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DOG ON THE BEACH
じいちゃんと翔太
- 2010-07-25 Sunday
- Category - Art
- Tag - anecdote / literature
去年の冬にありふれた奇跡という、山田太一脚本のドラマが放送されていて、僕はそれがとても好きで毎週欠かさずに観ていた。で、その劇中で井川比佐志演じる祖父と、加瀬亮演じる孫のお茶の間での話の噛み合わないテキトーな会話が特に気に入っていて、何だか自分でも台詞を書いてみたくなったので書いてみた。 実は放映当時から書き始めたのだけれど、なかなか思い付かないし、途中で半年くらいこの下書きの事を忘れていたりもしたので、ようやく今日まとまったという案配だ。本当は風間杜夫演じる父親がこれに入ってくると更に面白いのだが、それはどうにも思い付かなかったので、取りあえずは二人で。
★
「じいちゃんよ」
「どうした」
「じいちゃんはどんな女が好きなの」
「なんだよ薮から棒に」
「いや何となく」
「何となくってなんだよ」
「何となくは・・・何となくだよ」
「わからねえやつだな」
「・・・で」
「で、って何だよ」
「じいちゃんの好きな女のタイプの話だよ」
「そりゃあ・・・」
「ばあちゃん、 なんて言うなよ」
「なんでだよ」
「昔はどうか知らねえけど今シワシワじゃねえかよ。わかんねえよ」
「ちぇっ。滅多なこと言うもんじゃねえ。ばあちゃんだってな、昔はそりゃあ色っぽい女だったんだぞ」
「・・・へえ、そうなんだ」
「おうよ。色が白くてつやつやでよ。こんなちっちゃいくせに、出てるとかあ出てるって感じよ」
「もう、表現がいやらしいんだよ、じいちゃんは」
「うるせえ奴だな。じゃあどう言やいいんだよ」
「要するにあれだろ。トランジスタグラマーだろ」
「虎のフンドシしたババア。 なんでえそりゃあ、おっかねえな」
「違うよじいちゃん。トランジスタグラマーだよ」
「だからそういうメリケン語を使うなてんだよ。意味がわからねえじゃねえか」
「今はそういう時代なんだよ、じいちゃん。少しくらい覚えようよ」
「いいや、俺はやらねえ」
「なんでよ」
「俺は余計な事はしねえ主義なんだ」
「意味がわからねえよ。それになに腕組んで偉そうにしてんだよ」
「ちぇっ。うるせえ奴だな」
「・・・ で、どうやってばあちゃんを口説いたの」
「俺か。 へへへ、そいつあ簡単だ」
「どうやったの。聞かしてよ」
「いいか。俺は言わずと知れた札付きの悪、おまけに馬鹿よ。片やばあちゃんは町内きってのお嬢さんときた。まともに行っちゃあ勝ち目はねえ」
「まあ、そうだよね」
「でな。そこで俺はちょいと考えた。あれだけの美人だ、そこいら歩きゃあ男どもが声をかけてくるにちげえねえ」
「うん」
「中にゃあ押し出しのつええヤツもいるかもしんねえ。嫌がるばあちゃんを無理矢理連れて行こうとするとかな」
「まあ、いるかもしんねえな」
「だろ。そこで俺の出番よ」
「何で」
「何でって・・・わからねえかなあ。俺がばあちゃんを助けるのよ」
「そりゃわかるけどさ、そんな都合良くじいちゃんがそこにいるはずねえだろよ」
「そんなの簡単じゃねえか。ばあちゃんの後つけてりゃ、いずれどっかの馬の骨がばあちゃんを見初めちまって、居ても立ってもいられねえ感じになってよ。三日もしねえうちに追いかけ回すに決まってるじゃねえか。そこで俺様のご登場って訳よ」
「じゃあ・・・じいちゃんそれまでずっとばあちゃんの後つけるのか」
「おうよ」
「じいちゃん」
「なんだ」
「それストーカーってんだよ」
★
「じいちゃんよ」
「どうした」
「じいちゃんはどんな女が好きなの」
「なんだよ薮から棒に」
「いや何となく」
「何となくってなんだよ」
「何となくは・・・何となくだよ」
「わからねえやつだな」
「・・・で」
「で、って何だよ」
「じいちゃんの好きな女のタイプの話だよ」
「そりゃあ・・・」
「ばあちゃん、 なんて言うなよ」
「なんでだよ」
「昔はどうか知らねえけど今シワシワじゃねえかよ。わかんねえよ」
「ちぇっ。滅多なこと言うもんじゃねえ。ばあちゃんだってな、昔はそりゃあ色っぽい女だったんだぞ」
「・・・へえ、そうなんだ」
「おうよ。色が白くてつやつやでよ。こんなちっちゃいくせに、出てるとかあ出てるって感じよ」
「もう、表現がいやらしいんだよ、じいちゃんは」
「うるせえ奴だな。じゃあどう言やいいんだよ」
「要するにあれだろ。トランジスタグラマーだろ」
「虎のフンドシしたババア。 なんでえそりゃあ、おっかねえな」
「違うよじいちゃん。トランジスタグラマーだよ」
「だからそういうメリケン語を使うなてんだよ。意味がわからねえじゃねえか」
「今はそういう時代なんだよ、じいちゃん。少しくらい覚えようよ」
「いいや、俺はやらねえ」
「なんでよ」
「俺は余計な事はしねえ主義なんだ」
「意味がわからねえよ。それになに腕組んで偉そうにしてんだよ」
「ちぇっ。うるせえ奴だな」
「・・・ で、どうやってばあちゃんを口説いたの」
「俺か。 へへへ、そいつあ簡単だ」
「どうやったの。聞かしてよ」
「いいか。俺は言わずと知れた札付きの悪、おまけに馬鹿よ。片やばあちゃんは町内きってのお嬢さんときた。まともに行っちゃあ勝ち目はねえ」
「まあ、そうだよね」
「でな。そこで俺はちょいと考えた。あれだけの美人だ、そこいら歩きゃあ男どもが声をかけてくるにちげえねえ」
「うん」
「中にゃあ押し出しのつええヤツもいるかもしんねえ。嫌がるばあちゃんを無理矢理連れて行こうとするとかな」
「まあ、いるかもしんねえな」
「だろ。そこで俺の出番よ」
「何で」
「何でって・・・わからねえかなあ。俺がばあちゃんを助けるのよ」
「そりゃわかるけどさ、そんな都合良くじいちゃんがそこにいるはずねえだろよ」
「そんなの簡単じゃねえか。ばあちゃんの後つけてりゃ、いずれどっかの馬の骨がばあちゃんを見初めちまって、居ても立ってもいられねえ感じになってよ。三日もしねえうちに追いかけ回すに決まってるじゃねえか。そこで俺様のご登場って訳よ」
「じゃあ・・・じいちゃんそれまでずっとばあちゃんの後つけるのか」
「おうよ」
「じいちゃん」
「なんだ」
「それストーカーってんだよ」
- Last modified : 2010-07-25 23:25
悲しい歌 / Pizzicato Five
シングルで持っていたのだが最近アルバムで買い直した。最初は確かラジオから流れてきたのを聴いて、一発で気に入って買ったのだと思う。全編に渡ってベースがぶりぶりと走っているが、その他の音は割と単調である。タイトルも、アレンジも、ともすれば陳腐に聞こえる歌詞も、野宮真貴の声も、どれをとってもフラットでニュートラルな印象を受ける。それだからこそ聴く人が気持ちを乗せやすいのかも知れない。少し間延びして聞こえるホーンは、本当にある晴れた日の朝にぼんやりと、そしてふいに口ずさんだかのように印象づける。
で、音楽的な事から少し話がずれる。この事が全てに当てはまる訳ではないのだけれど、誰かとの終わりを決めるのは本当にこんな瞬間だなあ、と思う。決断と呼べる程の確固とした意志は持っていないし、何かしら事件が起きた訳でもない。でもある時そう感じてしまったらそれはもう動かし難い現実なのだ。勿論それまでの様々な蓄積あってこその話だけど、飽和し溢れてしまった思いはどうする事も出来ない。やがて自分の中で風化していくその人をいつまで見届けるのか。それとも早々に別れを告げ別な道を歩むか。未来はとてつもなく限られている。
そんな唐突な終演を演じなければならない悲しさと、その後も淡々とした日常が当たり前のように続いてしまう乾いた悲しさ。だからこその「悲しい歌」(アルバム収録時には Triste と改名されている)なのだろうな、と思う。「ごめんね。いつの日かみんな忘れるはず」とはお互いにとっての最上の救いである。それ以外にこの悲しみから逃れる道はない。この歌の中で意志が感じられるとしたらこの部分のみである。いい加減な責任放棄のように聞こえるかも知れないが、他の一体何処に救いが在るだろうか。
Over the rainbow / Israel Kamakawiwo'ole
既に故人である巨漢のハワイアンの美しい歌声。Over the rainbow のカヴァーだと言えばそうなのだが、全く別の曲として聴いている。天上へ届けとばかりに滑らかに歌い上げるこの歌唱法はハワイアン独特のものなのだろうか。Hapaもそんな感じであったが。巨体から奏でられる歌声は南国にあっても乾いていて、その情感が得も言われぬ慈しみを感じさせる。
因みに原曲の、1939年に公開されたオズの魔法使いの劇中でのJudy Garland の歌はこちら。
最早別な楽曲だ。個人的な事を書くならば、イズラエルの歌の方がずっとずっと好きである。
口ロロ " everyday is a symphony " 御披露目会 at 代官山UNIT on 05 DEC. 2009
先日、東京は代官山UNITで行われた口ロロの新しいアルバムのお披露目ライヴをUSTREAMで完全中継したもの。僕が観ていたのは上記とは別の特設サイトで、Twitter と完全に同期していた。バックスクリーンにそのサイトが投影され、Twitter に書き込まれた呟きが Time LIne として映し出される。言ってみればニコニコ動画のような感じ。
上記の動画を観る際には、音がもの凄くデカくて割れているので、限りなく mute に近いボリュームで聴かれたし。そして、この動画はセッティングから客入りまでも収録しているのでなかなか始まらない。演奏は45分過ぎから始まる。それに Youtube のように最初に読み込んではくれないので、途中から観るという事が出来ない。最初から順当にしか再生されないので、時間が有るときに視聴した方が良いでしょう。
感想は別に書かない。ただ、格好良くて堪らないと思ったのだ。
出てきた男 / 月亭可朝
殊更に騒がず、マイナーコードを爪弾きながら、しらっと嘆いて笑わせる。実に素晴らしい。テレビの中で、無闇やたらと騒いでいるだけの芸人を観ていても、疲れるのである。ああいうのは元気が在り余った人達が観たら良いのだ。
よくよく観てると眉毛の動きなんかも面白い。「そらあぶないで」が口癖になりそうだ。
- Last modified : 2009-12-12 23:35
冒険者たちのバラード
ふいに思い出したガンバの冒険のエンディング・テーマ。このアニメーションは子供の頃によく観てたんだけど、イタチがとても怖くて震えながら観ていた気がする。
放映バージョン
フルコーラス
昔のアニメーションのエンディング・テーマはどうしてああも暗い曲が多いのだろうか。例えばこの曲なんかはメロディの複雑さからしても、とても子供向けに作られたとは思えない。そういう時代だった、では片付けられないものがある。
放映バージョン
フルコーラス
昔のアニメーションのエンディング・テーマはどうしてああも暗い曲が多いのだろうか。例えばこの曲なんかはメロディの複雑さからしても、とても子供向けに作られたとは思えない。そういう時代だった、では片付けられないものがある。
雲は流れて、陽は落ちる
空が黄昏れる少し前、明るさを残したまま、沈みゆく太陽が雲を黄金色に染め始める頃合いを何と呼ぶのか判らないが、だいたいここからが夕方だと思っている。そして空は赤みを帯び、後には灰色が混じり始め、地上は黒い影に覆われていく。こういう光と闇が交代していく光景をまともに眺めていられたのは、中学生の時までだろうか。一周が300メートルのトラックの横、どうにか確保していた直線でダッシュを繰り返しながら、そういう空を見上げていた。ブラスバンド部が鳴らす下手くそな音階がいつも聴こえていた。
そういう光景は大変美しいのだけれど、それとは別に何か焦りのようなものを感じていた事を覚えている。日が暮れて夜になってしまったらどうしたら良いのかわからない、というような途方に暮れた感覚。考えるまでもなく、家に帰って家族と晩ご飯食べて風呂に入ってテレビ眺めて寝てしまえば良いのだし、実際に家に帰ると安心する。そうすると、焦りの原因は光量によるものとしか考えられないが、よく判らない。
大人になって勤めるようになるとその感覚は殆ど無くなった。昼間に働く大人にとって夕方とは、仕事から解放された後の楽しい時間の始まりであるので、焦りなど感じるはずもない。あるとすれば、待ち合わせの時間に遅れそうだとか、終わらない仕事の期限だとかそのくらいである。途方に暮れるのとは全然違う。
ただし、休日に部屋に籠もっていたりした夕方に、同じ様な感覚に陥る時がある。何となく夕暮れが怖いのである。それならば音楽を鳴らすなり本を開くなりテレビを点けるなりすれば良いのだが、意識しなければそうはしないようで、気がつけばボケっと夕暮れの空を眺めていたりする。独り暮らしはこの時間がキツい。
これはそういう時間をやり過ごす為の mix である。余り救済的なものにはならなかったけど。
そういう光景は大変美しいのだけれど、それとは別に何か焦りのようなものを感じていた事を覚えている。日が暮れて夜になってしまったらどうしたら良いのかわからない、というような途方に暮れた感覚。考えるまでもなく、家に帰って家族と晩ご飯食べて風呂に入ってテレビ眺めて寝てしまえば良いのだし、実際に家に帰ると安心する。そうすると、焦りの原因は光量によるものとしか考えられないが、よく判らない。
大人になって勤めるようになるとその感覚は殆ど無くなった。昼間に働く大人にとって夕方とは、仕事から解放された後の楽しい時間の始まりであるので、焦りなど感じるはずもない。あるとすれば、待ち合わせの時間に遅れそうだとか、終わらない仕事の期限だとかそのくらいである。途方に暮れるのとは全然違う。
ただし、休日に部屋に籠もっていたりした夕方に、同じ様な感覚に陥る時がある。何となく夕暮れが怖いのである。それならば音楽を鳴らすなり本を開くなりテレビを点けるなりすれば良いのだが、意識しなければそうはしないようで、気がつけばボケっと夕暮れの空を眺めていたりする。独り暮らしはこの時間がキツい。
これはそういう時間をやり過ごす為の mix である。余り救済的なものにはならなかったけど。
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