DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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「私ねえ、本は読まないようにしているの」
 閑さえあれば寝っころがって本を読んでいる私はびっくりして、
「どうして」
 と聞いた。
「だって、おばあさんになって老人ホームに行った時、普通の人と話が合わなくなると思うから」
 彼女は小さな花柄の布をはぎ合わせてきれいな袋を作りながら言った。突然私の頭の中には老人ホームの何故か広いたたみの部屋さえ見え、輪になって踊りを踊っているおばあさんが現れた。私踊れない。私はあせった。今は民謡なんか知らなくても、おばあさんになったら自然におぼえられるようになるかもしれない。駄目だ。彼女はその時のために今から、何十年も着々と用意しているのだ。私はじっと彼女の動かす針を見ていた。
 そして、私は、それを忘れた。いや決して忘れられなかった。相変わらず私は手当たりしだいに本というより行きあたりばったりの活字が印刷してあるものをひろげていた。時々、老人ホームのたたみの部屋が現れる。私は別の友達にきく。
「あなた、老人ホームに行ったらゲートボールする?」
「うーん、やだわねェ」
「だったらどうする」
「本でも読んでるわ」
「あのね、老眼とか白内障になったりしてね、本なんか読めなくなるのよ。生意気なババアが一人でじっと何もしないで坐っているの? もし読めても、普通のバアさんはお友達と民謡踊って笑っているのよ。生意気で陰気なババアが一人でどうするのよ」
「あなた一緒に行って。同じ老人ホームに入ってよ。だって、私、今は忙しくて読めない本、楽しみにとってあるのに」
「二人でドストエフスキー読むわけ? ドストエフスキー読んでる八十歳のバアさんてどんなものだと思う?」
「まあねぇ。ちょっとねぇ」
「ドストエフスキーはいいのよ。読めりゃ読めばいいのよ。それが、そんじょそこらの普通の人とは違いますって気持がどっかに出て来て、ゲートボール出来なくなるのよ」
「でも私は楽しみで読んでいるのよ」
「それが、じとーっと発散するんだわ。かくしても生意気な匂いがオーラみたいになって八十のババアから立ちのぼるのよ」
「そうかしら。じゃあ、どうすればいいのよ。そういえばうちの母、八十三で『新潮』とか『群像』とか読む人なのよ。もう可愛くないんだから、意固地で、高慢で、近所のフツウのバアさんなんかフンって顔してるの。それがね、一番の親友が寝たきりになって老人病院に入っているのね。見舞に行ったら、看護婦がね、おしめとりかえながら、大声で言うんだって、『女子大出てもウンコまみれじゃねェ−』って。親友はね、ただ、だらーって涙流して何にも言わないんだって。帰って来てから母は大変よ、看護婦攻撃をそりゃ論理的にものすごくしんらつにするのよ。医者と看護婦の医学界に於ける構造に及ぶわけよ。ごもっともでございますよ。ふるえながら手をにぎりしめて泣いていたわよ。そりゃ可哀想だったわよ。でもね、生意気なのよ。ひどい看護婦だとは思うわよ。でもね、その看護婦の気持わからないでもないわねェ、それにねェ、私、母そっくりに段々なってゆくの。嫌だ嫌だと思っていても、頭の中で陰気な理くつこねているんだわ。あなた、わたしとあなた、母と親友みたいになるのかしら」
「わたしは美術学校だから多少看護婦も手かげんしてくれる」
「世間ではね、絵描きなんかははみ出しものでね、生意気以上のものなのよ。あなたみたいにね、何でもひっくり返して調べるのはね、これは反感買いますよ。ウンチで壁に絵を描いてるバアさんも居るそうよ」
「見ならいたい」
「嫌われてもいいの?」
「好かれたい」
「わたしたちなんて楽しみに本読む程度よ。本読むうちに入らない。教養が身につくほどにもなっていない。私の友達に女の哲学者がいてね。むずかしい本書いているんだわ。何十年も横文字たて文字の本読む生活よ。それで家に来て一言ももの言わないで帰るのよ。私とは話題が合わないのよ。それでも彼女どこかで俗世間とつながっていたいのかしらと思うのよ。その人父親も哲学者でね、家族とほとんど口きかなかったんだって、その父親がね、ご飯の時、同じこと何回も言ったんだって。女は嫁に行け、体だけ合えばいいって。きっとその哲学者の父親は女の体だけがこの世とのつながりだったのよ。嫌な奴だわね。反撥して娘は体合わせないで、又哲学やっちゃったのよ。学者に比べれば、私たちなんかかわいいもんよ。楽しみの読書なんか」
「お宅のお母さんだって、かわいいもんよ」
「うーん、ちがうわね。近所に、大工の女房のおばあさんがね、毎日夕方になると花に水やっているの。そしてね、そのへんぶらぶら歩いてふーっと空みたりしているの。何かすごく安定してしみじみ安らかなのね。『新潮』の母とは全然違うのよ、発散するものが。母にはあの安らかさがないわ。かわいそうだわ、母は」
 私は小さな花柄の布を静かにぬい合わせていた友達を思い出す。あの人も夕方花に水やって。ぶらぶら地面をしっかり歩いている感じがする。

佐野洋子著『ふつうがえらい』新潮文庫 1995年 pp.234-238

 フミオは学校から一直線にアルバイトに向かう。フミオが勤めているガソリンスタンドの前を通ると、フミオが白いツナギを着て白い帽子をかぶって、走り回っている。何となく人情でガソリンを入れてもらう。家に遊びに来てグデグデしているフミオとは別人のようにリリしい。この姿を学校の教師に見せてやりたいと思う。
「ガソリンは負けられないからな。車洗っていきなよ。ワックスがけでこれでいいから、内緒だよ」
 と片手をパッと広げる。立派なもんだ。三年前は頭真黄色にしてピアスをしていて、私なんか大いに驚いた。
「あとで行くよ」
 九時ごろ、「どうもどうも」と玄関入って来る。入って来ると、さっきとはまたしても別人である。
「あなたよく働くね」
「俺、正しい勤労少年よ。俺、働くのは好きなんだよな」
「勤労と勉強は別なんかね」
「それが違うんだな。俺よ、学校で寝ててさ休養してるだろ、休養が終わると一直線バイトだろ、毎日」
「それでいくらになるの」
「時間がみじかいからさ、一カ月これ位」
 と両手を使って教える。
「それ何するの」
「サチコ、サチコ。一カ月一回のサチコ」
「サチコと一回のデートでそんな使うの」
「だってよ、女に金つかわせられるかよ、飯だってよ、ちょっとオシャレなところにしたいじゃない。そうするとこれだよ」
 と、また手を使う。
「それからラブホテルだろ」
「公園だっていいじゃない」
「お前の母ちゃんすごいのな」
「冗談だよ、十七でラブホテルかね」
「常識ですよ。それで、これだけ」
 と、また手をつきたてる。
「それで全部パア」
 フミオはちょっと考えこんだ。
「俺何しているんだろ。毎日毎日すげえ勤労してさあ、それでサチコと一日でパア。俺何してるんだろう」
 昔、うちにいた猫を思い出す。シーズンになると哀しげなうなり声をあげ、夜な夜な出かけて行き、ぼろ雑巾のように毛をむしられて、また出かけてゆき、耳をくいちぎられて来る。それでもまた出かけてゆく。正しい雄の宿命なのだと感心した。
「俺なにしてるんだろな」
 帰ってから息子にきいた。
「フミオ、大学どうするの」
「あいつは大丈夫だよ。生活力あるから。あれは心配ないの」

佐野洋子著『ふつうがえらい』新潮文庫 1995年 pp.185-187

 タミヤ君は酔っぱらうと何でも直角に置き直した。まず机の上のタバコを真っすぐにし、マッチを一センチ位正確にタバコと平行に置き他の人がタバコにさわろうととすると、「アッ、アッ」と腹の底からしぼり出す様な無念そうな声を出し「ちゃんと、あったとこに置いてよ」と他人の手もとをじいっとにらみつけていた。そして自分はとまり木の上でゆうらりゆうらりゆれながら灰皿をにらみつけ、「ちょっと曲がっている」と何度も置き直し、よろよろと曲線を描きながらバーの外へ出るとドアの下のマットを「ヨイショ」と直角に置き直し手をはたきながら、隣のドアのマットに突進するのである。酔っぱらっていない時も、実に精緻なデザインをするグラフィックデザイナーで、一ミリの十分の一の誤差も気持ち悪がって、三センチや十センチの誤差に平然としている私には驚異であった。
 オオタケ君は、朝五時半に起き、家中の雨戸を開け放し、急いで電気がまのスイッチを入れ、それから車を洗い、それから何をするのか知らないが、オオタケ君の家は十七人家族で、お母さんも兄嫁さんもお手伝いさんも居る家で、独身のオオタケ君は別に誰に強要されているわけでもないのである。会社に誰よりも早く来て、夏ならばズボンを脱いでステテコで、冬にはズボンの上に毛糸の腹巻きを見せて掃除機をザーザーかけていた。一度に四つも五つもの図面を引き、その間に経理の仕事もし、二重帳簿さえ作っていた。
 タニヤマさんは三DKの団地の一部屋を仕事部屋にし、台所で朝ごはんを食べると半歩も歩かないで通勤できる隣の部屋に弁当を持って入り、昼は奥さんが食べている食卓から七十センチも離れないで弁当を食べ、もう六時まで二度と現れなかった。オシッコは別である。徹夜になる時は仮眠用のふとんを仕事部屋に敷き、七歩歩いて奥さんの横のふとんにもぐり込むなど決してないと奥さんが云っていたから嘘ではない。
 私の叔母はお風呂をわかすとあっという間に一分の間も風呂場を空にせず七人の家族を風呂に入れた。わかし直す必要を認めなかったのだ。時たま遊びに行く八人目の私は素っ裸になったままふろ場の前で、前の人が出て来るのをブルブルふるえて待っていた。包装紙をていねいにはがし角をそろえてきちんと折り、ひもはつないで大きな玉にし、そんな玉が三つも四つも入っている箱の横に裏は白い広告の紙が重なっていた。
 約束の時間に一秒も遅れず一秒も早まらず家のブザーを鳴らすヤマシタさんは、五分遅れる時には電話をかけて「ゴメンネ、五分遅れる」と云って来て、五分に一秒も遅れず一秒も早まらずブザーが鳴る。ヤマシタさんは何かの真っ最中にジュースをひっくり返しハンドバッグをぬらすと、何かを途中にして裸のまんま風呂場でハンドバッグを洗って、又戻って何かを続けたそうである。これはヤマシタさんと何かをしていた人が云っていたから本当である。
 トモコさんは旅行に出ると九時からスケジュールのこなしにかかり、空き時間十五分あればコインランドリーで洗濯をし、地下鉄とバスの所要時間を調べ二分の時間の無駄をせず、夜九時にホテルに戻ると荷物を作り朝九時には郵便局の窓口で発送をする。熱があってもベッドの上で熱さましの座薬をつっ込んで「大丈夫、大丈夫」とうなずいて美術館に出かけてゆく。
 サトウ君は妻が寝ているうちに洗濯をし、ブラジャーは手で洗い、かわいたパンティをくるくると丸めてきっちりとたんすに色ごとに並べ、「ネェーネェー、ブルーのカシミヤのセーターどこよゥ」と妻が云えば、「二階のタンスの三番目の右のはしの上から二枚目」と即座に答えるのである。
 そして、洗濯機がこわれると分解して部品をコチョコチョ作り、十二年も同じ洗濯機を使っているのである。
 ミヤコさんは、さらしのふきんを一度一度消毒と漂白をしアイロンをかけ、まな板は野菜用、魚用、肉用と三枚を大中小と順番に並べ、水を飲むコップとビールを飲むコップと区別し、家計簿は、十円の狂いがあっても銀行員の残業の様に机の前から離れない。

 ああ人類よ、男よ女よ、なんとまめまめしく健気なことよ、私は他人のまめまめしさと律儀さのために、ぼう然としてしまうのである。

佐野洋子著『がんばりません』新潮文庫 1996年 pp.164-166

 名のついている小さな花は草ではない。たとえすみれが散ったあとの葉っぱでも。木は草ではない。それがとても低いかん木でも、私にとって草はもう終わってしまっている。今私は海辺の浜で、空地で雑草をおびただしく見る。あるいは芝生に生えて来る草を引き抜いて黒いビニール袋につめ込むこともある。でも、それらのものは、唯なつかしいもの、本当は私にとって無縁なものとして生い茂っている。
 子供の頃、私は草ともっと一体になって生きて来ていた。草は私と気分的だけでなく物理的にも近かったのだ。私は小さくて、地べたにはいつくばる位の大きさしかなかったのだ。子供の頃私はいつもしゃがみ込んでいた様な気がする。しゃがみ込むとすぐ草の葉っぱをつかんでひっぱってちぎらずにはいられなかった。
 ちぎった葉っぱを私はかならずくんくんかいだ。くんくんかいだあと私はそれを口の中に入れた。口に入れるとはじっこから歯でこまかく噛んだ。それぞれの青くさい苦みを私は区別することが出来た。かやつり草のしんのほの白い茎を少し食べた。やわらかくて甘かった。
 一人で学校から帰る時、野っ原の道のわきに生えている裏の白いぎざぎざの葉っぱをちぎって、指先でこすって歯の裏の白い粉を落した。葉っぱは黒ずんで、私の手の中で生あたたかくなった。粉をこすり落すと私はそれを捨て、又新しい葉っぱを千切っては同じ事をくり返してあきることがなかった。指先は草のしるで、青茶色になり洗ってもなかなかとれなかった。
 真夏に、野原や山道を歩くと、私は両側からおい茂る草の中に埋まってしまった。地面からの熱がこもって草いきれの中を進むと、暑いという事が本当によくわかった。暑さは上の太陽から私をやくのではなく地面から私をむし焼きにした。草いきれの中にもはや酸素の一てきも無い様な気がして、熱い空気を吸った。吸っても吸っても苦しくて私は死ぬかと思い半分泣いていた。
 何のために私はそんな難行苦行をしたかと言えばただ、その草の向うの友達のところへ遊びに行くだけで、行っても友達は、ただ一言「あとで」と言うこともあった。それでも私は私を埋めてむれているすすきの葉っぱの間を息もたえだえに進んでいくのだ。もう私はあの熱い草のにおいの真中を進むことはない。
 すすきの間から、顔だけつき出す位にはでかくなってしまった。
 芝生の雑草をつぶして匂いをかいでも、子供の頃の様に強い匂いが私の鼻をつくこともない。かすかな草くさい匂いの向うの幼い日をもどかしくかぎ分けようとしているだけである。

佐野洋子著『覚えていない』新潮文庫 2009年 pp.164-166

 私はうすうす気がついていたのだけれど、いやかなりはっきり確信があるのだけれど、いや絶対って言い切れるのだけど、男と女を比べると男の方が何百倍もいい人達である。
 私は弱い女というのを知らない。見たところはかなげで、あやうげで、たよりなさげな女だって、いやそういう女たちこそ、したたかで、根っこのところが実に強い。
 強いというか悪い。
 子供の頃、可愛い顔して、たいがい色が白くて、おとなしくってそそとしていて、女の子の見本みたいのがいる。
 子供達がわーわーむらがって遊んでいる時、その子がジワーッと近づいて来て、私にぴたーっとくっついて来る。何だ何だと思っていると突然その子が私のうでをぎゅーっとつねる。ぎゃっ何だとびっくりして、「やだーっ」と叫ぶとその子が急に泣き出す。皆んなが集まって来る。「どうしたの、どうしたの」と泣いている子の側に来て顔をのぞき込む。その子は弱々しく悲しげにいやいやをしている。私はボー然として「あわ、わ、わ」と思っていると、子供というものは必ず泣かしたのが自分かと思って「わたし?」「わたし?」とその子の肩を抱いたりしてきく。その子はいやいやをして、少し両手をずらして、チロリっと私の方を向いて又泣く。「あーあー洋子ちゃんが泣かした、洋子ちゃんがなかした」と言うとその子をかかえて遠くに行き集団で私をにらんでいる。その子は、他の子供達にひと言も何も言っていない。ただ私をチロリと見ただけである。嘘をついたわけでもない。私をチロリと見ただけなのである。すげえーかなわんわーと思って生きて来た。他の人に言うと、「いたいたそーいうの」って必ず答える。五十人の中に一人位はいるのである。
 それで、男にもそーいうのがいるかと思うと絶対にいない。こーいう風な構造に男はなっていない。大ぼら吹いてサギする位の単純さである。私、アダムとイヴのイヴもそーいう女だった様な気がする。神様はお見通しであるが、男は見通さない。たとえ自分の女房がそうでも一生見えない。そして知らないまま死んでゆくのである。

佐野洋子著『覚えていない』新潮文庫 2009年 pp.66-67

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