DOG ON THE BEACH
逢魔が時
- 2012-05-12
- Category - People
- Tag - psychology / philosophy
昼間暖かった日に、陽が傾くにつれて気温も下がり、少しく肌寒い心持ちにて部屋の中でぼうっとしていると、何やら寂しいような心許ないような気分に陥る事がある。これが精神的に安定している時であれば大した事はないけれども、少々でも不安定だったりすると、前述の感情に加えて焦燥感のようなものまで混ざってくる。そうなると不安定さが増して大変宜しくないので、何か他の事に目を向けて、意識を逸らす必要がある。勿論楽しい事が好ましい。
そんな時はテレビ放送や気に入っている DVD を観るのが良い。その他にも漫画を読むとか、落語やラジオを聴くとか。共に暮らす人があれば話すのも良いし、飼い猫に自分からじゃれついて行くのも良いだろう。調理をして暖かいものを口にするも良いかも知れない。ともかく、独りでぽつねんとしない事である。
今日の夕刻まさに、久しぶりにそんな気分になったので、録画していたテレビ番組を観ていたのだけれど、その番組が「峰不二子という女」であったので薄暗い気分は拭えなかった。仕方が無いのでこの文章を書き始めた訳(途中でスパゲティ作って食べたが)だが、ついでに「逢魔が時」を WEB 検索していてこんなページを見つけた。表現がなかなに的確だったので引用しておく。
そう言えば子供の頃、父が時代劇が好きでテレビでよく観ていた。その中で確か「破れ傘奉行」だったと思うが、エンデイングの映像が画面一杯に映された夕陽で、太陽が徐々に地平線へ沈んでいく様を毎週眺めていた。しかし僕はその映像が好きだった訳ではなく、怖くて目を逸らせなかったのだ。沈みゆく太陽がこの世の終わり、というか自分の命の終わりを連想させて、自分が死んだ後は一体どうなるのだろう。僕が死んだ後も他の人達は生きていて、僕だけが真っ暗な宇宙のような何処か別な場所に放り出されて、その時僕はどんな気持ちになるのだろう。言葉でこう認識していたのかは怪しいが、感覚的にそう思っていた。それがとても辛くて、そしてやがてそうなるのであろう事実が怖かった。逢魔が時に感じるのと少し似ている。
何の小説だったか忘れたが「人が死ぬ時に一番怖れるのは、自分という存在とお別れしなければならない事だ」というような事が書かれていた。確かにそれはとても怖い。想像するのも嫌である。霊や輪廻の考えは、もしかするとその恐怖から逃れる為に生まれたのかも知れない、と僕は思っている。
そんな時はテレビ放送や気に入っている DVD を観るのが良い。その他にも漫画を読むとか、落語やラジオを聴くとか。共に暮らす人があれば話すのも良いし、飼い猫に自分からじゃれついて行くのも良いだろう。調理をして暖かいものを口にするも良いかも知れない。ともかく、独りでぽつねんとしない事である。
今日の夕刻まさに、久しぶりにそんな気分になったので、録画していたテレビ番組を観ていたのだけれど、その番組が「峰不二子という女」であったので薄暗い気分は拭えなかった。仕方が無いのでこの文章を書き始めた訳(途中でスパゲティ作って食べたが)だが、ついでに「逢魔が時」を WEB 検索していてこんなページを見つけた。表現がなかなに的確だったので引用しておく。
一日が終わろうとする夕暮れ時。お豆腐屋さんのラッパが薄暗くなりかけた夕焼け空を流れていく。我を忘れて遊びに全身を打ち込んでいた幼い頃、夕暮れ時はいつも理由もなく物悲しい気分にさせられた。そう、逢魔が時には何か終焉が迫っているような気がしてくるのだ。その辺りが焦燥感を生むのだろう。
仲間との別れ。遊びの終焉。明日になれば、また、会えるのだし、遊べるのだけれど、私は心の底で、でもそれは絶対ではない……と感じていたように思う。
毎日巡ってくる、一日のあの時間帯。昼から、夜へ、その橋のような時間。明るくも暗くもないそのぼんやりした感じ。このぼんやりした橋を渡るとき、私はいつもとぼとぼと一人だったように思う。人攫いが出てくるのなら、こういう時だろうなと想像もしたっけ。
そう言えば子供の頃、父が時代劇が好きでテレビでよく観ていた。その中で確か「破れ傘奉行」だったと思うが、エンデイングの映像が画面一杯に映された夕陽で、太陽が徐々に地平線へ沈んでいく様を毎週眺めていた。しかし僕はその映像が好きだった訳ではなく、怖くて目を逸らせなかったのだ。沈みゆく太陽がこの世の終わり、というか自分の命の終わりを連想させて、自分が死んだ後は一体どうなるのだろう。僕が死んだ後も他の人達は生きていて、僕だけが真っ暗な宇宙のような何処か別な場所に放り出されて、その時僕はどんな気持ちになるのだろう。言葉でこう認識していたのかは怪しいが、感覚的にそう思っていた。それがとても辛くて、そしてやがてそうなるのであろう事実が怖かった。逢魔が時に感じるのと少し似ている。
何の小説だったか忘れたが「人が死ぬ時に一番怖れるのは、自分という存在とお別れしなければならない事だ」というような事が書かれていた。確かにそれはとても怖い。想像するのも嫌である。霊や輪廻の考えは、もしかするとその恐怖から逃れる為に生まれたのかも知れない、と僕は思っている。
- Last Modified : 2012-05-12
寺と雨
僕が通っていた小学校の隣には寺が在り、小学校の裏門と、寺の裏口は道を挟んで向かい合っていた。この寺の境内を抜けた方が近道になるので、僕は通学路としてよく足を踏み入れていた。それに加えて、境内は僕らの放課後の遊び場にもなっていたので、僕はこの境内で色々な経験をしたと思う。その中で、今でも梅雨の入口で静かな雨に降られていると思い出す事がある。
さすがに小学生の頃の事なので、記憶もかなり薄れてハッキリしない事が多いが、明るい雨降りの中、僕は一人で境内の中に佇んでいた。何をしていたのかと言えば、それだけは明瞭に覚えているが、僕は雨と木々の匂いを嗅ぎたくて其処にいたのである。境内の中には大小様々な樹木が植えられており、雨水を吸い上げたそれらは豊潤な香りで境内を満たしていたのだ。僕はそれまでの短い人生の其処此処に於いて、その匂いが自分に心地良さを与える事を知り、それを思い切り満喫出来る機会を待っていたのだろう。今ではこうやって説明出来るが、その頃の僕にはその力はなく、自分の中に在る何やらモヤモヤした気持ちとして仕舞い込んでいた。なので、誰にも説明する必要が発生しない機会を心密かに待っていたのだ。恐らく、その日は友達と連れだって帰るという事はせず、こっそり自分だけ境内に潜り込んだに違いない。雨の日に誰かが遊びに来る事もないだろうし、僕は安心しきって、山門の敷居に腰掛け、膝を抱えるようにして目をつぶり、雨が葉々を打つ音を聴きながら、樹木の匂いを心ゆくまで吸い込んでいた。
今でもそのような匂いを嗅いだりすると、当時の光景を思い出すし、現在も尚あの場所に自分が居るように錯覚する。
さすがに小学生の頃の事なので、記憶もかなり薄れてハッキリしない事が多いが、明るい雨降りの中、僕は一人で境内の中に佇んでいた。何をしていたのかと言えば、それだけは明瞭に覚えているが、僕は雨と木々の匂いを嗅ぎたくて其処にいたのである。境内の中には大小様々な樹木が植えられており、雨水を吸い上げたそれらは豊潤な香りで境内を満たしていたのだ。僕はそれまでの短い人生の其処此処に於いて、その匂いが自分に心地良さを与える事を知り、それを思い切り満喫出来る機会を待っていたのだろう。今ではこうやって説明出来るが、その頃の僕にはその力はなく、自分の中に在る何やらモヤモヤした気持ちとして仕舞い込んでいた。なので、誰にも説明する必要が発生しない機会を心密かに待っていたのだ。恐らく、その日は友達と連れだって帰るという事はせず、こっそり自分だけ境内に潜り込んだに違いない。雨の日に誰かが遊びに来る事もないだろうし、僕は安心しきって、山門の敷居に腰掛け、膝を抱えるようにして目をつぶり、雨が葉々を打つ音を聴きながら、樹木の匂いを心ゆくまで吸い込んでいた。
今でもそのような匂いを嗅いだりすると、当時の光景を思い出すし、現在も尚あの場所に自分が居るように錯覚する。
近況
先々週末に熱を出して寝込み、翌日には熱は引いたが今度は喉を痛め、かつてないほどの痛みと、地獄からの咆哮が如き声の変調を経験し、そしてそれも治まったかと思いきや、今度は咳嗽が止まらず、いつまでも完治せずに低調な毎日を送っていた。しかしようやく、本日をもって回復の兆しが見え一安心しているところである。
そんな中思っていたのは、喉を痛めると、噛み砕いたものですら飲み込むのがなかなか困難で、毎日の食事が愉しみでるあるどころか苦行に近いものがあり、そうなると毎日の暮らしに張り合いが無くなる。つまり「あと一時間もすれば旨い昼飯が待っているのでそれまで頑張ろう」だとかそういう自己暗示が出来なくなるので、どうにもやってられないのである。更には刺激の強いアルコールを摂取するのも、出来ない事はないが、いささか憚られるものがあり、夜に向けての張り合いも無くなる。こうなるともう、一日中どんよりとしている。僕はどちらかと言えば小食で、美食家でもない。そこそこの物をそれなりに食べていれば、一応は満足してしまう結構安上がりな人間である。毎日同じ献立であってもさほど問題は無い。そんな僕がこんなにも参ってしまうのだから、これが大食漢であり美食家でもある人物が喉を痛めたりしたら、とんでもない大打撃なのだろうなと考えたりしていた。
そして更に厄介なのは咳嗽。咳が続くとなーんにも出来ない。観るのも読むのも何かしら手を動かすのも考えるのも、何一つ集中出来ないのですぐに放り出したくなる。夜になると、炎症止めも咳止めも薬の効力が無くなってくるせいか、喉の痛みや咳嗽がこの時間帯に集中する。もはや身体はぐったりしているし、何もする気になれないので、兎に角横になりたい。横になったからといって症状が軽くなる訳でもないのだが、そうしているのが一番楽な気がしてくるのだ。しかし眠くもないのに横になっていて、余計な考え事なんかしたくはないので、ぼんやりテレビを眺めている。大概は語学番組だ。咳が治まっている時は発音練習をしたりもする。意外にこれが心地良く過ごせるので、ここ数日は毎晩やっている。おかげで何時の間にか、英語フランス語韓国語中国語を並行して学ぶ事になってしまった。ロシア語ドイツ語イタリア語アラビア語はさすがに多すぎるので避けた。いや、既に許容範囲は超えてそうだが、始めてしまったものは仕方がない。因みにテレビ番組のプログラムは半年間行われるが、これがいつまで続くのかは判らない。成り行き次第である。
そんな中思っていたのは、喉を痛めると、噛み砕いたものですら飲み込むのがなかなか困難で、毎日の食事が愉しみでるあるどころか苦行に近いものがあり、そうなると毎日の暮らしに張り合いが無くなる。つまり「あと一時間もすれば旨い昼飯が待っているのでそれまで頑張ろう」だとかそういう自己暗示が出来なくなるので、どうにもやってられないのである。更には刺激の強いアルコールを摂取するのも、出来ない事はないが、いささか憚られるものがあり、夜に向けての張り合いも無くなる。こうなるともう、一日中どんよりとしている。僕はどちらかと言えば小食で、美食家でもない。そこそこの物をそれなりに食べていれば、一応は満足してしまう結構安上がりな人間である。毎日同じ献立であってもさほど問題は無い。そんな僕がこんなにも参ってしまうのだから、これが大食漢であり美食家でもある人物が喉を痛めたりしたら、とんでもない大打撃なのだろうなと考えたりしていた。
そして更に厄介なのは咳嗽。咳が続くとなーんにも出来ない。観るのも読むのも何かしら手を動かすのも考えるのも、何一つ集中出来ないのですぐに放り出したくなる。夜になると、炎症止めも咳止めも薬の効力が無くなってくるせいか、喉の痛みや咳嗽がこの時間帯に集中する。もはや身体はぐったりしているし、何もする気になれないので、兎に角横になりたい。横になったからといって症状が軽くなる訳でもないのだが、そうしているのが一番楽な気がしてくるのだ。しかし眠くもないのに横になっていて、余計な考え事なんかしたくはないので、ぼんやりテレビを眺めている。大概は語学番組だ。咳が治まっている時は発音練習をしたりもする。意外にこれが心地良く過ごせるので、ここ数日は毎晩やっている。おかげで何時の間にか、英語フランス語韓国語中国語を並行して学ぶ事になってしまった。ロシア語ドイツ語イタリア語アラビア語はさすがに多すぎるので避けた。いや、既に許容範囲は超えてそうだが、始めてしまったものは仕方がない。因みにテレビ番組のプログラムは半年間行われるが、これがいつまで続くのかは判らない。成り行き次第である。
Spring of life / Perfume
暫くパフュームには興味を失っていたのだけれど、ラジオから流れてきたこの曲を聴いて、これはちょっと久しぶりに良いかも知れないなどと思いながら Youtube で PV を観た。電源プラグコードに繋がれたまま、身に纏った高輝度 LED から光を放ちながら踊る姿がとても良い。この人達は、こんな風にロボトミーの悲哀を感じさせるような曲や映像がとても似合うと思うし、そこが大変な魅力になっていると思う。
一時期は、声に過剰なエフェクトをかけられたりする事に耐えられないとかで、制作側と揉めてたようだけど、今でもそうなのだろうか。彼女達の個人を語られる事が殆どなくてよく判らないのだが、至ってフツーの人達のように見える。これだったら自分たちでなくても良いのじゃないか、というような反感を持っていたようだけれど、恐らく彼女達でなければこうはならないような気もする。例えば、彼女達よりもっと美形のメンバーを集めて同じ事をやったとしても、何処か空々しさを感じしてしまいそうだし、モーニング娘。とか AKB48 ような均質化した印象の人達が大勢でやっても、このような悲哀を醸し出す事はないような気がする。個性が際立ってもいけないが、かといってのっぺりとした能面のような印象を与えてもいけない。人数が少ない事が功を奏して、明確に見分けがついて、それがあたかもアンドロイド制作者が頑張って個性を創造した、というような印象を持てるところが良いのかも知れない。僕の妄想でしかないけれど、そういった絶妙なバランスの上に成り立っているような気もする。
★
話は変わるが、少し前に、パフュームはもしかしたらキャンディーズの流れであるのかも知れないと考えた。単純な発想だけれど、キャンディ−ズの初期のマネージャーをやっていた大里洋吉が、Perfume が所属する芸能事務所アミューズの現会長であるから、というだけの話なんだけど、年老いた芸能事務所経営者が「キャンディーズの夢をもう一度」と考える事もありそうな話であるなあ、と。フツーの女の子に戻ってしまったキャンディーズを、20数年後にパフュームとして再生させるのは、なかなか面白い発想である。しかしそんな話は聞いた事がないし、これもまた僕の勝手な妄想でしかない。
この人達は至ってフツーの人達のように見える、と前述したが、それも含めてキャンディーズに重ねてしまう。アイドルを目指し、その座を手に入れ、その立場に耐えられずにそこから降りてしまった人達と、同じような経緯で、今その絶頂に在る人達。彼女達も、いずれそこから降りる日が来るのだろうか。
- Last Modified : 2012-04-29
白拍子の舞
NHK大河ドラマの「平清盛」のオープニング映像に出てくる、白拍子の舞がやたらと格好良いので調べてみたところ、踊っているのはフラメンコ・ダンサーの鍵田真由美とその他であるらしい。どうしてそういう起用になったのか経緯が不明だが、経緯や意図はどうであれ、とても良い。日本古来の舞踊はこんなにも心躍るものであるのかと感心してしまうくらいに。しかしまあ、恐らく本来の舞よりもずっと動的な踊りになっていると予想される。
で。そう言えば、白拍子という存在については暫く前から(遊女の起こりとして)知ってはいるけれども、その舞については、当たり前だが観た事はない。伝統芸能として伝えられているものでもなさそうだし、取りあえず検索して出てきたものの中で、気になったものを貼っていく。
これは鎌倉まつりで演じられる鶴岡八幡宮「静の舞」。しかしこれは当時の白拍子の舞を演じているのではなく、たぶん江戸時代辺りに静御前を主人公として作られた長唄の類いのように見える。なんと言っても使ってる楽器が違うので。
この動画のクレジットに、The 1st music video from a Japanese electronica-club-jazz artist SIENNA (www.sienna-web.com) who is based in Norway. とある。ノルウェイのシエナさんという方の作品のようだが、何故白拍子に興味が在るのだろうと思ったら、ノルウェイ在住の日本人のようだ。( CLICK )White rhythms というのが直訳っぽいので気になったけど、訳し難いと言えばそうか。( CLICK )
桜井真樹子(アクセス出来なかったらこちらを CLICK )という、白拍子の芸能を研究し演じている方が、イスラムの曲を白拍子でカバーしているものらしい。恐らくこれが本来の姿に一番近いのではないだろうか。当然と言えば当然だけど。
で。そう言えば、白拍子という存在については暫く前から(遊女の起こりとして)知ってはいるけれども、その舞については、当たり前だが観た事はない。伝統芸能として伝えられているものでもなさそうだし、取りあえず検索して出てきたものの中で、気になったものを貼っていく。
これは鎌倉まつりで演じられる鶴岡八幡宮「静の舞」。しかしこれは当時の白拍子の舞を演じているのではなく、たぶん江戸時代辺りに静御前を主人公として作られた長唄の類いのように見える。なんと言っても使ってる楽器が違うので。
この動画のクレジットに、The 1st music video from a Japanese electronica-club-jazz artist SIENNA (www.sienna-web.com) who is based in Norway. とある。ノルウェイのシエナさんという方の作品のようだが、何故白拍子に興味が在るのだろうと思ったら、ノルウェイ在住の日本人のようだ。( CLICK )White rhythms というのが直訳っぽいので気になったけど、訳し難いと言えばそうか。( CLICK )
桜井真樹子(アクセス出来なかったらこちらを CLICK )という、白拍子の芸能を研究し演じている方が、イスラムの曲を白拍子でカバーしているものらしい。恐らくこれが本来の姿に一番近いのではないだろうか。当然と言えば当然だけど。
- Last Modified : 2012-04-07
晩年
- 2012-03-17
- Category - People
- Tag - sociology / philosophy
先週から NHK 連続テレビ小説「カーネーション」では、糸子が70を超えた晩年を迎えている。その中で、かつて親しかった人達の遺影を眺め、子供達が皆遠くへ行ってしまって独りになった事に思いを馳せる場面があった。何故こんな風になってしまったのだろう、と。さらりと流して描かれていたし、その後も繰り返す事はなかった。その辺りを余り強調したくなかったのだろう。僕はその場面を観て、リリー・フランキーの「東京タワー」の中で、主人公の二人の祖母の晩年に関する記述を思い出した。
若くして死んでしまうのでもなければ、我々は老境を過ごさなくてはならない。肉体と精神の老い、そして社会的に朽ちていく事に耐えねばならない。それでも、そんな苦痛を背負いながらも生きようとしてしまう。40を超えると初老と呼ばれるが、衰えなどはとっくの昔に始まっている。先は長いのか短いのか判らないが、楽な事はなさそうだ。どえらい所に立たされたものだ、と思う。
原作を読んでないし実際の経歴も知らないのだが、ドラマの中では、糸子は晩年になって過酷なプレタポルテ業を始める決意をする。それはもしかすると、老境での孤独に立ち向かおうとしているのかも知れないと僕は思っている。
筑豊のばあちゃんは相変わらずひとりで、黄色くなったジャーの中の御飯を食べていた。家の中には線香とサロンパスの匂いは充満していて、その匂いを嗅ぐたびに、なにか淋しい気分になっていた。膝を悪くして、和式トイレの便器の上には、簡易様式トイレの便座が置かれてあった。出版当時に、氏が出演していたラジオ番組の中でも、何かのイベント時に収録したのだであろう、読者の声がインタビューされていた。「感動しました」「泣けました」「母親を大事にしようと思いました」等々、宣伝目的なので当たり前だが、そのような陳腐極まりない言葉が繰り返し流れた。久世光彦はこの小説を指して「ひらかなで書かれた聖書だ」と宣われたらしい。その言葉からしても、この小説は単なる母の子へ対する愛情の物語ではないと思っているのだが、それ以外の感想を目耳にした事がない。この本は人生に対する諦念と、人の愚かしさと、その中で生きて行かねばならぬ覚悟を描いているのだと僕は思っている。
家財道具、自分の身体はどんどん古くなり、くたびれてゆく中で、毎日、日めくりのカレンダーだけが新しくめくられている。
誰も居なくなった家で、黄色くなった御飯を食べながら、心臓病の薬を飲み、映りの悪くなったテレビを観ている。ばあちゃんにとって、一日のどんな時が楽しいのだろう? 人生の何が楽しみなのだろう? どうあれば幸福を感じ、なにが起きれば悲しむのだろうか?
(中略)
小倉のばあちゃんも同じように、誰も居なくなった我が家にひとりで住んでいる。子供たち、孫たちは、それぞれに新しいことが連続する毎日の中で、息つく暇もないほどに動き回っている。ばあちゃんたちはそれとは逆に、毎日同じ風景と残像の中で、ただ息をつき、日めくりだけが新しくめくれてゆく。
(中略)
結局、廃れてしまう、寂れてしまう、離れてしまう、誰もいなくなってしまう。
若くして死んでしまうのでもなければ、我々は老境を過ごさなくてはならない。肉体と精神の老い、そして社会的に朽ちていく事に耐えねばならない。それでも、そんな苦痛を背負いながらも生きようとしてしまう。40を超えると初老と呼ばれるが、衰えなどはとっくの昔に始まっている。先は長いのか短いのか判らないが、楽な事はなさそうだ。どえらい所に立たされたものだ、と思う。
原作を読んでないし実際の経歴も知らないのだが、ドラマの中では、糸子は晩年になって過酷なプレタポルテ業を始める決意をする。それはもしかすると、老境での孤独に立ち向かおうとしているのかも知れないと僕は思っている。
- Last Modified : 2012-03-17
最近気に入ったバンドミュージック
Na Na Na / My Chemical Romance
Denise / Fountains of Wayne
Tongue Tied / Group Love
Show Me / Team Me
D.E.N.W.A / The Telephones
日中、ラジオをずっと点けっ放しにしていると、否応も無く色々な音楽を耳にする事になる。仕事場で聴いているのは J-WAVE なので、どちらかと言えば洋楽寄りの音楽を耳にするのだが、上に挙げたのは「これは今まで聴いたものとは、少し趣が違うなぁ」と僕が感じたものの中で、何処となく似ている気がする曲を列挙してみた。上から三つがアメリカのバンドで、四番目がノルウェイ、最後が日本。
Wikipedia に在る記事を読むと、Alternative Rock だとか、Power Pop だとか、New Wave Rock だとか書いてあるが、そんなジャンル分けはよく解らないし、どうも共通した雰囲気を感じる。世の中の白人音楽にはこういう流れが在るのだろうか。僕が疎いだけで、ちゃんとした系譜があるのだろうか。その辺りの音楽にとうに興味を無くしていた僕の拙い認識では、白人音楽はオルタナティヴと呼ばれる人達が出て来たところで止まっている。上に挙げた曲にしたって、そんなに新しい事をしているとは思えないのだけれど、一昨年か去年辺りからか、なかなか良いなと思う曲が出てきた感じだ。一応メインのヴォーカルは居るが、コーラスのパートが目立つ。その共通項は単なる流行なのか、それとも何かしらの意味を示しているのか、よく解らないが僕は気に入っている。
★
歳を拾ってくると、やはり体力も気力も落ちてくるもので、昔のように派手な音楽はあまり聴く気になれない。というか聴けない。例えば、何を思ったかラジオが朝っぱらから「この曲聴いて元気だそうぜ!」的なノリで騒々しい曲を流す事がまま在る。そういうのは聴く立場の僕の気分がローな場合は、ラジオを叩き壊したくなるくらいには迷惑に感じる。
まあ、それはそれとして、上に挙げた曲は意外にも乗れた。乗れたから気に入ったのだろう。音楽はシンクロ出来なければただの騒音である。楽曲がどうこうの前に、僕自身の状態の変化もあるのかも知れないが、シンクロ出来る音楽を見つけられた事を僕は嬉しく思う。
ところで、他に思い付かないので仕方なくそう書いたけど、バンドミュージックって表現は非常にダサいですね。
Denise / Fountains of Wayne
Tongue Tied / Group Love
Show Me / Team Me
D.E.N.W.A / The Telephones
日中、ラジオをずっと点けっ放しにしていると、否応も無く色々な音楽を耳にする事になる。仕事場で聴いているのは J-WAVE なので、どちらかと言えば洋楽寄りの音楽を耳にするのだが、上に挙げたのは「これは今まで聴いたものとは、少し趣が違うなぁ」と僕が感じたものの中で、何処となく似ている気がする曲を列挙してみた。上から三つがアメリカのバンドで、四番目がノルウェイ、最後が日本。
Wikipedia に在る記事を読むと、Alternative Rock だとか、Power Pop だとか、New Wave Rock だとか書いてあるが、そんなジャンル分けはよく解らないし、どうも共通した雰囲気を感じる。世の中の白人音楽にはこういう流れが在るのだろうか。僕が疎いだけで、ちゃんとした系譜があるのだろうか。その辺りの音楽にとうに興味を無くしていた僕の拙い認識では、白人音楽はオルタナティヴと呼ばれる人達が出て来たところで止まっている。上に挙げた曲にしたって、そんなに新しい事をしているとは思えないのだけれど、一昨年か去年辺りからか、なかなか良いなと思う曲が出てきた感じだ。一応メインのヴォーカルは居るが、コーラスのパートが目立つ。その共通項は単なる流行なのか、それとも何かしらの意味を示しているのか、よく解らないが僕は気に入っている。
★
歳を拾ってくると、やはり体力も気力も落ちてくるもので、昔のように派手な音楽はあまり聴く気になれない。というか聴けない。例えば、何を思ったかラジオが朝っぱらから「この曲聴いて元気だそうぜ!」的なノリで騒々しい曲を流す事がまま在る。そういうのは聴く立場の僕の気分がローな場合は、ラジオを叩き壊したくなるくらいには迷惑に感じる。
まあ、それはそれとして、上に挙げた曲は意外にも乗れた。乗れたから気に入ったのだろう。音楽はシンクロ出来なければただの騒音である。楽曲がどうこうの前に、僕自身の状態の変化もあるのかも知れないが、シンクロ出来る音楽を見つけられた事を僕は嬉しく思う。
ところで、他に思い付かないので仕方なくそう書いたけど、バンドミュージックって表現は非常にダサいですね。
- Last Modified : 2012-03-25






