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January 2005
エミール・ガレ展 / 江戸東京博物館
迂闊にも昨晩知った回顧展に行って来ました。これまでアール・ヌーヴォの展覧会などで何点かは目にしていましたが、これだけのガレの作品を目の当たりにするのは初めてです。ガレがデザインした家具は見た事があったのですが、陶器は初めてでした。しかし陶器は私としては今一つ。これなら東アジアの陶器の方が断然良い。ま、比べるものでもないんですが。
ガレと言えばやはりガラス器。今回私の目を惹いたのは、北斎漫画をモチーフ(ほぼ絵をガラス細工でやり換えたもの)にしたガラス器。今現在私が日本の様式美に興味を持っているからこそ、そう思えるのだろうが。しかしそれとジャポニズムは別である。欧州人の好奇な色眼鏡で見られた日本の様式は、微かに歪められ、誇張され、それが非常にエキセントリックな印象を受ける。私が気に入っているのはそういう部分である。
もう一つ。ガレのランプが在る。その斜陽の灯りと眺めていると、不思議な感覚に捕らわれる。例えば自分がこのまま死んでしまうとしても、この灯りを見つめていればさして怖くもなく、緩やかに没する事が出来るのではないか。そんな風に考えてしまった。いずれ、来るその日の為にガレのランプを手に入れるのも悪くはない。さすがにアンティーク・ガレを買うのは無理だが、エミールが没した後も営まれ続けている、ガレ商会製のランプなら買えなくもなさそうだ。
ガレと言えばやはりガラス器。今回私の目を惹いたのは、北斎漫画をモチーフ(ほぼ絵をガラス細工でやり換えたもの)にしたガラス器。今現在私が日本の様式美に興味を持っているからこそ、そう思えるのだろうが。しかしそれとジャポニズムは別である。欧州人の好奇な色眼鏡で見られた日本の様式は、微かに歪められ、誇張され、それが非常にエキセントリックな印象を受ける。私が気に入っているのはそういう部分である。
もう一つ。ガレのランプが在る。その斜陽の灯りと眺めていると、不思議な感覚に捕らわれる。例えば自分がこのまま死んでしまうとしても、この灯りを見つめていればさして怖くもなく、緩やかに没する事が出来るのではないか。そんな風に考えてしまった。いずれ、来るその日の為にガレのランプを手に入れるのも悪くはない。さすがにアンティーク・ガレを買うのは無理だが、エミールが没した後も営まれ続けている、ガレ商会製のランプなら買えなくもなさそうだ。
都築 響一
- 2005-01-06 Thursday
- Category - Art
- Tag - japanese / photograph / book / architecture
都築響一とくれば「 TOKYO STYLE 」と来てしまう。さすがに12000円も出してハードカヴァーを買う気にはなれなかったが、文庫本を買って、それこそ寝るまでずっと眺めている事もあった。ベッドの中でパラパラとめくるには、文庫本は丁度良いのだ。しかしこの記事に書かれているように、クラブ・ゴールドのプロデュースまでやっていたとは知らなかった。この雑誌、ちょっと読んでみたいなあ。
冬の運動会 / Nippon Television Network
新聞での紹介を読んで興味が沸いたので観てみた。途中までは良かったのだが、最後の収束の仕方がツマラナイ。家族の確執がそんなにも急激に穏やかになる訳がないだろう。その余りに急速な健全化に呆気に取られるほどだ。まあ、それは置いといて、僕が興味を持っていた部分について少し。
というのも、僕は常々こう考えている訳です。既存の人間関係の中で、自分を支え切れないのであれば、他に誰かを求めても仕方ないだろうと。勿論、社会的なな道徳規範に晒されたり、個人間の所有欲や嫉妬に焼かれる事は否めないのですが、フィクションの中でまで否定して欲しくないのです。明治以前の日本の共同体は乱婚が行われており、それに拠って共同体が保たれていた、と書いていたのは宮台真司だったか。その本には家族はどう保たれていたのかについては書かれていなかったと思うが、それについては結構興味がある。
そうそう、ハイライトにはこんな事も書いてあった。
登場するのは、祖父・父・息子の3世代の男たち、祖父の北沢健吉、父・遼介、主人公で息子の菊男。3人は、どのように家族と関わったらいいのかと思い悩み、互いに確執を抱えながら、それぞれが自宅とは違う場所に擬似家族を持つようになる。30歳以上も年が離れた女との半同棲の生活を楽しむ健吉、親友の未亡人とその息子の面倒をみる遼介、子供のいない中年夫婦の家に入り浸る菊男。そして、この秘密が明らかになった時、女たちを含めた家族の形は大きく揺らぐ。果たして、男たちは、それぞれの葛藤の中で、お互いを理解し、許容し合えるようになれるのか—。日テレの番組のハイライトにはこうある。家族がそれぞれ他に疑似家族を持つという行に非常に興味を持った訳だが、何度も言うが最後の「お互いを理解し、許容し合えるようになれるのか」が要らないと思う。いや、それは言い過ぎか。少なくとも安易な理解の仕方は止めて欲しかった。あ、これはテレビドラマに限っての話。向田邦子の原作もこうなんだろうか。読んでみようと思ったけど、これと同じなら読みたくないなあ。
というのも、僕は常々こう考えている訳です。既存の人間関係の中で、自分を支え切れないのであれば、他に誰かを求めても仕方ないだろうと。勿論、社会的なな道徳規範に晒されたり、個人間の所有欲や嫉妬に焼かれる事は否めないのですが、フィクションの中でまで否定して欲しくないのです。明治以前の日本の共同体は乱婚が行われており、それに拠って共同体が保たれていた、と書いていたのは宮台真司だったか。その本には家族はどう保たれていたのかについては書かれていなかったと思うが、それについては結構興味がある。
そうそう、ハイライトにはこんな事も書いてあった。
血の繋がっている相手と諍いが絶えないのなら、せめて少しの間だけでも別の家族を持って穏やかな時を過ごしたい—ストレスと緊張に囲まれた現代人のそんな夢を、向田は25年以上も前のドラマの中で描いているのである。この記述は温いと思う。「夢」ではなく「渇望」だと思う。










