DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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るろうに剣心

 アクション映画好きの友人から面白いと聞いていたし、TBS ラジオの番組「たまむすび」のゲストコーナーにて、この映画にアクション監督として携わっている谷垣健治が出演して話している内容を聞いて興味を持った。近所のレンタル屋に置いてあったので早速借りて観てみたのだが、確かに面白いし殺陣の場面がとても良かった。先の番組で谷垣健治が、まとめると大体次のような事を言っている。

 実際にそのアクションの動きが速いという事もあるけれども、タイミングで早く見えるという事もある。例えば会話において、お互いに相手の発言に被せるように発言していくと、その会話は速く感じる。それと同じで立ち回りの場面でも、相手の動きに対して被せるように動き、それを繰り返すと相対的に速く見える

 これは殺陣の演技の速さについて話したもので、他にも色々とやり方があるそうだ。この要素は続く二つの続編まで徹底されているが、僕は取り分けこの最初のヤツが好きである。例を挙げるなら、冒頭の鳥羽伏見の戦いでの場面で、佐藤健が演じる緋村剣心が旧幕府軍の歩兵を矢継ぎ早に斬り捨てていく場面が良い。もう一つは、逃げ出した蒼井優が演じる高荷恵を捕まえようと、吉川晃司が演じる鵜堂刃衛が警察署へ乗り込んで警官達を斬殺する場面も良い。前者は全体が奔流のようであり、後者は全体が舞踏であるかのようだ。立ち回りを現代的に突き詰めていくとこうなるのだなあ、という印象。何れにしても暴力をエンターテイメント化したものなので、そういうのが苦手な人には良くも何ともないと思うが。

 で、話はアクションから離れて、原作漫画を含めこのシリーズのテーマは「生き抜くこと」「生きようとすること」だと思うのだけれど、それはある場面で明瞭に表現されている。幕末の京都にて緋村剣心が抜刀斎と呼ばれ人斬りをやっていた頃の回想場面があって、暗殺の対象となる人物の中に祝言をあげたばかりの若い侍がいた。その侍は何度斬られても立ち上がり「俺には大事な人がいる。死ぬわけにはいかないんだ」と繰り返す。断末魔の咆哮の果てにもがき倒れ動けなくなったその若い侍は、道端に落ちた一片の桜の花びらを手に再び繰り言を口にする。剣心は侍にとどめを刺すが、深く動揺し、疲れ果て、震えながらその場を立ち去る。14年後でも剣心はその事を何度も思い返してしまうほどに重要な場面であるが、その侍の姿が胸を打つ。自分を斬った相手に対する怒りや憎しみよりも、自分がこの瞬間から先は生きられない事に対しての悲しみや悔しさが増して、喉を震わせ声を潰していく。初見ではそんな様子を見ているのがツラいと感じていたが、後から段々と気になってきて、結局何度か繰り返してその場面を観た。失いかけたものに対して縋ろうとする人の姿に弱いのかも知れない。

 追記 2015.03.27:書き忘れていたのだけれど一作目の最後の方で、武井咲演じる神谷薫を助けようとして追い詰められた緋村剣心が、鵜堂刃衛に向かって「遊びはもう終わりだ。殺してやるからかかって来い」と人が違った様子で言うところが格好良いと思った。

 正月過ぎた辺りに NHK で去年末に亡くなった宮尾登美子の追悼番組でドラマ「」が一部再放送されたのを観て、そのうちに観てみようと考えていたのだが、つい先日近所のレンタル屋に陳列されているのを見つけたので観てみた。
 全六回の前半、つまり主人公の烈が幼少である時期の物語は退屈に感じたが、烈が成長し、松たか子が役を演ずるようになってからは引き込まれるように観た。僕は昔から宮尾登美子原作の映画やテレビドラマを好きで観ていて、共通して描かれている社会や伝統に押し潰されまいと懸命に生きる女性の姿は、もちろんこのドラマの中にも見る事が出来る。例えばこの NHKサイト のこのドラマのページを見るとこうある。

日本の伝統は繊細に美しく、時に残酷である。日本の女性はその重さの中で生きてきた。

 もしかするとこの感覚は非難を受けるようなものなのかも知れないが、こういう状況設定だけでも「美」を感じ取ってしまうし、登場人物に関しては「可憐」という言葉を思い浮かべる。
 そして、松たか子が演ずる烈は病のために失明しているが、何故かしらその演技から目が離せないのである。原作では、烈は14歳の時に完全に失明している。松たか子が演ずる時の烈が何歳の設定であるのか判らないが、恐らく十代だろうと想像する。とすれば、失明してからそうまだ長くは経っていないので、盲目の状態に慣れていない様子も演出されたのだろう、所作に戸惑いの表情が加味されているように見える。僕の近くに視力を失った人が居た事がないので、あの演技がどれほどに実際に沿っているのか判断のしようがないけれど、父の意造や叔母の佐穂と話す時に烈の顔は、もしかしたら耳を相手に向けようとする為に、あらぬ方を向いていたり、家の中を歩くときには両手を前に伸ばし、自分の行く先に空間が存在する事を確かめながら歩いたりする。他の登場人物達やこのドラマを観ている僕とは別な、暗闇の世界に生きる烈が、どうにか接点を探そうと賢明になっているように見え、その姿が心を打つのである。そしてその吐き出される言葉は懇願のようであり、烈を覆い尽くす闇の深さが感じられる。そのような人間の姿に、僕は目を向けないではいられなかった。

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 主人公の烈とは別に、先妻亡き後に意造の元へ嫁いだせき役の洞口依子の演技も良かった。狡猾ではあるが、ものを知らず、だらしのない性格の持ち主で、まんまと嫁いだは良いものの、やがて社会の伝統や家の慣習に押し潰され、命からがら逃げ出す。主人公の烈と、叔母の佐穂、そして後妻のせきはこの物語の軸となっている。

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 先に、このドラマの存在を追悼番組で知ったと書いたが、その時僕は母と一緒にその番組を観ていた。そもそも母が宮尾登美子のファンで、大昔に母の本を借りて読んだ憶えがある。何を読んだのかさえ覚えていないが、それから随分経ち大人になった頃に、ふと思い立って宮尾登美子原作の映画を観たらすっかり魅了されたしまったのだ。
 話を戻すと、ドラマは第一話をそっくりそのまま再放送するという形で流されたのだが、オープニング曲の一音が流れた途端、居間でテレビとは別な方を向いていた母が「これ、藏でしょ?」と声を上げた。たったそれだけで判るとは、よほどこのドラマが好きだったのだろう。このドラマで初めて松たか子を知ったとか、いろいろと喋り始めた。
 オープニングの曲が非常に印象的であるので少し気になった。ギターの音のように聞こえるが、それにしては音の響き方が少し違うようで、同じようにつま弾く楽器の琴とも違う。NHK のサイトにクレジットがあるので見てみると、深草アキという人が音楽担当であるようだ。調べるとサイトが在った。そのサイトを読み進めると、あのギターに似た音色を出す楽器は中国の古楽器「秦琴」というものであるようだ。ドラマのサウンドトラックを全てやっているようで、上記のページではダイジェストでそれを聴く事が出来る。繰り返し聴いていると、だんだん染みてきた。買って通しで聴いてみようかと考えている。

風立ちぬ、を観て。

 世間では賛否両論であるそうな。Twitter の僕のタイムラインで見る限りでは大まかに二種類の人が目立った。様々に検証して問題点を挙げ、それでもなお傑作とする人達。そして、恐らく政治的というか戦争の扱いに対して怒っていて、吐き捨てるように否定する人達。諸手を挙げて賞賛する人は見かけなかった。僕はと言えば、これは何だろうか、と考えてしまうような映画だった。タイムラインで見かけた様々な評価から伺えるような、問題意識を投げかけるようなものには思えなかった。

 そもそもの話をすると、僕は「宮崎駿」の「飛行機物」が好きなのである。「未来少年コナン」に出てくるファルコやギガントに始まり、「風の谷のナウシカ」に出てくるメーヴェガンシップ、「紅の豚」に出てくるサボイアS.21やマッキM.39などなど、20世紀初頭と近未来を混ぜたキメラのような戦闘機を見ただけで心が躍る。そしてそれらのメカニックデザインだけではなく、劇中で戦闘機が空を飛ぶ姿を観るのが好きなのである。ループしたりロールしたりするような曲芸的な飛行だけではなく、ただ直進しているだけの姿でもうっとりする。何故こんなにも良いのか考えても埒が明かないのでその件に関してはただ受け取るだけにしているが、要するに今回もそれを期待して映画館に足を運んだ訳である。その点からすると、少々不満だ。主人公がドイツへ視察に行った際に出てきた大型の爆撃機(たぶんメッサーシュミット Me 323がモデルで、ギガントの名前の由来となった軍用輸送機)には心躍ったが、他はガルウィングの九試単座戦闘機の飛行シーンが良かったくらいか。零式艦上戦闘機はほとんど出てこない。
 該当する資料が見つからないので僕の記憶違いかも知れないが、「スカイクロラ」を発表した押井守が宮崎駿に対して「この映画の戦闘飛行シーン良いでしょう」という感じで自慢気に話しているのを何処かで読んだ気がする。その言葉に応えるように気合いを入れてくるのかと期待していたが、そういう事もなさそうだ。残念である。

 そう言えば、「主人公二郎は一見優しげだが、その実は薄情で矛盾に満ちた人間である。そしてそれは宮崎駿のさらけ出された本性だ」というような事を書いている人も多かったが、そんな殊更に話題にするほど酷かったかなぁと思う。あくまでも自分の欲望や欲求に素直に従うが為に家族やら友人やらを顧みない人物なんて、これまでに色々な作品の中に現されているし、実人生に於いても割とそこら辺にも居たりするのに、そんなに騒ぐほどの事でもないのではないかと思うんだけど、もしかしたら、これまでの宮崎作品からするとあり得ない人物像だとかそういう理由なのだろうか。もしそうだとしたら随分狭い世界での話だと思うが、それが評価の基準なのだろうか。よく解らない。
 冒頭に「これは何だろうか、と考えてしまう」と書いたのは、この辺りの矛盾を描こうとしたにしても中途半端であるように思えたし、戦争を描きたい訳ではないという理由だろうか、第二次世界大戦に関しては直前でばっさり切り落としてしまっているが、観ている側からすれば描かない事に対する疑問が頭を占めてしまうので肩透かしを食らった印象が強い。前半は良く出来ていて、これらの事は後半に出てくるので、全体としては失敗しているように感じるのだ。或る人は「自分が観たいものだけをやりたいようにやった結果」だと書いていた。そうなのだろうか。もっとやりようが在ったように思えるので、どうも釈然としない。それに僕が気づいていないだけで、本当は何かが潜んでいるのではないかと考えてしまって気になるのだ。何れの日にか、僕はこの映画をまた観る事になるだろうし、その時にはもっと好きになるような気はしている。

色即ぜねれいしょん〜黒猫チェルシー

 そう言えばそろそろ公開だったかなあと公式HP(注意:強制ウィンドウ・サイジング)を見てみれば、予告編等々がアップされており、YouTube にも公式の動画がアップロードされていたので、それらをぽちぽちと眺めていた。

制作発表

予告編

 んで、主人公役の渡辺大知。パンクバンドをやっているという事で、以前にその事を知った時は、あそう、ふーん、という感じで流していたのだけれど、今日改めてそのバンド ” 黒猫チェルシー ” の PV を観てみたら、予想以上に良くて、すっかり魅了されてしまった。

嘘とドイツ兵 / 黒猫チェルシー

 これはもう、制作発表の動画に見てとれる人物像とは全くの別人である。町田町蔵と大槻ケンヂを混ぜたような、動画内で岸田繁いうところのハラワタ系で、観ていてどことなく親しみを覚えるような、ある意味正統な日本の少年パンクであった。音的にはパンクとはいえ随分と洗練されているけど、渡辺大知はパンクス以外の何者でもない。近頃の、ただキレイなだけのバンドマンに比べて明らかに異質である。こんな男の子を主役に起用するとは、前作の ” アイデン&ティティ ” の主役に峯田和伸を起用するに続いて、田口トモロヲはさすがに目の付け所がばちかぶりである。

SR サイタマノラッパー / 入江悠

 いとうせいこう大根仁が激賞していたので、渋谷のユーロスペースで ” SR サイタマノラッパー ” をリバイバル上映を観てきた。

 若い頃(最近この言葉をフツーに使えるようになった)というのは、あらゆるシーンに於いて悔しい思いをするものである。とにかく、やる事なす事全てにケチが付く。粋がって格好つけてみても失笑されるだけだし、グレてみても本気の人達を見ていたらとても怖くなってやる事が中途半端だし、フツーにやれと言われてやってみればどうにも浮いてしまう。一体どうすれば巧くいくのかさっぱり判らないし、だいいち何処が悪いのかさえ判らない。言うならば、個人史に於ける馬鹿の時代である。思い返してみても、毎日毎日延々と燻っていた記憶しかない。そして、そういう人間を傍から見れば非常に痛々しく感じる。基本、そういう映画であった。

 この映画の特筆すべき素晴らしい点は、上記の二人が既に書いてしまっているので、それをなぞる形になってしまうが、取り敢えず書いてみる。
 みひろ扮する元AV女優の同級生が東京に戻るべく、駅へと続く階段を登る場面。みひろが重いスーツケースを引っ張り上げながら階段を登り、数人の男子高校生が階段上から降りてきて擦れ違う。ただそれだけのシーンでほんの一瞬なのだけれど、それはもう舞踏劇を観ているような素晴らしい光景であった。
 そしてラストの、いとうせいこう氏が言うところの口説きの部分。俯いて、ボソボソと吐き出される言葉が、ひとたびリズムを刻んで繰り出された瞬間、突如として攻撃性を帯びて暴れ出す。状況からすれば滑稽にも見えるそのスタイルは余りにも切実である。その切実さは、巧くいかない己の人生を思い患い燻っていた魂を再燃させているかのようであった。

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