DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Tag: sexuality (page 3 of 9)

 ここに人々が決定的に見落としてきた問いがある。なぜおたくは、「現実に」倒錯者ではないのか。私の知る限り、おたくが実生活で選ぶパートナーはほぼ例外なく、ごくまっとうな異性である。個人的な印象では、おたく人生の「上がり」とは、異性のおたくパートナーとの結婚とみなされているふしがある。したがって私は、おたくにおいて決定的であるのは、想像的な倒錯傾向と日常における「健常な」セクシュアリティとの乖離ではないかと考えている(この意味からも宮崎勤は完全に特殊例だ)。ホモセクシュアルはおろか、真にロリコンであるおたくすら、きわめて少数派なのではないか。それは例えば、アニメのヒロインを偶像化しつつ、日常的には代替物としての現実の女性で我慢する、ということではない。彼らはここでも「欲望の見当識」をやすやすと切り替えているのだ。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 pp.62-63

 社会との一定の関係が成立してはじめて、親の愛情が意味を持つということ。これはどういうことでしょうか。「すべての愛は自己愛である」と、さきほど私は断言しました。これは事実であるかどうかという話よりは、愛というものを分析するには、さしあたりこのように定義するしかない、という約束事のようなものです。しかし、かりにそうであると仮定して、なぜすべての人が自己愛的に、自己中心的にふるまわないのでしょうか。私はそれこそが「社会」の機能であると考えます。つまり、自己愛というものは、それを維持するために必ず、「他人という鏡」を必要とします。他人を愛し、あるいは他人から愛されることによって自己愛を維持することが、もっとも望ましいのです。
 しかし、ひきこもり状態にある青年には、このような鏡はありません。あるのは自分の顔しか映し出すことのない、からっぽの鏡だけなのです。このような鏡は、もはや客観的な像を結んでくれません。そこには唐突に「力と可能性に満ちあふれた自分」という万能のイメージが浮かび上がるかと思えば、それは突然かき消えて、今度は「何の価値もない、生きていてもしょうがない人間」という惨めなイメージに打ちのめされる。このように彼らの鏡は、きわめて不安定でいびつな像しか結んでくれません。ようするに自己愛が健全に(ここでは「安定的に」というほどの意味ですが)保たれるためには、家族以外の「他人」の力によって「鏡」を安定させることが必要なのです。
 人間は、自己愛なしでは、生きていくことすらできません。自己愛がきちんと機能するには、それが適切に循環できる回路が必要なのです。幼児期までは、それは自分と家族との間を循環するだけで十分でした。しかし思春期以降は事情が違ってきます。事情を変えるもっとも大きな力が「性的欲求」のありようの変化です。そう、思春期以降の自己愛は、異性愛を介在させなければ、うまく機能しません。そして異性愛ばかりは、家族がけっして与えられないものなのです。

斎藤環著『社会的ひきこもり〜終わらない思春期〜』PHP新書 1998年 pp.127-128

 セクシュアリティは肉体的な性差であり、ジェンダーは社会的な性差を指す。エロスは主としてセクシュアリティにまつわる表象や身振りから、においたつものといえる。少し前になるが、アメリカのあるキュレーターはこう嘆いていた、「いまやアーティストは皆十四歳の少年少女のままでいたがる。観客もそうだ」。

長谷川祐子著『キュレーションー知と感性を揺さぶる力』集英社新書 2013年 p.106

或る日の電車内の光景

 ここ最近大学の時の友人に頼まれて、時折彼の工房へ手伝いに行っている。要はバイトだ。その際には彼の住む町まで私鉄の普通(関東で言う各駅停車)電車に乗って南下するのだが、今日は遠出をする予定だったのでいつもより一本早い電車に乗った。すると、いつもは殆ど見かけない高校生が座席を占拠するようにたくさん乗っており、そうかこの時間帯が彼らの通学時間なのだなと得心するに至った。
 それは良いのだが、彼らの来ている制服にどうも見覚えがなく、とは言っても僕が知っているのは25年以上前の事だが、何処の高校なのだろうと彼らの制服や学校指定のバッグを盗み見していた。目星をつけていた近くの公立高校の在る駅に着いても彼らは降りないので、おそらく少し先に在る私立高校だろうと検討を付けた。いずれにしても制服は大きく様変わりしている。どちらの高校も、かつては男子は黒い学ランで女子は紺色のセーラー服であった。ところが目の前に居る彼らは、男子はダークグレーにピンストライプで三つボタンのスーツ。女子は紺のブレザーに深緑のチェックのミニスカートに紺色のハイソックスである。女子の制服はフツーに可愛い。しかし男子の制服は正直もっさりしていてダサいと思った。何故ダークスーツなんだ。しかし考えてみれば、九州の田舎の男子高校生がダサくてもそれはそれで良いような気がする。そもそも他人事だし。

 今朝はそんな彼らを電車の中で見物していたのだが、なかなか楽しかった。

 僕のすぐ近くには席にあぶれた仲の良いグループであろう男子達が立っていた。各駅停車なので、電車が一駅進む毎に友達が乗ってきて、窓外に姿が見えれば皆でニヤニヤしながら迎え入れ、乗車するや否や軽口を叩いて喋り始める。この時間の電車の先頭車両で待ち合わせしているのだろう。なかなか微笑ましい光景である。そして、そういうグループの中には一人は居るお調子者、よく言えばムードメーカー的な役割の男子が皆にまんべんなく話しかけていた。内容と言えばどうでもいいようなつまらない事だが、友達の気持ちをほぐすには適度な話題だ。沿線にスーパーイオンモールが在るが、それについての話題だとか。

「スーパーイオン、なんが在ると?」

「知らん」

「イオン、なんか在るとね?」別な友達に向かってわざわざ繰り返す。

「なんもなかろ」

 そんな感じ。相手の友達連中も嫌そうな素振りもなくニヤニヤしながら答える。どーでもよい話だが、田舎の高校生にとってはそれが有意義であるのかも知れない。
 友達連中に一通り話しかけた後、ムードメーカーの男子が次に話しかけたのは彼らの側に立っていた一人の女子だった。

「知らんよ」クスクス笑いながらその女子は答える。

 決して美人とは言えないが、笑った顔が可愛い背が低い女子だった。車内を見回すと、席に座ってお喋りに講じている女子達がたくさん居たが、その子だけが一人「友達とは一緒じゃないし、たまたまそこに乗り合わせた」体でおちゃらけ男子グループの側に居た。僕はへーと思った。なるほどね、と。僕の偏見がそうさせるのかも知れないけど。そして言わずもがな、おちゃらけ男子グループの連中は全員その子に大注目である。もちろん興味がない体を装いながら。
 想像するに同じクラスだがまともに話した事はなく、しかし何となく気になるので側に寄ってみた、という感じだろうか。それがこのおちゃらけ男子グループ全体の雰囲気に惹かれているのだとしたら良いのだが、もしかして対象がその中の一人だった場合、行く行くは仲の良い友達の一人が明日から別行動するようになるのかも知れんねぇ、と僕は余計な心配をしていた。すると突然。

「あ、生足やんね。ポイント高かねー」

「○○も生足やったばい」

「ホントね、オレはまだ見とらんばい」

 と、男子連中が騒ぎ始めた。オッサンかお前ら。まぁ照れ隠しなんだろう。なんだろうけどあのな、今は良いかも知れないが、社会に出て同じような事を女性に面と向かって言い続けたら、此処が九州とは言えども非難を浴びる事になるかも知れんのやぜ、とまたしても無駄な心配をしているうちに僕の目的地へ着いた。

 概ね面白かった。そう言えば昔は、僕も同じような事をやってたなと思いながら僕は電車を降りた。

阿波おどりとセクシャリティ

 阿波おどりと言えば子供の頃から知ってはいるが、そういえばまともに見たことないなと思って暫く前に YouTube を漁っていた。東京に居た頃に何度か見かける事はあったのだけれど、それほど興味をそそられなくて通り過ぎる程度だった。では何故急に興味を持ち始めたのか。数ヶ月前の話だと思うのだけれど、きっかけが何だったのかすっかり忘れてしまった。
 それまでに持っていた阿波おどりのイメージは、二拍子で鳴らされる太鼓と鐘が踊り手を鼓舞し、踊り手は男女とも両手を前方上に突き出しながら割と激しく踊る祭り、という「いかに興味がなかったのか」が判るものだった。しかし動画をいろいろ観て回ってみれば、思いの外に性的なニュアンスの強い踊りであり、その部分に興味を抱いた。

 特徴が判りやすいかと思い、同じ撮影者の動画を並べてみた。阿波おどりにはたくさんの連(グループ)が参加しているそうだが、動画サイトにアップロードされるのは有名で大きな連であるのだろう。だいたい同じ名前の連の動画が列ぶ。前者が「さゝ連」で、後者が「阿呆連」。おそらくこの二つが最も有名なのではないだろうか。

 さてまず「さゝ連」。この連の踊りは非常に解りやすいというか、結構風刺的である。
 女踊りは編み笠を被り、法被を羽織り、長襦袢に下駄という格好であるが、腰にぴったりと貼り付いた長襦袢と、脚の動きに合わせて翻る裏地の赤が扇情的である。編み笠の後ろ側は大きく開いているので、髪をまとめ上げたうなじがこれみよがしの様子である。下駄にはかかとが有り、ハイヒールと同じくつま先立ちの姿勢と軽やかさを生み出す。腕を上げたままで踊るすがたも、何かしらの作用があるような気がする。そして女踊りの踊り手達は拡がったり、まとまったりしながら、後進の男踊りの踊り手達の目の前で華やかに、自分達の姿を見せつける。
 一方、男踊りの踊り手達は、どろぼうかぶりに、浴衣を纏い、草履履きで踊る。腰を落として背中を丸め、地を這うように、そろりそろりと忍ぶように進み、やけに横への動きが大きいその様子はとても下卑た印象を与える。そして滑稽である。
 役割というか、見栄と下心のせめぎ合いというか、あまり善とは言えない部分をそれぞれに強調されていて、面白い。

 つぎは「阿呆連」。格好には差はないが、こちらはそれほどあからさまではなく、前後の動きに勢いがあり、やっこ踊りがある。これまでに僕が見たやっこ踊りといえば、ひょっとこ面を被った男衆が凧役で、右へ左へと流され、それでもしっかりと糸で引っ張られている様子が滑稽な踊りであった。しかしこちらでは男女間でそれをやっているからか、滑稽な要素は見当たらず、情愛の駆け引きのように目に映る。それにお互いに囃し立て合い、挑発しているような場面もある。

 以上のように、土着的な性の捕らえ方と洗練が入り交じっていた様子が、とても興味深い。そして Wikipedia のページにあるように、最近では性別関係なく女踊りに参加する人が増え、男踊りに参加する女性もいるようなので、女踊り・男踊りの振り分けは性差ではなく役割分担のような形になっているようだ。
 阿波おどりの起源に関しては、徳島大学の論文に詳しい。(配布ページにはどうしても辿り着けず、PDF ファイルへ直リンク)

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