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June 2008

絵画と気候

 歳をとってきたせいなのか、近頃興味を持つ絵画と言えば日本画ばかりである。昔、学生の頃には日本画には全く興味がなかった。僕が通っていた大学には存在しなかったが、日本画科に通う連中が居る事が不思議でならなかった。日本画を観て心地良いと思った事が一度もなかったからである。それがどうした事か、最近は日本画ばかりが気になっている。
 他人の事は解らないので自分の事に関して言えば、歳をとると生命体として弱くなるが故に、いやが上にも自身のおかれた環境に寄り添うものを好むようになるのではないだろうか。例えば特にこの時期、この高温多湿な環境のもとで油で溶いた絵の具をべったりと厚塗りした絵など観たいであろうか。僕は鬱陶しくて仕方がない。そういう絵は完全に空調管理した室内でのみ、というかそういう環境でしか観る気になれない。こうした環境下で不快をもたらさずにすんなりと入り込めるのは、やはり日本画である。美術とは博物館に閉じこめられたものを観るものではなく、もっと生活の中に散在するものを眺めるべきものであると僕は思う。

 学生の頃から日本画に興味を持ち、更にはそれを習得しようとする人達は、これと同じような事を思っているのだろうか。それとも別な入り口が在るのだろうか。今更戻れはしないが、少し興味がある。

 そう言えば何年か前に、年若い知人に同じ事を語って聞かせた覚えがある。彼女は東京を離れ、今では何処かで穏やかに暮らしているようだが、元気なのかなあ。

青空のミジンコ

 子供の頃、例えば河で遊び疲れて土手に寝転んだ時や、両親の仕事を手伝った後に其処彼処に積んであった藁の山に身を投げ出してぼんやりと空を眺めていると、青空を背景にして目の前をミジンコのようなものが横に流れていくのが見えた。微生物を撮った顕微鏡写真を見た時のような、透明な器官を持ちその形状が僅かな影に拠って知覚される生き物。そういうものがいつも決まって左から右に、飛んでいるというより不規則に流れていくようにして見えるのだった。その形も軌跡も違うが繰り返し見える。何となく目の動きに合わせて流れているようにも見える。
 これは一体何なのだろうと考えてはいたが、何となくその話はこれまで誰にも話していない。特に何の害ももたらさないので「不思議な事があるもんだなあ」で済んでいたからだと思うけれど。後年、それは眼球の表面に付着した埃が、涙に流されていく様が見えているのだろうと想像したりしていた。

 ★

 そして今日、人間の眼球について調べていたらそれは実は飛蚊症という疾患であるらしい。
 視界に糸くずや黒い影、蚊のようなものが見え、視点を変えるにつれ、それが動き回る。明るい場所で白いものや空を見た場合によく見える。多くの場合加齢により自然発生する。飛蚊症自体は目の機能に問題はないが、網膜剥離の初期症状や糖尿病網膜症の症状としてあらわれる事もあるので、眼科の受診が必要。
Wikipedia
 一気につまらなくなった。どうせ人体には影響がないのであるなら、この世の不思議としてずっとニヤニヤしていたかった。まあ、網膜剥離や糖尿病網膜症は怖いが。

 僕がそれらを見ていたのは小学生、もしかしたら中学生くらいまで。記憶は曖昧だけれど大人になってからは一度も見ていないと思う。僕には蚊ではなく何故かミジンコに見えたが、ぼんやりと青空を眺める先にミジンコが浮遊しているのは結構楽しいと思うんだけどなあ。また見えるようにならないかなあ。

ぐるりのこと。/ 橋口亮輔

 私見だけれど、鬱病というのは上手くいかない自分の生活や人生に対して著しい自責の念を持ち、それが行き詰まった時点で静かに発症するのではないだろうか。何かしら不都合が起きれば、何でもかんでも他人のせいにしてしまう人は鬱病にならない気がする。しかしそんな事をし続けていれば何れは周囲の鼻つまみ者になって、あらゆる人達から敬遠されてしまうだろうから、そこで行き詰まれば病気になるのかも知れない。そうなっても尚自分の置かれた状況を認める事が出来ない場合、事ある毎に理屈の通らぬ理由で他人を傷つけようとするのではないか。
 話が逸れた。自責の念、と書いたが少しニュアンスが違うような気がしてきた。どちらかと言えば「恥」という言葉の持つニュアンスに近い。「誰からも許して貰えない」と思っているが、実は自分を許さないのは他人ではなく自分自身であり、しかもそれは現在の事柄だけではなく過去の出来事からも苛まれる。他人からの評価を自己を越えた最終評価として捉えてはいけない。例え誰からも許して貰えなくとも、自分自身がそれを許す事が出来なければ生きていけない。どんな事が起きようともそれは仕方がないのである。

 さて、先にも書いたようにこれは私見であるので、万人に当てはまる事だとは考えていない。そういう領域まで辿り着けない人だっている。しかもこれは最深部での話であるので、次の上層では他者に拠る許容を渇望するようになる。そういった場合、傍に居る信頼する人から許される事は、鬱屈した状態から浮上する助けとなるだろう。少なくともその人の前では自分が存在する事を許されるのだから。他者は自分を救う事は出来ないけれど、自分自身を救うきっかけにはなる。そこに淡い希望を持つ事が出来れば生きていけると思う。

 感想と呼ぶには程遠いが、だいたいそういう内容の映画だったと思う。今現在落ちている人にとっては刺激が強いと思うので、余り薦めはしないけどね。

 ★

 この映画を観ている最中、主に終盤辺りには劇場内の方々から鼻を啜る音が聞こえてきた。皆、日々大変な思いをしながら生きているんだなあ。その人達にとってこの映画が何かしらの手助けになれば良いなあ。と勝手な事を思っていたが、実際にその人達がどう思っているかは解らない。ただ、少なくとも僕はこの映画が在って良かったと思う。

 余談だが、今夜セックスするしないで揉めるリリー・フランキーと木村多江の長回しの場面がとても楽しい。

100万人のキャンドルナイト 2008 Summer


山の手線沿線を歩く(代々木〜原宿)





 東京都心部は地形が起伏に富んでいる為か、高架線路のガード下や脇道には面白い造形が多い。狭い空間を使って無理矢理建設したように見えるその傍には、人々の生活の営みが垣間見えたりするが、そこが良いのである。
 左下:絶妙なレタリングで書かれた「山の手ハウス」の文字が良い。この写真では判らないが、コーポと呼ぶにふさわしい外観を持つこのアパートの玄関口なのだろう。でもそうは見えない。このプレートと入口左側の水道がなければ誰も此処が玄関だとは気付くまい。
 右下:一戸建ての住宅が並ぶとある門の前。この写真では判り難いが「糞の始末をして下さい」と割と流麗な字体で書いてある。惜しい。こんなものを門前にぶら下げるという思い切った事をしておきながら、そんな大人の対応はないだろう。せめて「CCDカメラ内蔵型監視犬が見ています」とか「見たぞ!オマエが犯人だ!」とか書けばいいのに。まあ、ご近所さんに嫌われるかも知れないけど。



 :僕は昔からこの秀和レジデンスのマンションが好きである。勿論住んだ事はないし、中に入ったことすらないので外観が、という意味で。東京を歩いていればいろんな地域で見かける。鱗のようにモルタルを塗り固めた壁。スチールワイヤーの欄干。部分的に用いられる青いスレート屋根。どことなく時代錯誤な感じが良い。
 原宿駅側部乗降場、お召し列車の発着ホームへの入口である。

 原宿駅。休日のこの小さな駅の混雑ぶりには辟易するので、出来るだけ利用したくない。乗降客の7割くらいを子供が占めている(私感)事が更にその気分を助長する。外国人も多いが、それは余り気にならない。

西暦2008年、昭和で言えば83年。

 Yahoo ! ニュースにも出ていた記事で、シチズンホールディングスが調査した「地球環境を守るため、生活レベルをいつ頃まで戻せますか?」というのがあって、その記事に拠れば人々は全体の平均として1987年(昭和62年)までは戻せると感じているようだ。僕個人としては、懐古趣味も手伝ってか、昭和40年代まではいけるような気がする。それより以前を想定出来ないのは、要するに僕は実体験として知らないからである。
 合理性や利便性は全ての人間の幸福の為に開発されたものではない。それにそれらの効率は物だけではなく人間に対しても求められる。効率の良さを念頭に置いた生活など、最早人間の生活だとは思えないのである。この頃よく考える。生活は手間をかけた方が面白いし楽しい。自分に必要な事はちゃんと自分の手を使って行う。それ以外の事が一体何の為に存在するのだろうか。

恋愛感情とは何か?

 暫く前に読んだ銀色夏生の「銀色ナイフ」というエッセイに「恋愛感情とは刷り込みである。」とか非常に確信を持って書かれていた。テレビや映画、小説、漫画等からの刷り込みによって人々に恋愛感情が生まれるというのだが、どうなのだろうか。幼児や小学生だって人を好きになるが、果たしてそれが恋愛感情と呼べるものなのかは疑わしいような気がする。僕がそう考えるのは、それらの感情には性的欲求が含まれていないと思うからであるが、性的欲求を含まない恋愛感情も在るような気がしないでもない。そうすると最早判断をしようとしている自分自身が疑わしい。(小学生に性的欲求が存在するかどうかは、自分の事を顧みてもよく思い出せないので横に置いておく。)
 そこで考えたのは独占欲。自分にとって心地良く感じる要素を有する対象を我が物としたいと感じ、それが果たされたならば今度はそれを手放したくないと感ずる心情、それが恋愛感情なのではないだろうか。これなら年齢に関係なく当てはめる事が出来る。恋愛感情が刷り込みだというのは、前述の欲求を粉飾するロマンティック(正確な言葉であるロマンティシズムとは分けて考えて頂きたい。)な部分の事を指すのではないか。速やかなる欲求の成就を阻む状況に対する人間の知恵。殺伐たる現実に潤いを持たせる為の技術。知恵や技術は綿綿と受け継がれるものであり、それは人間の財産である。

 段々と自分が何を書いているのかよく解らなくなってきたが、今夜この瞬間はそういう風に感じている。身も蓋もない話だが、粉飾部分ばかりが前面に押し出されて、それがあたかも真の姿であるように言われても反吐が出る。それが過剰な部分であり、日常では在らざるものであるからこそ美しく見えるのだ。

 ★

 この文章は正確さに欠ける。別な機会に書き直そう。

 ★

 「僕の彼女はサイボーグ」を観ていても思ったのだけれど、対象の選択肢は少なければ少ないほどロマンティックだな。出会い過ぎれば愛情は散り散りになってしまって、特定の誰かを大事にするというのは無理な相談である。それが妄想であれ執着であれプログラムされた唯一の情報であれ、一つの使命たるものを抱えながら永らくを要して遂行される行動に強い愛情を見るのは、一体何故なのだろうか。

真夜中の映画館

 先の火曜日、僕は仕事の帰りに「僕の彼女はサイボーグ」を観てきた。場所は新宿バルト9。映画館に足を運ぶ事の少ない僕は、新しく出来たこの映画館の存在を今回初めて知ったのであるが、この映画館は良い。なんたってミッドナイト上映と称して遅くて27時頃までやっている。さすが不夜城新宿である。夜中まで遊ぶ客達か、それとも店を開いてる飲食業従事者達を当て込んだのだろうか。それにしても27時終演というのが絶妙な時間設定である。朝の3時に放り出されても行く所が無い。
 今回僕が行ったのは22時終演の時間枠であったのだけれど、夜も深く、この季節特有の湿気を帯びた繁華街に放り出されるのはなかなか良い。何処かで一杯引っかけるか、腹が空いていれば蕎麦でも手繰って、家に戻ればシャワーを浴びてそのまま寝て仕舞えば良い。これまで仕事の帰りに映画を観て帰るなんて習慣のなかった僕には楽しい経験であった。暗い場所で映画を観た後に、目の眩むような陽の光に晒される事を不快に思っていた僕にはうってつけの映画館である。
 であれば、休日の遅い時間から始まる映画を観たら良いじゃないかと思うかも知れないが、これがまた微妙な問題で、夕刻になって外へ出かけるというのがどうにも好きではないのである。子供の頃からの習慣が抜けきれないのだ。

フラメンコと言えば

 本当は前回のエントリの末尾に書こうとしたのだけれど、これを書くとせっかく書いた記事の全てが台無しになってしまいそうな気がしたので別エントリにする事にした。
 昭和期に於ける日本で、フラメンキンなどという言葉を誰も知らないような庶民の中でフラメンコと言えば西郷輝彦の「星のフラメンコ」である。



 はい、何とも言えず素晴らしいですね。歌が上手いが故に言葉を無くします。んで、この曲名をパロった「腰のフラメンコ」というタイトルのアダルト・ヴィデオがかつて存在しました。しかしながら僕は見た事がない。では何故それを僕が知っているのかというと、レンタル屋のアダルト・コーナーで見かけた事があるからなのか、誰かから聞いたのか、それとも何処かで読んだのか判然としないのだが、調べてみると愛川まやという女優が主演していたらしい。見てみたいような気もするがどんな女性なのかも判らないのでさして興味は沸きません。そんな事より「腰のフラメンコ」ってあんた・・・。意味は全然解らないけれどいやらしくて馬鹿馬鹿しい事だけは解ります。

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