遂には此処に住みたいとさえ思うのであった。

絵馬

 先のの週末に明治神宮に参った。というか、表参道と新宿に用事があったのでその通り道として南参道から北参道へと抜けるだけのつもりが、つい御社殿へ足を向けてしまったのである。何やら今年は御社殿復興50年記念とかで鳥居の前にも提灯が釣られ、それをまるで壁のように並べていた。その物々しさに胸騒ぎを覚え僕はずんずんと参道を歩いた。まあでも、その日に何か催しがある訳でもないので参道に於ける様子はいつもと変わらない。外国人と日本人の比率は大体半々で、参道に両側から覆い被さる木々の枝々に遮られた陽射しが島を造るように地面に落ちていた。僕の少し前を歩いていた若い白人のカップル。女の長くうねった金髪に木漏れ陽が当てられ、その彫刻的な造形が一際目立っていた。

 御社殿に辿り着き辺りを一頻り眺めた後、何となしに絵馬が掛けられてている一角へ行った。これまで絵馬に興味を持った事は無かったのだけれど、ムカエマを思いだし少し眺めてみる事にした。因みに其処にも札が立てられていて「絵馬」の由来が書いてあった。

 奈良時代の『続日本紀』には、神の乗り物としての馬、神馬(しんめ、じんめ)を奉納していたことが記されている。しかし、馬は高価でなかなか献納できず、また、献納された寺社の側でも馬の世話をするのが大変である。そのため、馬を奉納できない者は次第に木や紙、土で作った馬の像で代用するようになり、平安時代から板に描いた馬の絵で代えられるようになった。Wikipedia

 余所で絵馬に注意を向けた事がないので比較するのが難しいのだが、此処に掛けられている絵馬は本当に多彩である。そもそもが日本語で書かれた絵馬は全体の半分くらいしかない。韓国語・中国語・英語・仏語・その他僕にはよく解らないがアラビア語だかペルシャ語のように見える言語で書かれた絵馬が数多く掛けられていた。観光に来たついてに「ノリ」で書いて行ったのだろう。一体何を書いているのか気になるところだが読めないものは仕方がない。英語なら少しは解るが面倒なので読まない。で、日本語で書かれた絵馬ばかりを読み進めていたのだが、結構皆さん真面目な事を書いてらっしゃる。中にはかなり切実な想いを書いている絵馬もあって、読んでいる僕の方が神妙な心持ちになったりしていた。さ、そんな中にもムカエマとは言わないけれど面白い絵馬はやはり在るようだ。

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 正確な意味でのムカエマを見つける事は出来なかったのだが、誰彼が書いた絵馬を見るというのはかなり面白かった。「今年中に世界一幸せな結婚をしたい」とか在ったが傍若無人度が今一つ。そう言えば、絵馬を読んでいる人というのは結構居て、その中の1/3くらいは写真に撮っている。大概は外国人なので、僕と同じような気構えで撮っているのかはかなり怪しい、というか居ない気がする。

荷風参り

 先日新橋界隈でLSTY氏と呑んだ際に「永井荷風は吉原は浄閑寺に葬られる事を望んでいた」という話を聞いたので少し調べてみたら、確かに荷風はそう望んでいたらしいのだが実際には荷風が父の眠る雑司ヶ谷霊園に墓は在るらしくて、浄閑寺には谷崎潤一郎ら42名が荷風を偲んで詩碑を建てたという事のようである。さっそく次の日に尋ねてみた。
 その日は秋分の日つまり彼岸の中日で、JR大塚駅から乗り換えた都電荒川線車両内は供花を手にした客で一杯だった。雑司ヶ谷駅の小ささと地味さに感心しつつ霊園に入る。これまで谷中や青山の霊園に足を踏み入れた事はあるが、何処も似たような雰囲気である。荷風の墓が霊園の何処に在るのか前もって調べておいたので直ぐに見つかるかと思いきやなかなか見つからない。先に小泉八雲や荷風の日記によく登場する成島柳北の墓を見つけてしまったので、取り敢えず墓石に手を合わせ荷風の墓を更に探す。ようやく見つけた荷風の墓は、実は調べておいた区画の隣の区画であって、三方を生け垣に囲まれ、父の隣に、父よりも大きな墓石に葬られていた。初めは花を持参しようかとも考えていたのだけれど、どう考えても荷風翁はそんな行為を嫌がる気がしてならないので僕は止めておいたのだが、供えられてから数日を経ているであろう花が飾られていた。僕は墓石の前に跪いて手を合わせ、それだけやれば気が済んだので霊園を後にする事にした。

 それから僕は浄閑寺に向かうべく三ノ輪橋行きの荒川線に乗った。ご存じのように都電荒川線は大変狭い路線敷地内をガトゴトと走っている。場所によっては手を伸ばせば両脇の民家の届きそうなところも在る。そう言えば江ノ島電鉄にも同じ様な箇所が在り、僕はそういう状況がとても好きだ。

 終点の三ノ輪橋駅を降り浄閑寺を探す。これも直ぐには辿り着かなかったのだが、途中で地図を片手に何やら探している老夫婦を見かけ、これはきっと荷風碑を尋ねてきたのに違いないと思い付いていく事にした。果たして僕はまんまと浄閑寺に辿り着き、荷風碑を探し始めた。どうにも境内には無さそうなので霊園に入ると、そこはもう墓石の展示即売会場かと思ってしまう程に墓がぎっしりと並んでいた。敷地などという概念はなくただ墓石が建ち並んでいるという感じ。こんな雰囲気の場所の一体何処に詩碑が在るのだろうと思いながら探していると、本堂の裏側、新吉原総霊塔の正面に在った。壁の御影石に彫られた偏奇館吟草の詩を読んでいると、先ほどの老夫婦がやって来た。
 僕は彼らに譲ろうと碑から離れた。最近特に思う。老人は老い先短く機会が少ないのだから、鉢合わせてしまった場合には出来るだけ譲らなければならない気がする。それから僕は境内で暫く過ごし、その内に先ほどの老夫婦が出て来たので僕は改めて荷風碑に戻った。詩碑を十分に眺め、それから僕は向い側の新吉原総霊塔に手を合わせた。この場所では一番多く花が供えられていた。壁に埋め込まれたこれまた御影石には花又花酔の川柳「生まれては苦界、死しては浄閑寺」の文字を眺めていると、二人の老女が花と水桶を手にやって来て霊塔を清め始めた。何となく、其処に居てはいけないような気がしてきて慌てて僕は立ち去った。名残惜しい気はしたがまた来れば良いのだと思って。そもそも何故名残惜しく感じるのかはよく解らないのだけれど。

絵画と気候

 歳をとってきたせいなのか、近頃興味を持つ絵画と言えば日本画ばかりである。昔、学生の頃には日本画には全く興味がなかった。僕が通っていた大学には存在しなかったが、日本画科に通う連中が居る事が不思議でならなかった。日本画を観て心地良いと思った事が一度もなかったからである。それがどうした事か、最近は日本画ばかりが気になっている。
 他人の事は解らないので自分の事に関して言えば、歳をとると生命体として弱くなるが故に、いやが上にも自身のおかれた環境に寄り添うものを好むようになるのではないだろうか。例えば特にこの時期、この高温多湿な環境のもとで油で溶いた絵の具をべったりと厚塗りした絵など観たいであろうか。僕は鬱陶しくて仕方がない。そういう絵は完全に空調管理した室内でのみ、というかそういう環境でしか観る気になれない。こうした環境下で不快をもたらさずにすんなりと入り込めるのは、やはり日本画である。美術とは博物館に閉じこめられたものを観るものではなく、もっと生活の中に散在するものを眺めるべきものであると僕は思う。

 学生の頃から日本画に興味を持ち、更にはそれを習得しようとする人達は、これと同じような事を思っているのだろうか。それとも別な入り口が在るのだろうか。今更戻れはしないが、少し興味がある。

 そう言えば何年か前に、年若い知人に同じ事を語って聞かせた覚えがある。彼女は東京を離れ、今では何処かで穏やかに暮らしているようだが、元気なのかなあ。

津軽三味線とフラメンコギター

 昔何かの折に「津軽三味線とフラメンコギターって似てるなー」と思った事を今日久しぶりに思い出した。度々そうは思っていたのだが、ただそう思うだけでその理由を探ったりせずにこれまで来た。しかし今日はちょいと探りを入れてみた。
 ネットで検索してみると、同じ様に感じる人は割と居るようで幾つかヒットした。例えば、津軽三味線を聴いたとあるフラメンコ好きの女性はこう書いている。

西洋音楽の平均率ではとれない 音の波 鼓舞し 節回し  フラメンコと似ている。津軽三味線に魅せられて ジャパメンコ!/ Happybirthday!より愛を込めて

 そして別なギター弾きであろう男性はこう書いている。

 「津軽じょんがら節」「津軽よされ節」「津軽あいや節」と伝統的な3つを見たんですが、中央に三味線、向かって右にお囃子(歌か)、向かって左に打楽器がありました。これ、メンコとほとんど一緒ですね。カンテや、カホンがギターのサイドにいる感じと。
視覚的にも似てるけど、三味線もギターも「歌」の伴奏から(メンコはバイレの伴奏も)始まったという歴史的発生という点においても似ているのです。
 共通点を挙げればキリがないくらい出てきます。弦楽器であることは言わずもがな、メンコの「形式」に津軽三味線の「節」が対応すると考えられるし、独特のリズムを持つという点も。
 音という意味で聴覚的にも、ファルーカなんかは演歌に近い雰囲気もあるし・・・Panorama / Wash Away

 上に書いてあるように音数の多さや叩き付けるような弦の弾き方だけでなく、歌い手の節回しも似ているのだ。蛇足を加えると、津軽に限らず日本民謡はカンテ(フラメンコに於ける歌の部分)は似ているし、コーランの詠唱にも似ていると僕は思う。これも同じように感じる人はいるようだ。

 ★

 さて、これらは何故似ているのだろうか。偶発的に似たようなものが離れた地域で発生する可能性を否定出来るものではないが、それでは話が面白くないので、飽くまで繋がっていると考えたい。歌い方に関しては、どう考えても一番歴史が古そうなコーランから伝播したと考えるのが妥当だと思う。弦楽器の伝播については諸説あるようでよく判らないのだけれど、Wikipedia での津軽三味線の記述の中にはこうある。

 弦楽器そのものの発祥は中東とされる。その後構造的に変化しながら、インドを経て中国に入り、中国南部において「三絃」が成立。この「三絃」が沖縄を経て畿内に持ち込まれ(異説あり)、江戸時代中期に日本独特の三味線となった。以降、三味線は日本各地の土着芸能と融合して様々に発達し、当時日本最北端であった津軽地方において津軽三味線となる。Wikipedia

 これもやはり出所は中東なのか。という事は弦楽器と共に歌い方も、中東から西の欧州へそして東のアジアへと伝播されたと考えるべきか。しかしそれにしては、コーラン・フラメンコ・日本民謡以外の、伝播する際の途中の地域にそういう歌い方が存在するという事実を僕は知らない。まあ僕が知らないだけという事かも知れないが、少なくとも僕は聴いた事がない。

 色々と記事を漁っていると別な考え方も出てくる。この記事では津軽三味線とフラメンコギターが似ているとしつつも、その理由に似通った社会的な状況の下に育ったものであるともしている。

 フラメンコを生んだのは、ヒターノ(ジプシー)だ。差別され、虐げられてきた歴史がフラメンコには秘められている。われわれ東北人も長いあいだ差別され、虐げられてきた。なにしろ、ほんの20年くらい前までは、「日本のチベット」などと呼ばれていたのだ。
 そんな東北で、さらに差別を受けていた人々が津軽三味線を生んだ。そういう共通点がある。
(中略)
 津軽三味線の歴史は、大條和雄氏の長年の研究によって、ほぼ明らかになっている。それによると、津軽三味線は明治期に誕生している。津軽三味線が登場する以前、日本には雅楽を除いて「器楽曲」はほとんどなかった。津軽三味線は日本音楽史において革命的なものと言っていい。同様にフラメンコ・ギターの歴史も、われわれが思っているほど古くはなく、おそらく津軽三味線と同じくらいの歴史らしい。ただし、津軽三味線にもフラメンコ・ギターにも、それぞれその源となる音楽がもちろんあった。フランメンコ・ギターと津軽三味線〜アントニオ・ガデス舞踏団への旅2

 虐げられた人間の作る音楽が、場所を変えても同じ様式を持つようになるとは思えないが、音の強さや激しさは共通するかも知れない。僕がネットで調べたくらいで証明されるような簡単な話ではないとは思うが、何だか非常に興味を持ってしまう。スペイン研究者の古屋雄一郎はこう書いている。

 フラメンコを習う人が日本には本当に多い。(中略)ユーラシア大陸の中央を発したジプシーが、西はアンダルシーアへ、東はツガルへ向かった、荒唐無稽な伝説ではあるけれど、信じたい気持ちがするし、なにより歓びを感じる。津軽とフラメンコ / フルヤな部屋

 本当に無茶な話だけれど、そうであってくれたらどれだけ楽しい気分になれる事か。遠い過去の事だとはいえ、自分が属するものと全く別な何かが繋がるというのは嬉しいものである。

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