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November 2005
イルミナシオン
- 2005-11-29 Tuesday
- Category - Days
- Tag - hawaii / travel / installation
12月の初めからクリスマス当日まで、部屋に電飾を施すようになって随分経つ。そんな事をやり始めたきっかけは何だったのかと思い出すと、なるほどちゃんと理由は在った。
何年前なのか思い出せないくらい昔、12月にオアフ島に行った時の事。夜のダウタウンに繰り出して、ポルノショップを冷やかしたり、顎が外れそうなくらいにデカいハンバーガーを食べたり、ストリップバーに連れ込まれたり、実弾撃ったりして遊んだりした後、連れだった数人でほろ酔い加減でホテルまでの道を歩いて帰る途中だった。
入り江の橋を渡ると、何棟ものコンドミニアムが夜の中にそびえ建っていた。その中の一つの部屋のベランダに、小さなイルミネーションが飾りつけてあり、砂粒のように小さな三原色の光が、何をも照らし出す事なく点滅していた。その姿が、ひっそりと何かを祝い、何かを祈っているようでとても良かった。僕は夜の中に立ったまま、暫くの間その点滅を見上げていた。
そしてその次の年の冬。僕はその光景を思い出し、真似てみようと思ったのだった。あんな風に何かを、祝ったり、祈ったりしてみたかったのだ。その時の僕に、何かしらその対象となるものが存在していたのかどうかは全然思い出せない。もしかしたら、何でも良かったのかも知れない。ただ、そうしてみたかっただけなのかも知れない。
何年前なのか思い出せないくらい昔、12月にオアフ島に行った時の事。夜のダウタウンに繰り出して、ポルノショップを冷やかしたり、顎が外れそうなくらいにデカいハンバーガーを食べたり、ストリップバーに連れ込まれたり、実弾撃ったりして遊んだりした後、連れだった数人でほろ酔い加減でホテルまでの道を歩いて帰る途中だった。
入り江の橋を渡ると、何棟ものコンドミニアムが夜の中にそびえ建っていた。その中の一つの部屋のベランダに、小さなイルミネーションが飾りつけてあり、砂粒のように小さな三原色の光が、何をも照らし出す事なく点滅していた。その姿が、ひっそりと何かを祝い、何かを祈っているようでとても良かった。僕は夜の中に立ったまま、暫くの間その点滅を見上げていた。
そしてその次の年の冬。僕はその光景を思い出し、真似てみようと思ったのだった。あんな風に何かを、祝ったり、祈ったりしてみたかったのだ。その時の僕に、何かしらその対象となるものが存在していたのかどうかは全然思い出せない。もしかしたら、何でも良かったのかも知れない。ただ、そうしてみたかっただけなのかも知れない。
Nikki / くるり
- 2005-11-27 日曜日
- Category - Art
- Tag - music / literature
待ちに待った新譜。今日繰り返し聴いてみて思った事。岸田君は(僕は基本的にくるりは岸田繁のワンマンバンドだと思っている。本人は否定するだろうけど。)すっかり苛立ちが成りを潜め、皮肉が少なくなったなあ、と思う。岸田繁という名の一人の男の成長が、正確に伝わってくる。それが音楽の本質かどうかという議論は置いておく。僕はそういう人間の成長を見て取れるというのが好きなのだ。リアルタイムで聴いていた訳ではないが、The Beatles や The Rolling Stones を聴いていてもそれを感じ、あたかも冗談のように長い長編小説を読んでいるような感覚がある。椎名林檎も同じ。言ってみれば文学に近い。それに歌詞も随分変わって来た気がする。これまでは、演奏と歌詞は独立しているような印象であったが、このアルバムでは両方が同時に聴かれなければ、伝わって来ないような気がする。新譜が出る度に、その変化にすぐに馴れる事が出来ないが、後々、結局全てのアルバムを好きになってしまう。何時までも聴き続けていたいバンドである。
Middle Tempo Magic / 安藤 裕子
- 2005-11-20 日曜日
- Category - Art
- Tag - music / psychology
涅槃
今朝見た夢。
其処は、廃業した古いホテルを改装して造られたギャラリーだった。ホテル自体はとても小さな建物で、5フロアしかない。でもギャラリーにしては大き過ぎる程であろう。壁には真っ白な漆喰が塗り込められ、玄関のガラスを格子柄にはめ込まれた扉からは、暖かそうな光が洩れている。僕は招待状を手に玄関に足を踏み入れた。
エントランスロビーには多くの人々で溢れていた。老若男女、様々な様相の人達が居た。タキシードやナイトドレスで正装している老いた男女。学校帰りにでも立ち寄った感じの全く普段着の少年や少女。そしてそれらを両極としたグラデーションのような格好の人々。それらの人々は、これから展示作品を観るのか、それとも見終わったところなのか、グラスで酒を飲んでいたり、煙草を吸ったりしていた。
右側にフロントの受付。正面には二階へと続く階段。その階段を上ると展示室に行けるようだ。階段の右側の凝った彫刻を施した手摺りの前に、一人の女性が立って客達に挨拶をしていた。赤いドレスを来て、白いハーフコートを羽織っていた。誰に訊かずともその人が作家である事が判った。それより何より、その人が先日海辺で、波間に消えた人である事を唐突に思い出した。良かった。生きてたんだ。以前の髪型とは違い、前髪を額の中程で切り揃えていた。そのせいか、表情がとても明るく見える。以前は、少し離れて見ると、顔に差す影が実際以上に濃く見えて、僕はそれがずっと気になっていたのだった。
そしてその人は、僕が以前から見慣れているように、客が近付いて来る度に、ぎこちない態度で微笑みかけたり、お辞儀をしたりしていた。運営のスタッフから独り離れて、あたかもそれが自分に課せられた使命であるかのように、誰にでも平等に、精一杯の気持ちを込めて。僕は暫くその姿を眺めていた。出来ればそのままそうしていたかったのだが、そんな訳にも行かず、意を決して僕はその人に向かって歩いた。その人は、他の客と変わりない笑顔を浮かべて僕にお辞儀をした。その人は僕が僕であると気付いてはいないようだ。見えていないのか。忘れているのか。そう考えた瞬間ある事を思いついた。この人はきっと、生まれ変わりたかったのだ。どういう理由なのかは解らないが、きっとそうなのだ。だからあの時、僕の目の前から居なくなったのだ。そうであるのなら、それを受け容れる以外に僕に出来る事などあるまい。
僕は声もかけぬまま、その人の前を通り過ぎ、階段を登った。
部屋に入ると、10号のキャンバス・サイズの絵が並べてあった。どの絵も地色は赤で、それに青や黄色や黒や金色で、どうにか具象として認識できる何かが描かれている。下塗りは油であるようだが、それ以外は何を使って描いているのか全然判らない。エナメルや金属を塗り込めているようにも見える。形態としてはホアン・ミロに似てる気もしたが、色彩が全然違う。
次の部屋は、サイズと色彩が違うが、描かれている物は同じであるようだ。
その次の部屋に行くまでの間、渡り廊下があって、其処は照明が落とされモニターにヴィデオ作品が展示されていた。モニターへ近付こうと三方枠を抜けた途端に自分の身体に像が浮かぶ。廊下の両側から投写してホログラフィーを投影しているようだ。自分の身体に浮かんだ像とは、人間の筋肉である。その筋肉が過剰な輝きと形態を持って自分の身体を覆い尽くす。それに自分が動く毎に、真っ赤な筋肉は蠢き変容する。目の前のモニターには、仄かに明るく浮かぶ人間の頭部が映し出されている。その頭部は夜の街で、排水溝のステンレスの蓋を食べている。口元を緑色に光らせ、ガリガリと金属を食べ尽くそうとしている。
そこで目が覚めた。朝の6時頃の話。続きを見たくて二度寝したが、見る事は出来なかった。
其処は、廃業した古いホテルを改装して造られたギャラリーだった。ホテル自体はとても小さな建物で、5フロアしかない。でもギャラリーにしては大き過ぎる程であろう。壁には真っ白な漆喰が塗り込められ、玄関のガラスを格子柄にはめ込まれた扉からは、暖かそうな光が洩れている。僕は招待状を手に玄関に足を踏み入れた。
エントランスロビーには多くの人々で溢れていた。老若男女、様々な様相の人達が居た。タキシードやナイトドレスで正装している老いた男女。学校帰りにでも立ち寄った感じの全く普段着の少年や少女。そしてそれらを両極としたグラデーションのような格好の人々。それらの人々は、これから展示作品を観るのか、それとも見終わったところなのか、グラスで酒を飲んでいたり、煙草を吸ったりしていた。
右側にフロントの受付。正面には二階へと続く階段。その階段を上ると展示室に行けるようだ。階段の右側の凝った彫刻を施した手摺りの前に、一人の女性が立って客達に挨拶をしていた。赤いドレスを来て、白いハーフコートを羽織っていた。誰に訊かずともその人が作家である事が判った。それより何より、その人が先日海辺で、波間に消えた人である事を唐突に思い出した。良かった。生きてたんだ。以前の髪型とは違い、前髪を額の中程で切り揃えていた。そのせいか、表情がとても明るく見える。以前は、少し離れて見ると、顔に差す影が実際以上に濃く見えて、僕はそれがずっと気になっていたのだった。
そしてその人は、僕が以前から見慣れているように、客が近付いて来る度に、ぎこちない態度で微笑みかけたり、お辞儀をしたりしていた。運営のスタッフから独り離れて、あたかもそれが自分に課せられた使命であるかのように、誰にでも平等に、精一杯の気持ちを込めて。僕は暫くその姿を眺めていた。出来ればそのままそうしていたかったのだが、そんな訳にも行かず、意を決して僕はその人に向かって歩いた。その人は、他の客と変わりない笑顔を浮かべて僕にお辞儀をした。その人は僕が僕であると気付いてはいないようだ。見えていないのか。忘れているのか。そう考えた瞬間ある事を思いついた。この人はきっと、生まれ変わりたかったのだ。どういう理由なのかは解らないが、きっとそうなのだ。だからあの時、僕の目の前から居なくなったのだ。そうであるのなら、それを受け容れる以外に僕に出来る事などあるまい。
僕は声もかけぬまま、その人の前を通り過ぎ、階段を登った。
部屋に入ると、10号のキャンバス・サイズの絵が並べてあった。どの絵も地色は赤で、それに青や黄色や黒や金色で、どうにか具象として認識できる何かが描かれている。下塗りは油であるようだが、それ以外は何を使って描いているのか全然判らない。エナメルや金属を塗り込めているようにも見える。形態としてはホアン・ミロに似てる気もしたが、色彩が全然違う。
次の部屋は、サイズと色彩が違うが、描かれている物は同じであるようだ。
その次の部屋に行くまでの間、渡り廊下があって、其処は照明が落とされモニターにヴィデオ作品が展示されていた。モニターへ近付こうと三方枠を抜けた途端に自分の身体に像が浮かぶ。廊下の両側から投写してホログラフィーを投影しているようだ。自分の身体に浮かんだ像とは、人間の筋肉である。その筋肉が過剰な輝きと形態を持って自分の身体を覆い尽くす。それに自分が動く毎に、真っ赤な筋肉は蠢き変容する。目の前のモニターには、仄かに明るく浮かぶ人間の頭部が映し出されている。その頭部は夜の街で、排水溝のステンレスの蓋を食べている。口元を緑色に光らせ、ガリガリと金属を食べ尽くそうとしている。
そこで目が覚めた。朝の6時頃の話。続きを見たくて二度寝したが、見る事は出来なかった。
逃亡記
- 2005-11-16 水曜日
- Category - Days
- Tag - diary / philosophy
ふと、或る文章を思い出した。これは5年前の5月に、とある女性が WEB 上に書いた日記の一部である。引用するのだから出所を明記したいところだけれど、そのサイトは現存するとは言え長い間更新されていないし、当の日記は既に削除されている。なので本人が見たら嫌だろうなあ、と思い内容だけに止める事にする。
追記 : 2006.02.12 そのサイトは先週削除されました。もう存在しません。
生きることに意味など無いことは、ずっと前から知っている。では問うが、これまで絶対に失ってはいけないものを持つことが出来なかったことの意味は? 問いかけても答える声はなく、ただ風の音が聞こえるだけだ。立ち止まり、月夜に輝く水のきらめきを見つめた。280円で静寂を購入する。一語一句を覚えていた訳ではないが、事ある毎にこの文章を思い出していた。そしていつも、己の不可解さに立ち惑い、自分の感情に根差す何かに固執する事を諦めていたのであった。取り敢えずは誰も死んでいないようだ。良かった。とは言え、僕に何か出来る事が在る訳でもなく、唯一僕に出来る事が在るとすれば、それは「何もしない事」でしかない。一昨日に何処かのブログで読んだように、誰かに迷惑をかけたのならば、自分は立ち去らねばならない。長い間そう思っていた。それは間違いであるのか、そうではないのか。いずれにせよ、僕は疎まれ歓迎されていない場所に留まる事が出来ない。
もう終わっているはずのおまけの人生であり、壮大な暇つぶしの日々である。と思い込もうとしている。まだ私は私の為に生きたことがないような気がするのだ。と言いきかせている。
100円落とした。目を凝らしても月の光だけでは見つけることは無理みたいだ。問題なのは、これまで絶対に失ってはいけないものを持つことが出来なかったことではなく、絶対に失ってはいけないと感じることが出来なかった己の感性なのではないだろうか。
いつかはすべて忘れてしまうだろう。忘れてはいけないことまで。遠くの電話ボックスの明かりが、まるで救いの火のように見えた。冷たい風に吹かれて、点滅する赤信号に照らされ、アスファルトの上、ここにこうして立っているワケは?
追記 : 2006.02.12 そのサイトは先週削除されました。もう存在しません。
海辺へ続く道
波打ち際で一緒に遊んでいた誰かが、僕の忠告に耳を貸さずに、段々と岸から離れて海へ入っていく。風も強くなってきて、波も高くなり始めた。僕が大声で呼んでも、その人は聞こえていない振りをしてずんずんと前へ進んでいく。とても心配だったが、僕は何故か海へ入って行く事が出来なかった。風に煽られた海水が僕の目を打つ。次に目を開けた時、その人の姿は何処にもなかった。僕はそこでようやく海の中へ走り込んだ。その人がそこら辺に沈んでるのではないかと、海水の中を何時間も歩き回った。怖くて堪らなかった。そして歩き疲れた頃、もう見つからないであろう事を確信した。悲しくてやるせなくて、それでも泣く事は出来なかった。潮風が白く目を掠める。横に流れる白と波の音が感覚を占め、やがて視界の全てが白く霞んだ。
というところで目が覚めた。こんな夢は初めて見たが、物凄く堪える。居なくなってしまった人が一体誰であったのか、全然思い出せない。
というところで目が覚めた。こんな夢は初めて見たが、物凄く堪える。居なくなってしまった人が一体誰であったのか、全然思い出せない。
イサム・ノグチ展 / 東京都現代美術館
観に行った時の事を書くのを忘れていた。
入口から入ってすぐ、2m級の提灯が展示してあるスペースで、音声サービスのイヤフォンに耳を傾けつつ、一心に見つめている女の子が居た。他にも閲覧者は何人も居たというのに、何故かその子だけが目に入った。たぶん20歳くらい。美大だとか美術系の学生なのだろう、今の僕が属する環境では考えられない服装をしていた。ま、そんな事はどうでも良い。
それから後も、彼方此方の展示スペースで彼女を見かける。というか目に入ってくる。そうすると、イサム・ノグチの彫刻よりも彼女ばかりを目で追ってしまうのだ。何もその女の子が凄く好みであったとかそういう事ではない。それぞれの彫刻を取り憑かれたように見つめ、彫刻から彫刻へと小動物のように渡り歩くその姿から目を離せないのである。そんなにも熱狂的に彫刻を観る人は他には誰一人居なかった。自分の気に入った物だけを集中的に観る習慣の私とは違い、彼女は何一つ見逃そうとしない。何かしら切実さを感じしてしまう。僕はこういう人を見ているのが好きである。
展示場から出て、関係する書籍やグッズの販売スペースを彷徨いていたのだが、其処でもその女の子を見る事になる。彼女の情熱は留まる事を覚えないようで、此処でも全ての商品を吟味していた。既に手に幾つもの商品の入った袋を下げ、それでも未だ何か探そうとしている。Tシャツを選ぶのには、30分ほどかけていた。最後に彼女が買った物は、イサム・ノグチとは全く関係のない「太陽の塔」のオブジェ。包装して貰っているところを見ると、友人へのお土産か何かにするのだろう。取り敢えずそれで満足したのか、彼女は意気揚々と美術館を後にした。
イサム・ノグチの彫刻を観に行ったというより、その女の子を観に行ったようなものであった。
入口から入ってすぐ、2m級の提灯が展示してあるスペースで、音声サービスのイヤフォンに耳を傾けつつ、一心に見つめている女の子が居た。他にも閲覧者は何人も居たというのに、何故かその子だけが目に入った。たぶん20歳くらい。美大だとか美術系の学生なのだろう、今の僕が属する環境では考えられない服装をしていた。ま、そんな事はどうでも良い。
それから後も、彼方此方の展示スペースで彼女を見かける。というか目に入ってくる。そうすると、イサム・ノグチの彫刻よりも彼女ばかりを目で追ってしまうのだ。何もその女の子が凄く好みであったとかそういう事ではない。それぞれの彫刻を取り憑かれたように見つめ、彫刻から彫刻へと小動物のように渡り歩くその姿から目を離せないのである。そんなにも熱狂的に彫刻を観る人は他には誰一人居なかった。自分の気に入った物だけを集中的に観る習慣の私とは違い、彼女は何一つ見逃そうとしない。何かしら切実さを感じしてしまう。僕はこういう人を見ているのが好きである。
展示場から出て、関係する書籍やグッズの販売スペースを彷徨いていたのだが、其処でもその女の子を見る事になる。彼女の情熱は留まる事を覚えないようで、此処でも全ての商品を吟味していた。既に手に幾つもの商品の入った袋を下げ、それでも未だ何か探そうとしている。Tシャツを選ぶのには、30分ほどかけていた。最後に彼女が買った物は、イサム・ノグチとは全く関係のない「太陽の塔」のオブジェ。包装して貰っているところを見ると、友人へのお土産か何かにするのだろう。取り敢えずそれで満足したのか、彼女は意気揚々と美術館を後にした。
イサム・ノグチの彫刻を観に行ったというより、その女の子を観に行ったようなものであった。
コーヒーテーブル
板塀の隙間から庭の外へ出て行ってしまった黒猫は、たぶん戻っては来ないのだろう。そんな気がする。それに、きっとそれで良いのだろうとも思う。髪の毛が伸び過ぎていた。花瓶の水を入れ替え、窓を開け、此処にこうして座っていよう。
花垂れて
枯れる色彩 落ちる秋
Isamu Noguchi
- 2005-11-06 日曜日
- Category - Art
- Tag - philosophy / sculpture
東京都現代美術館のイサム・ノグチ展にて購入したDVDを観た。その中で、彼のデザインした提灯を模した照明「AKARI」についてこう語っている。
紙の提灯は壊れても、また新しいものに取り替えられる。私はこの概念を日本に教わった。過ぎゆくものを慈しむ心。いずれ人生は終わり、桜の花は散る。そこに残るのは芸術と命なのだ。これと似たような言葉を、昔テレビで見かけた事がある。確か北欧を紹介する番組で、国はスウェーデンかフィンランドだったと記憶する。我々が普段目にする欧州の教会は、通常は重圧で頑強な石を使って建てられる。しかしその国の教会は木造だった。教会などは何十年も何百年も壊れてしまわないように、石で建造するのが普通の考え方ではないかという問に、木造の教会で神に仕える牧師はこう答える。「形あるものは全て朽ち果て、壊れてしまうものだと私達は考えている。しかし、教会が朽ち果てても、そこに信仰は残るのだ。」僕には、その考えはとても東洋的なものに思えた。しかしその発想は、明らかに間違った認識であるようだ。









