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October 2007
ハイヒール
季節はとうに過ぎ去ってしまっているが、女性が素足に履くミュールはとても好きだ。個人的な好みを言えば、白い素足に黒や紺などの濃い色のミュールを履いてるのを見るのが大好きである。ところが、である。ミュールを履いた女性の足音はどうにも美しくない。踵をホールドしていないせいで、ヒールは恥も外聞もなく地面を打ち叩きパカンパカンと遠慮の無い音をたてる。これは下品である。見た目はあんなにも麗しいだけに、非常に残念な事だ。
話は少し変わるが、僕が住んでいる部屋の表通りは人の往来が少ない。ましてや夜半を過ぎれば人通りは無いに等しい。そんな中、時折闇に紛れて靴音が聞こえてくる。駅からの帰り道になっているのであろう、靴音のする方角がいつも同じである。そして何故か、聞こえてくるのはハイヒールがアスファルトを打つ音ばかりなのだ。まあ考えてみれば、最近の男性用の靴は柔らかい靴底のものが多いので、恐らく僕がその靴音に気付いていないだけなのだろう。
それはともかく、そのハイヒールのたてる音が美しい事と言ったら! 僅かに抑制された靴音は、音のくぐもりを突き破るかのように闇に響き渡り、残された余韻は幾層にも重なって耳にまとわりつく。誰がどう考えても実用以外の目的で創られたこの装身具。それが日常で用いられているという事実をどう捉えるのか。それを考えると空恐ろしい気分にならなくもない。
余談だが、知識としてだけ知っていた纏足。先日テレビで一瞬だけその足を見る機会があった。それはもう、何というか本当に驚愕に値する。
話は少し変わるが、僕が住んでいる部屋の表通りは人の往来が少ない。ましてや夜半を過ぎれば人通りは無いに等しい。そんな中、時折闇に紛れて靴音が聞こえてくる。駅からの帰り道になっているのであろう、靴音のする方角がいつも同じである。そして何故か、聞こえてくるのはハイヒールがアスファルトを打つ音ばかりなのだ。まあ考えてみれば、最近の男性用の靴は柔らかい靴底のものが多いので、恐らく僕がその靴音に気付いていないだけなのだろう。
それはともかく、そのハイヒールのたてる音が美しい事と言ったら! 僅かに抑制された靴音は、音のくぐもりを突き破るかのように闇に響き渡り、残された余韻は幾層にも重なって耳にまとわりつく。誰がどう考えても実用以外の目的で創られたこの装身具。それが日常で用いられているという事実をどう捉えるのか。それを考えると空恐ろしい気分にならなくもない。
余談だが、知識としてだけ知っていた纏足。先日テレビで一瞬だけその足を見る機会があった。それはもう、何というか本当に驚愕に値する。
花冷やし秋の終わりを告げる雨
猫と並んで溜め息ひとつ
絵初め
父方の祖母の葬儀の時に、伯母の一人から少し面白い話を聞いた。僕がまだ幼い頃の話だ。だいたいこういう時というのは、自分の子供の頃のロクでもない話を聞かされるのが常であるが、その時もやはり御多分に漏れず、しっかりとその口を閉じたまま早い内に墓場に直行して貰いたいと思ってしまうような話を聞かされた。ま、そんな話の中の一つ。
ある時、伯母に抱き抱えられていた僕は彼女に向かってこう言ったそうだ。「おばちゃん、ゾウの絵を描いてそれを僕にちょーだい。」・・・どういう事だろうか。普通ならば「ゾウが欲しいから買って。」などと無茶を言うのが無邪気な子供の在るべき姿であろう。なのになぜ「絵」が欲しいのか。その「絵」を自分で描かずに人に描かせようとするところがやはり子供であるが、僕は実物のゾウよりも「絵に描かれたゾウ」の方が好きだったのだろうか。その話は感慨深いようで、それでいて己の恥を露呈してしまうような、複雑な心境に陥る話であった。
ある時、伯母に抱き抱えられていた僕は彼女に向かってこう言ったそうだ。「おばちゃん、ゾウの絵を描いてそれを僕にちょーだい。」・・・どういう事だろうか。普通ならば「ゾウが欲しいから買って。」などと無茶を言うのが無邪気な子供の在るべき姿であろう。なのになぜ「絵」が欲しいのか。その「絵」を自分で描かずに人に描かせようとするところがやはり子供であるが、僕は実物のゾウよりも「絵に描かれたゾウ」の方が好きだったのだろうか。その話は感慨深いようで、それでいて己の恥を露呈してしまうような、複雑な心境に陥る話であった。
浪曲
昨日の午後、たまたまテレビを点けてみたら、NHKで「東西浪曲特選」という番組をやっていて、具合が良さそうなので寝転んで観ていた。これまでの人生で、僕は浪曲という芸能をまともに観た事も聴いた事もなかったのであるが、これがなかなか格好良い。まず舞台上に置かれた、布で覆われた三つの台の配置が美しく、弁士(というのかどうかは知らないのだが)は其処に絶妙に収まる感じで立つ。そしてその語り口たるや、己の口一つで時間をコントロールする事に長け、盛り上げ方が非常に巧い。僕が全く知らなかった世界であるが、これは知っておいた方が良いのではないだろうか。そう思う日曜の午後であった。
浪曲に於いても、伴奏というか囃すのは三味線の音。僕はそちらにも耳を奪われていた。唄を伴わない三味線の楽曲はないのだろうか。かつて吉原遊郭で、郭の営業開始と共に掻き鳴らされたという「清掻」に非常に興味を覚える。何度となく、新宿紀伊国屋本店で「清掻」で探してみたが、それらしいCDは見つからなかった。あの手の音は一日中聴いていても飽きないような気がするのだけれど、さて、何処かに無いものだろうか。
浪曲に於いても、伴奏というか囃すのは三味線の音。僕はそちらにも耳を奪われていた。唄を伴わない三味線の楽曲はないのだろうか。かつて吉原遊郭で、郭の営業開始と共に掻き鳴らされたという「清掻」に非常に興味を覚える。何度となく、新宿紀伊国屋本店で「清掻」で探してみたが、それらしいCDは見つからなかった。あの手の音は一日中聴いていても飽きないような気がするのだけれど、さて、何処かに無いものだろうか。
たぬき丼
確か先々月の事。未だ夏であった。銀座での仕事が昼を跨ぐので、昼食を摂ろうと入った老舗風の蕎麦屋。当初は盛り蕎麦を食べようと考えていたのに、お品書きに見慣れない「たぬき丼」という品目を見つけた。その文字を見た傍からどういう料理だか想像ついてしまうほどの判りやすさ。しかしながらこれまでの人生ではお目に掛かった事のない食べ物であったので、ついつい注文してしまう。
結果。旨くない。注文する前から判り切っていたはずだし、実際に目の前にしてみて、何処をどう見ても想像通りの食べ物でしかない。でも旨くない。たぬき饂飩やたぬき蕎麦はあんなに旨いのに、たぬき丼は旨くない。それに何だか騙されたというか手を抜かれた気持ちになる。饂飩や蕎麦に乗せた場合には、それは立派なトッピングとして存在を主張しえる物が、丼物に乗せてしまうと突如として残りカスになる。不思議だ。
此処まで書いておいて何だが「たぬき」に乗っているのは「揚げ玉」若しくは「天かす」の事である。
結果。旨くない。注文する前から判り切っていたはずだし、実際に目の前にしてみて、何処をどう見ても想像通りの食べ物でしかない。でも旨くない。たぬき饂飩やたぬき蕎麦はあんなに旨いのに、たぬき丼は旨くない。それに何だか騙されたというか手を抜かれた気持ちになる。饂飩や蕎麦に乗せた場合には、それは立派なトッピングとして存在を主張しえる物が、丼物に乗せてしまうと突如として残りカスになる。不思議だ。
此処まで書いておいて何だが「たぬき」に乗っているのは「揚げ玉」若しくは「天かす」の事である。
高菜
スーパーでの事。「小松菜のお浸し」という商品が旨くてよく利用していたのだが、今日見たら同じ商品の名前が「江戸菜のお浸し」に変わっていた。見た目は全く同じ物なので、さては「小松菜」の別称が「江戸菜」なのだろうと僕は推測した。
さて、部屋に戻って早速つまんでみると、味もまったく同じである。やはり。良い機会ではあるので詳しく事情を知っておこうと調べてみたところ、現在の東京都江戸川区の小松川付近で栽培されていた「小松菜」の改良種が「江戸菜」であるらしい。がしかし、食べてみても何処がどう改良されたのか判らない。たぶん同じものなのだろう。
ところで、いろいろ調べていると「小松菜」と「高菜」は同類の種であるらしい。そう言えば歯ごたえや味が似ている。とはいえ、僕はこれまで「高菜」と言えば漬けた物か、更にそれを唐辛子と共に炒めた物しか知らなかったので、今日改めて気付いた次第である。
因みに、僕の実家ではよく高菜が食卓に上る。漬けた物・炒めた物両方。これは地域的(隣の熊本県阿蘇が産地であるらしい)なもので、一般的な傾向であるのだが、そう言えば通っていた大学の学食にも「高菜チャーハン」が「チャーハン」と同じ値段で並んでメニューに在った。そうなると、同じ値段であるなら僕は「高菜チャーハン」ばかりを食べてしまう訳で、考えてみればこの頃から僕の食べ物に対する冒険心の無さが伺える。(余談だが、僕が生まれ育った町には中華料理店は無く、「炒飯/チャーハン」という名称を大学に上がるまで知らなかった。同じ調理法に拠る料理は「焼き飯」と呼ばれていた。)
東京へ移り住んで十数年。ラーメン屋で豚骨ラーメンのトッピングとしてか、若しくはコンビニの弁当以外に此処で高菜を食べた記憶が無い。関東地方には高菜を食べる食習慣がないのだろうからそれは仕方がないし、そもそも住んでいる場所に適した食べ物食べているのが一番良いと思うので別段問題はないのだが、かつて食べ慣れていた食物を見て「珍しい」という気持ちになる事が、たまに不思議に思う事がある。
さて、部屋に戻って早速つまんでみると、味もまったく同じである。やはり。良い機会ではあるので詳しく事情を知っておこうと調べてみたところ、現在の東京都江戸川区の小松川付近で栽培されていた「小松菜」の改良種が「江戸菜」であるらしい。がしかし、食べてみても何処がどう改良されたのか判らない。たぶん同じものなのだろう。
ところで、いろいろ調べていると「小松菜」と「高菜」は同類の種であるらしい。そう言えば歯ごたえや味が似ている。とはいえ、僕はこれまで「高菜」と言えば漬けた物か、更にそれを唐辛子と共に炒めた物しか知らなかったので、今日改めて気付いた次第である。
因みに、僕の実家ではよく高菜が食卓に上る。漬けた物・炒めた物両方。これは地域的(隣の熊本県阿蘇が産地であるらしい)なもので、一般的な傾向であるのだが、そう言えば通っていた大学の学食にも「高菜チャーハン」が「チャーハン」と同じ値段で並んでメニューに在った。そうなると、同じ値段であるなら僕は「高菜チャーハン」ばかりを食べてしまう訳で、考えてみればこの頃から僕の食べ物に対する冒険心の無さが伺える。(余談だが、僕が生まれ育った町には中華料理店は無く、「炒飯/チャーハン」という名称を大学に上がるまで知らなかった。同じ調理法に拠る料理は「焼き飯」と呼ばれていた。)
東京へ移り住んで十数年。ラーメン屋で豚骨ラーメンのトッピングとしてか、若しくはコンビニの弁当以外に此処で高菜を食べた記憶が無い。関東地方には高菜を食べる食習慣がないのだろうからそれは仕方がないし、そもそも住んでいる場所に適した食べ物食べているのが一番良いと思うので別段問題はないのだが、かつて食べ慣れていた食物を見て「珍しい」という気持ちになる事が、たまに不思議に思う事がある。
弱きに端を発す
- 2007-10-06 Saturday
- Category - People
- Tag - health / philosophy
ほぼ日刊イトイ新聞で、赤瀬川源平・南伸坊・糸井重里による「黄昏」という連載が始まっていて、その中で糸井重里がこんな事を言っている。こんな話を他人の口から聞いた事がなかったので少し書きたくなった。
人間が弱るのは勿論老衰だけではない。疾患や外的損傷。例えば風邪をこじらせ長い期間臥せっている時や、起き上がる事すらままならないほどの怪我を負うとか、そんな時には健常であった頃の自分が奇跡であったかのように思える。地上へと降りそそぐ暖かな陽の光を眺めては恨めしく思ったり、往来を元気に歩く人々を眺めては別世界の一幕を見つめているような気がしたりする。自分に与えられたものはと言えば、四角く区切られた窓から差し込む陽射しと、窓の隙間から洩れ聞こえてくる往来を歩く人々の作り出す物音くらい。しかもそれらは刻一刻と移り行き、やがては消え去ってしまう。何事も有限である事を切実に感じるのはこういう時である。引き留めたくても自分にはそれに対応できる体力が無い。動けないのだからどうしようもない。
付け加えるならば、この事は何も肉体的な弱者に限った話ではない。人間が弱っていくのには多種多様な理由が在ると思う。
さて、そういう弱った状態の人間にとって外界からの影響は甚大で、健常ならば些細に思える事でも物凄く堪えるものである。光も音も匂いも微量なものしか受け容れられないし、色やその他の変化も緩やかな推移を成すものしか受け容れられない。別な見方をすれば、些細な力や変化の中にとても新鮮な光を見つける事が出来るのだ。それ故に、弱き者が見つめるその世界観は精緻を極める。この世に存在するあらゆる意味での芸術は、恐らくそういう人々が創り続けてきたのではないだろうかと思っている。
たぶん、弱い生き物ほど、感覚が研ぎ澄まされているというか、「気配」を感じやすいんだと思うんです。というのは、その生き物が弱い場合、ちょっとした変化が命取りになるおそれがあるから。圧倒的な弱者である子供は当然の事だと置いておくとして、年寄り同士の会話がえてして天候の変化に関する話題に終始してしまうというのは、まさにこういう事だと思うのだ。傍から聞いているとどうでも良い事を話しているように聞こえても、彼らに取っては重要な事柄なのだろう。僕が年寄りになるには未だ時間が在るが、今現在から予想するに十分に想像が出来る。
人間が弱るのは勿論老衰だけではない。疾患や外的損傷。例えば風邪をこじらせ長い期間臥せっている時や、起き上がる事すらままならないほどの怪我を負うとか、そんな時には健常であった頃の自分が奇跡であったかのように思える。地上へと降りそそぐ暖かな陽の光を眺めては恨めしく思ったり、往来を元気に歩く人々を眺めては別世界の一幕を見つめているような気がしたりする。自分に与えられたものはと言えば、四角く区切られた窓から差し込む陽射しと、窓の隙間から洩れ聞こえてくる往来を歩く人々の作り出す物音くらい。しかもそれらは刻一刻と移り行き、やがては消え去ってしまう。何事も有限である事を切実に感じるのはこういう時である。引き留めたくても自分にはそれに対応できる体力が無い。動けないのだからどうしようもない。
付け加えるならば、この事は何も肉体的な弱者に限った話ではない。人間が弱っていくのには多種多様な理由が在ると思う。
さて、そういう弱った状態の人間にとって外界からの影響は甚大で、健常ならば些細に思える事でも物凄く堪えるものである。光も音も匂いも微量なものしか受け容れられないし、色やその他の変化も緩やかな推移を成すものしか受け容れられない。別な見方をすれば、些細な力や変化の中にとても新鮮な光を見つける事が出来るのだ。それ故に、弱き者が見つめるその世界観は精緻を極める。この世に存在するあらゆる意味での芸術は、恐らくそういう人々が創り続けてきたのではないだろうかと思っている。










