DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 多くのひきこもり事例が自分の体の不潔さに無頓着のようにみえるとすれば、それは清潔さへのこだわりが行き過ぎてしまった結果であることが多いようです。例えば入浴するさいにも、あまりに念入りに洗おうとするため、入浴だけでも何時間もかかってしまう、といった事例がよくみられます。こういう症状を持つ人たちは、入浴するだけでくたくたになってしまうだため、逆にめったに入浴しなくなります。
 また多くのひきこもり事例では、他の家族の不潔さにこだわるのに、自分の部屋はモノやごみで一杯の状態になっていることがあります。さきほどの入浴の例と同様に、部屋の片づけをはじめても、それをあまりにも完璧にこなそうとするため、何度はじめても頓挫してしまうからです。このため、ひきこもり状態の事例では、行き過ぎたきれい好きのために本人は逆に不潔になったり、きわめて乱雑で不潔な部屋で生活しているといったような、皮肉な事態がしばしばみられます。

斎藤環著『社会的ひきこもり〜終わらない思春期〜』PHP新書 1998年 p.45

平成二十七年正月記

 正月は二日から寝込んでいた。元日の午前に末弟の家族が埼玉へ帰り、やれやれ静かになったと午後を静かに過ごしていたのだが、夜になって急に身体が疲労して耐え難くなったので早めに床に入った。そして翌朝は頭と喉と背中と腰が痛くて起き上がれなかった。熱はあるがさほどでもなく、計ってはいないが恐らく38度少しくらいなものだったろう。大晦日辺りから咳が少し出てはいたのだけれど、突然の災厄であった。

 そこまではたまにある事なのでどうでも良いのだが、三日ほど寝込んだうちの前半は、覚醒した状態と昏睡した状態を行ったり来たりしながら長い時間を過ごした。時間の経過が感じられたのは、目を覚ました時に気付く部屋に差し込む光の量が変化するせいであって、痛みと苦しさに荒く呼吸しているだけの存在と成り果てていた自分には何も考える事すら出来なかった。ただし、目をつむってしまうと瞼の裏に映像のようなものが見えた。それは健常な時でもたまに見える抽象的な色彩パターンではなく、やけにリアルな具象ばかりであり、大きな意味でのパズルのようなものだった。鉄片を切り取った複雑な形のジグソウパズルのようであったり、悪質な人々であったり、文字としての恨み辛みを繰り返す言葉だったりした。それが何かの答え合わせをするかのように二つのものが組み合わせを確かめ、大概は上手くいかずに次のものに入れ替わった。それは4分の1拍子くらいの速度で入れ替わり、それがずっと続くのだ。ああ、とうとう頭がおかしくなったのかと思っていると意識が消える。その繰り返しだった。途中何度か家人から声を掛けられ、生返事をするという事を何度かしている。差し入れて貰った果実を食べたり、ポカリスエットを飲んだりもしていた。

 それから二日目の午後に目を覚ますと身体が随分と軽くなっていたので、どうにか起き上がって台所へ行きマンゴージュースを飲んだ。その時に気付いたのだけれど、口の中からフリスクの破片のような白い物質が驚くほど出てくるし、鼻をかめば血の混じった地獄絵のような粘液が出てくるし、下唇の皮が痛みもなくペロリと全部剥がれた。一体自分はどうしたのか。もしかしたら本気でヤバかったのではないか。考えると恐くなるので自室に戻って再び床へ戻った。身体を横たえて目を閉じると、瞼の裏の映像は見えなくなっていた。僕は深く安堵し、今度は長く眠った。
 しかし睡眠は浅かったようで、今度は夢をいくつも見た。それは映像の断片が脈絡もなく繋ぎ合わせられているようなもので、陰影が強く、色彩が派手な映像だった。しかも物凄く解像度が高くて、思わず(夢の中なのに)眼を凝らしたり前のめりになってしまった。内容は殆ど覚えていないが、人や風景だったような気がする。とても美しい映像だったと思うが、いささか疲れる夢だった。

 現在では完治はせずともだいぶ復調している。思い返せば珍しい体験だったので多少面白く感じるが、二度は御免である。初夢が一富士二鷹三茄子どころか、禍々しい魑魅魍魎のパズル絵だったとは恐ろしい。この体験が厄落としにでもなってくれれば良いと願うのと同時に、後から見た夢のように刺激的で美しい光景に自分の現実が飲み込まれる事を願ってやまない。

人と病

 先日、本屋(実際にはアマゾン)でふと目に止まった、水島広子著『「拒食症」「過食症」の正しい治し方と知識』という本を読んでみた。何故そんな事を思い付いたのかというと、これまでの人生で何人か、拒食症または過食症ではないだろうかと思われる人と僅かながらも付き合いがあったからだが、その時の己の態度に対する反省から、少しでも知っておきたいと思ったからである。その中で気づいた事を二三記す。

 ひとつには、本書は患者のみならずその家族や周囲の人々に読まれるように書かれている。その中で(そうなりがちではあるが)こういったアドバイスや言動は患者にとっては逆効果だ、という事例が幾つか挙げられているが、そのどれもを僕はかつての知人達に言ってしまっていた。しょっちゅう顔を合わせるような深い付き合いではなかったので、尋常とは思えない相手の様子に驚いてつい口に出してしまうのだけれど、確かに無知であった。
 摂食障害の専門医は今を持っても少ないとある。となれば適切な治療方法や、周囲の協力の仕方などに関して知識を持つ人を身の回りに探してもなかなか見つからないだろう。アマゾンでも推されているようなので、この分野に興味を持つ人には手に取りやすくなっているとは思う。しかしそれだけでは全然間に合わないように思う。問題に直面した人が全員、積極的に知識を得ようと書籍を紐解くとは思えない。どちらかと言えば少ないのではないだろうか。患者本人だけでなく周囲の人達にしても、なかなか認めたがらないような気がする。認知する際のストレスを出来るだけ少なくしようと思ったら、例えば摂食障害をテーマにしたテレビドラマを制作して、単発ではなく一定期間をかけて放送するとか、そういう方法が必要ではないだろうか。民放では難しいだろうから NHK で。

 もうひとつは、この本は基本的には患者の不安や心情に寄り添った形で書かれていて、折に触れては周囲の人達が知っておくべき事柄や心構えなどについて書かれている。しかし、周囲の人達に寄り添った記述が足りないように思う。知識も経験も無い人間に、或る日言い渡された通りの対応が出来るようにはなれないと思われる。本書にも触れられているが、患者と共に周囲の人達も自分を見つめ直し、徐々に成長していかなければならないのだろうから。なので別冊にて、今度は周囲の人達に寄り添った形での本があれば良いのではないだろうか。本書を読めば読むほど、患者独りではどうする事も出来ない病気であるように思えるし、医者に任せていればどうにかなるものでもないようだし、周囲の人達の、もっと言えば社会の認知が必要であるように思える。その為にもそういう本は必要ではないだろうか。

 いずれにしても、浅はかな考えであるかも知れない。広く知らしめるという事は、それだけ患者のデリケートな心情を晒してしまう事になりかねないとも考えられる。本書でも、随所に患者へ対する気遣いが窺える。

 最後に、本書でとても気になる記述があったのでそれを引用する。

 私は摂食障害の患者さんを見ると、まるで一家の問題を代表するような形で病気になっていると感じることが少なくありません。ある意味では、もっとも感受性が豊かで、もっとも家族思いの人が、摂食障害になっているのです。
 それを「家族の犠牲者」として見ることも簡単ですが、それ以上の意味があると思います。最も感受性が豊かで、最も家族思いの人は、病気になることによって、家族関係のバランスを変え、やはり家族のためになる結果を出すのだと思うのです。

 そうだとすると、これはもはやシャーマンではないか。これは摂食障害には限らない話のように思う。病という事象に対して、単に悪しきものだという考えを改めなければならないのかも知れない。

光の手

 もう20年近く前に当時の知人から聞いた話。彼女の知り合いに、患部に手を触れて病を治す施術者の女性が居たらしい。幾人もの病人が彼女の元を訪れ、その都度、彼女は患部に手を触れて病を治していた。しかし、数年後に今度は彼女自身が病を患ったが、残念な事に自分自身を治す事は出来なかったようで、果たして彼女は死んでしまった。ここら辺の記憶は曖昧だが、施術者の女性は、病人の病を自分自身の身体に移す事で、患者を治癒に導いていたという話だった。似たような話が乙一の ” Kids ” という小説に出てくる。
 僕の知人は施術者の女性が亡くなった時、この世の何かしらを悟ったような気がしたと言っていた。それから時を経て彼女は美術家となった。何年か前に僕は偶然その事を知った。今現在の彼女が元気でいるのかどうか、僕は知らない。何故だかこの話を今日思い出したのだ。そして時折思い出すこの話を、書き留めて置いた方が良いような気がしたから、今こうして書いている。

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