April 2008
Rip It Up / Dead or Alive
- 2008-04-30 Wednesday
- Category - Art
- Tag - music / entertainment
今現在35歳以上で、中途半端に不真面目な青春を送っていたであろう人が思わず反応してしまう Dead or Alive のアルバム(これはリミックス盤だけど)。まあ、飽くまで僕のイメージだが。その昔、若者が毎夜大音量の音楽に合わせて身体をくねらす場所をディスコと呼んでいた頃に、場所を限らず彼方此方で流れていた。余りに流行っていたのでついには歌番組にまで登場するのだが、そういうのを二度観た事がある。はっきりとは覚えていないがザ・ベストテンとかそこら辺の番組。曲はたぶん「 Something in My House 」か「 You Spin Me 'Round 」で、どっちがどっちだったのか覚えていない。最初に観たのはロンドンに在る教会からの中継で、牧師が説教を垂れる教壇のような位置に Pete Burns が立って歌っていた。その姿がもの凄く格好良くて、僕は踊り出しそうになるくらい興奮したものである。
そして次に観たのもテレビ番組で、今度は実際にスタジオに来ていた。演奏が始まり中央で謳う Pete Burns の両脇には皮のライダーズジャケット(若しくはベスト)を着て、皮のショートパンツを穿いたハードゲイ風なダンサーが踊る。イギリスは凄いなあ、と感心しながら僕はその光景を眺めていたのだけれど、途中でその二人のダンサーが踊りながら腰のベルトを外し始めたかと思うと、サビのパートで外したベルトを股に通して、そしてなんとビートに合わせて股間を擦り始めたのである。
当時の僕はまだ成人する少し前のカピカピの童貞であったが為(いやそうでなくても)びっくりした。ゴールデンタイム放送に堪えない衝撃的な映像であった。歌番組でそんなにも衝撃的な映像を観るのは「い・け・な・いルージュマジック」のPVの中で忌野清志郎と坂本龍一がディープキスしている映像を観て以来であった。(リンク先の映像ではしてませんけどね)
山手線沿線を歩く(新大久保〜新宿)


職安通り近くの廃墟: 新大久保駅から線路沿いに歩いて、職安通りに出る直前にこんな廃墟が在った。一階の屋根から二階部分に至まで枯れた植物で覆われている。蔦ではないし、一体何の植物なのか判らないが春から夏に植物が再生した際には(この写真は真冬に撮ったもの)緑に覆われているのだろう。その植物の重みでいずれ屋根が押し潰されてしまうんじゃないかな。
近所に住んでいるのだろう子供達が塀の中を覗き込んでいた。ついでに僕も覗き込んでみた。よく見えない。誰も住んではいないだろうけれど、誰も中に居ないとは限らない。そう考えると結構怖い。

大ガード越しに望む西新宿のビル群: 写真の出来はかなり悪いのだが、僕はこの風景が好きである。たぶん新宿の中では一番好きだ。しかし太陽を背にしている事が多いのでまともな写真が撮れた試しがない。なのでいつもぼうっと眺めている。この風景の何が好きかって、節操の無さ加減が。この風景に限らず新宿は何処も節操の無い印象を受ける。そしてそれがとてもアジア的である。

歌舞伎町・ガード下・やきとり横町・新宿駅: 新宿という街は、人々が何らかの欲求を満たす為に訪れる場所であり、其処で働く人々はそれらの欲求の受け皿を用意し、対象物を提供する。この場所は街という概念から離れ、もはや巨大な装置である。そしてその装置内の各部位は、人々の欲求の変移に目敏く反応し、自らを流動的に造り替える。だからこの街に対する興味は果てしがない。
プールで騎馬戦、ビート板で殴り合い。
仕事中、事務所にはいつも J-WAVE が流れており、その中の昼時の番組 Music Plus で、コーナーの一つとしてハワイからの放送がある。ま、そんな事はどうでも良いのだけれど、サーフィンの話題の中で「ビート板」という懐かしい響きを持つ言葉が出てきた。それを聴いてふいに思い出される記憶があった。そう言えば高校の時、夏の体育の授業で水中騎馬戦をやった気がする。しかもその際にビート板で殴り合った気がする。どう考えても正規の授業プログラムだとは思えないが確かにやった。
試しに同じフロアの後輩に尋ねてみたところ、彼もやった気がするとの事。同じ県の出身なのでもしかして同県では、ちゃんとプログラムに予定されていたのだろうか。教育委員会がそんなの推奨するかなあ・・・。僕の想像では、体力を有り余らせて日頃の鬱憤が溜まっている学生に、体育の教師が気紛れにやらせていただけのような気がするのだが。
で、少し気になって女性の後輩にも尋ねてみたら、体育祭では女子の騎馬戦が存在したらしい。僕の通っていた学校では存在しなかった。女同士の騎馬戦なんて「ポロリ!芸能人の水泳大会」でしか観た事ない。観たいような観たくないような・・・いや、やっぱり観たくないな。めちゃくちゃ怖そうである。一人はそれは小学生の時だけであったと言うが、もう一人は高校の時にもあったとの事。更に怖そうである。
僕が通っていた高校の体育祭でも男子の騎馬戦はあった。自由参加のプログラムだったのだが、普段はそういう事に興味を全く持てなかった僕でさえ参加した。通常の騎馬戦では殴る蹴るは当然御法度のはずなんだけど、それはそれ、高校生の体力を持ってしての騎馬戦であるから勿論殴るし蹴る。僕は前方の馬役だったが、相手騎馬とぶつかった時に何故か相手の前方に殴られた。殴り返したくても乗ってる奴の体重が僕の手の平にかかっているので、そこから手を離せない。一体どうやって相手の前方は手を離す事が出来たのだろうか。でも今思えば、奴は最初から殴りたくてそもそも手を離していたのだろう。
女子の騎馬戦の話に戻る。高校の体育祭での騎馬戦を経験したという後輩。こやつが豪語するのである。「私、馬役だったんですけど、相手の、上に乗ってる奴を叩きのめしましたよ!」そこで高笑いである。その偉業は一体どうやって成し遂げたのかと尋ねてみたところ「もうね、身体ごと突っ込んで行くんですよ!どかーん!て!」いや、それは判るがそれぞれの位置している高さが違うだろう、と思ったが怖いのでそれ以上訊かない事にした。きっとどうにかやって叩きのめしたのだろう。その時の事を思い出して興奮気味の彼女が更に言うには「騎馬戦はねえ、公然と人を殴れる絶好のチャンスなんですよ!」解る。その気持ち。たかだかクラスが違うだけの理由で騎馬で戦う事になった僕等だが、出陣前に気合いを入れる為に円陣を組んだ時の台詞が怖い。「○組の奴らば殺せえ!!」状況が整えば、僕等はそんな事をつい口にしてしまうような生き物なのである。だからと言って女の口から同じ台詞は余り聞きたくはない。何故かって、そもそもが怖い人達なのだから。
試しに同じフロアの後輩に尋ねてみたところ、彼もやった気がするとの事。同じ県の出身なのでもしかして同県では、ちゃんとプログラムに予定されていたのだろうか。教育委員会がそんなの推奨するかなあ・・・。僕の想像では、体力を有り余らせて日頃の鬱憤が溜まっている学生に、体育の教師が気紛れにやらせていただけのような気がするのだが。
で、少し気になって女性の後輩にも尋ねてみたら、体育祭では女子の騎馬戦が存在したらしい。僕の通っていた学校では存在しなかった。女同士の騎馬戦なんて「ポロリ!芸能人の水泳大会」でしか観た事ない。観たいような観たくないような・・・いや、やっぱり観たくないな。めちゃくちゃ怖そうである。一人はそれは小学生の時だけであったと言うが、もう一人は高校の時にもあったとの事。更に怖そうである。
僕が通っていた高校の体育祭でも男子の騎馬戦はあった。自由参加のプログラムだったのだが、普段はそういう事に興味を全く持てなかった僕でさえ参加した。通常の騎馬戦では殴る蹴るは当然御法度のはずなんだけど、それはそれ、高校生の体力を持ってしての騎馬戦であるから勿論殴るし蹴る。僕は前方の馬役だったが、相手騎馬とぶつかった時に何故か相手の前方に殴られた。殴り返したくても乗ってる奴の体重が僕の手の平にかかっているので、そこから手を離せない。一体どうやって相手の前方は手を離す事が出来たのだろうか。でも今思えば、奴は最初から殴りたくてそもそも手を離していたのだろう。
女子の騎馬戦の話に戻る。高校の体育祭での騎馬戦を経験したという後輩。こやつが豪語するのである。「私、馬役だったんですけど、相手の、上に乗ってる奴を叩きのめしましたよ!」そこで高笑いである。その偉業は一体どうやって成し遂げたのかと尋ねてみたところ「もうね、身体ごと突っ込んで行くんですよ!どかーん!て!」いや、それは判るがそれぞれの位置している高さが違うだろう、と思ったが怖いのでそれ以上訊かない事にした。きっとどうにかやって叩きのめしたのだろう。その時の事を思い出して興奮気味の彼女が更に言うには「騎馬戦はねえ、公然と人を殴れる絶好のチャンスなんですよ!」解る。その気持ち。たかだかクラスが違うだけの理由で騎馬で戦う事になった僕等だが、出陣前に気合いを入れる為に円陣を組んだ時の台詞が怖い。「○組の奴らば殺せえ!!」状況が整えば、僕等はそんな事をつい口にしてしまうような生き物なのである。だからと言って女の口から同じ台詞は余り聞きたくはない。何故かって、そもそもが怖い人達なのだから。
山手線沿線を歩く(目白〜高田馬場〜新大久保)


目白駅から高田馬場駅: 左の写真は普通のマンションの駐車場横に設置された設備器機。笠木や窓枠をきれいにマスキングして描いてあるので、恐らく許可の上でのグラフィティであるのだろう。しかし何故許可されたのだろうか。マンション自体は何の変哲もないデザインだし、脈絡もなくこういうのが出現するので少々戸惑う。
そして右の写真は、線路下の壁に描かれたグラフィティの出来損ない。というか、元はシンプルで可愛いニコニコマークだったのが、数々の悪意に晒されたが為にこのような姿に変わり果ててしまった模様。グラフィティはグラフィティ。悪戯描きは悪戯描き。全く別な種類の意志に拠って描かれる。
高田馬場駅: 主な改札口は別に在る。しかしやはり僕はこういうガード下に潜っている改札口の方が好きだ。線路脇に駅舎を建造する費用を省いたのか、それとも機能的に簡略化したかったのか実情は知らないのだけれど、成り行きと、その機能一点張りの思想で造られた構造体を目の前にすると、何だかワクワクするのである。そしてこういう改札口はどことなくひっそり感が漂う位置に設けられている事が多いので、そこがまた良いのだ。
高田馬場駅から新大久保駅: 左の写真は駅近くの手摺りの主柱に貼ってあったシール。一体何の意味を持つシールなのかさっぱり判らないのだが、陽射しや雨に晒され続けて絵柄の明るさまでをも退色していて何だか切ない。
右の写真は線路沿いに在る公園のベンチから撮ったもの。5・6人の少年達がサッカーの練習をしているだけで、その他に人影はなかった。東京中に散らばる小さな公園はおしなべて寂しい。陽も傾き始め、少し寒くなってきた事も相まってその侘びしさは一入である。
新大久保駅: この改札口前はいつ来てもごった返している。この駅に用事がある事はまず無いのでこれまで三回くらいしかこの駅で降りた事がない。その内二回は、知人から古いサックスを借りたが壊れていたのでその修理に。練習する場所ばなくて結局返してしまったけど。後の一回は別な知人とただぶらぶらしに。デニーズで珈琲を飲もうと店に入ったら、日本語を喋っているのは自分たちだけだった。そう言えばその時に280円のラーメンを食べた記憶がある。この区域は結構込み入っているので期待していたのだけれど、これは、と思う風景は少なかったなあ。
水と人の親和性
- 2008-04-09 Wednesday
- Category - People
- Tag - psychology / comic / literature / environment
羽海野チカの " 3月のライオン " を読んでいたらこんな場面が在った。事故で両親と妹を亡くした17歳でプロ棋士の主人公は、自宅の近所(モデルとしては月島)を流れる河を眺めながらこう考える。
ただ、頭の中がごちゃごちゃして一体全体何から手を付けて良いのか、更に進んでもう何もしたくないと思っているような時には、河の流れを眺めて過ごせば幾らかは気が楽になるような気がする。言葉を換えるならば、有効な自分の緩め方であると思う。
河が好きだ。好きなものなんてそんなにはないけど・・・。水がたくさんあつまった姿を見ていると、ぼうっとして頭がしんとする。よく解る表現である。川面をじっと眺めていると次第に周囲の音や匂いやその他の感覚が少しずつ遠のいて頭の中がとても静かになる。僕は生まれてこの方河の近くにしか住んだ事がないので、それだけ親しみも在るし懐かしさもある。しかしそれだけでは説明出来ない何とも言いようのない感覚に陥ってしまうのである。それが物質としての水そのものにその影響力が在るのか、それとも水の流れにあるのか、今を持ってよく解らない。
ただ、頭の中がごちゃごちゃして一体全体何から手を付けて良いのか、更に進んでもう何もしたくないと思っているような時には、河の流れを眺めて過ごせば幾らかは気が楽になるような気がする。言葉を換えるならば、有効な自分の緩め方であると思う。
小林秀雄と長谷川泰子
- 2008-04-05 Saturday
- Category - People
- Tag - psychology / movie / literature
昨日、村上護著 " 四谷花園アパート " を読み終えたのだけれど、以前にも同氏の著書 " ゆきてかへらぬ " にも書かれていた小林秀雄と長谷川泰子とのやりとりに関しての河上徹太郎の文章が引用されていて、再読しても尚、其処に書かれてる二人の人間の在り方が気に掛かってしまう。以下にそれを二次引用する。
当時の周囲に居た人々は、一緒に暮らし始めた頃から頭をもたげていた長谷川の潔癖症の悪化を辿った先の症状だと見なして接していたようだ。しかし白洲正子の書くところに拠れば、そういった長谷川の症状は小林と暮らしている間にしか出ていなかったという事である。となれば、傾向として潔癖症を引き起こす要因はそもそも持っていたとしても、甘え病に関する事柄は、小林と長谷川との関係性に於いて生じたものであるのだろう。僕の勝手な解釈で書いてしまえば、潔癖症とは己の裡の脆弱な部分に触れさせまいとする防御の現れであると思う。そしてそういう自分を手厚く保護し薄汚い外界から匿ってくれる相手が居るのなら、その人間に依存する事で危機を遠ざけようとするのではないだろうか。
そしてそれは保護者と被保護者の関係であるので、保護者が管理を怠れば被保護者は不安に苛まれ、果てには自分を不安にさせる保護者に対して憎しみの感情を抱くようになる。しかもこの場合、健全なる共依存関係である親子とは違い、成人した人間と人間との間の事であるので憎しみは暴力に繋がりやすい。通過する電車に向かって突き飛ばされる事もあったそうだ。
★
昔、未だ実家に暮らしていた頃に " 汚れっちまった悲しみに " というテレビドラマを観た。三上博史演ずる中原中也がとても良くて、未だに覚えているしもう一度観てみたいと思っている。中原中也と小林秀雄、長谷川泰子の三角関係を中心にして書かれたドラマである。友に女を奪われた男、友から女を奪った男、そしてその二人の男の間を行き来した女。小林秀雄を古尾谷雅人、長谷川泰子を樋口可南子が演じている。役名は実名と違うのだけれど。
このドラマで印象に残っている場面が二つあって、一つは、小雪降る真夜中のおでんの屋台で、おでんが突き刺さった串を小林秀雄に突きつけて「芸術とは何ぞや?詩ぃとは何ぞや?!」と凄む中原中也の姿。そしてもう一つは、長谷川泰子が自分の元から離れて行く事に感づいた中原中也が女に向かって「おなごを買いに行って参ります。」と言い残して立ち去るところ。
今思えばこれらの場面は、中原中也という人間の性質を良く表現してあると思う。しかしこういったドラマ化の場合、観る人々の最大公約数的な関心事に的が絞られてその他の不随する事柄が省略されてしまうので、この場合も御多分に漏れていない。単なる恋愛ドラマの域を出ていないのである。近年になって僕が知った三者それぞれの事情、そしてその界隈の人々の間で共有されていた価値観。これを知った上でこの三人の関係を見ないと人間の重要な部分を見落としてしまう。何が足りていないって、彼らの過ごした時間の中に立ちこめる凄絶さが足りない。
その頃彼は大学生だつたが、或る女性と同棲してゐた。彼女は、丁度子供が電話ごつこをして遊ぶやうに、自分の意識の紐の片端を小林に持たせて、それをうつかり彼が手離すと錯乱するといふ面倒な心理的な病気を持つてゐた。意識といつても、日常実に些細な、例へば今自分の着物の裾が畳の何番目の目の上にあるかとか、小林が操る雨戸の音が彼女の頭の中で勝手に数へるどの数に当たるかといふやうなことであつた。その数を、彼女の突然の質問に応じて、彼は咄嗟に応へねばならない。それは傍らで聞いてゐて、殆ど神業であつた。否、神といつて冒涜なら、それは鬼気を帯びた会話であつた。そのようなやりとりをしながらの生活が続くとは到底思えない。実際に小林秀雄はついには遁走してしまう。こういった精神状態を長谷川本人は甘え病と呼んでいたそうだ。今で言うなら極端な形で表面化した共依存というところだろうか。
当時の周囲に居た人々は、一緒に暮らし始めた頃から頭をもたげていた長谷川の潔癖症の悪化を辿った先の症状だと見なして接していたようだ。しかし白洲正子の書くところに拠れば、そういった長谷川の症状は小林と暮らしている間にしか出ていなかったという事である。となれば、傾向として潔癖症を引き起こす要因はそもそも持っていたとしても、甘え病に関する事柄は、小林と長谷川との関係性に於いて生じたものであるのだろう。僕の勝手な解釈で書いてしまえば、潔癖症とは己の裡の脆弱な部分に触れさせまいとする防御の現れであると思う。そしてそういう自分を手厚く保護し薄汚い外界から匿ってくれる相手が居るのなら、その人間に依存する事で危機を遠ざけようとするのではないだろうか。
そしてそれは保護者と被保護者の関係であるので、保護者が管理を怠れば被保護者は不安に苛まれ、果てには自分を不安にさせる保護者に対して憎しみの感情を抱くようになる。しかもこの場合、健全なる共依存関係である親子とは違い、成人した人間と人間との間の事であるので憎しみは暴力に繋がりやすい。通過する電車に向かって突き飛ばされる事もあったそうだ。
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昔、未だ実家に暮らしていた頃に " 汚れっちまった悲しみに " というテレビドラマを観た。三上博史演ずる中原中也がとても良くて、未だに覚えているしもう一度観てみたいと思っている。中原中也と小林秀雄、長谷川泰子の三角関係を中心にして書かれたドラマである。友に女を奪われた男、友から女を奪った男、そしてその二人の男の間を行き来した女。小林秀雄を古尾谷雅人、長谷川泰子を樋口可南子が演じている。役名は実名と違うのだけれど。
このドラマで印象に残っている場面が二つあって、一つは、小雪降る真夜中のおでんの屋台で、おでんが突き刺さった串を小林秀雄に突きつけて「芸術とは何ぞや?詩ぃとは何ぞや?!」と凄む中原中也の姿。そしてもう一つは、長谷川泰子が自分の元から離れて行く事に感づいた中原中也が女に向かって「おなごを買いに行って参ります。」と言い残して立ち去るところ。
今思えばこれらの場面は、中原中也という人間の性質を良く表現してあると思う。しかしこういったドラマ化の場合、観る人々の最大公約数的な関心事に的が絞られてその他の不随する事柄が省略されてしまうので、この場合も御多分に漏れていない。単なる恋愛ドラマの域を出ていないのである。近年になって僕が知った三者それぞれの事情、そしてその界隈の人々の間で共有されていた価値観。これを知った上でこの三人の関係を見ないと人間の重要な部分を見落としてしまう。何が足りていないって、彼らの過ごした時間の中に立ちこめる凄絶さが足りない。










