August 2005
妖怪大戦争
レビューではなく、続編若しくは番外編としてこういう物語で撮ってくれないかなあ、というの書いてみる。主人公は妖怪雑誌編集者の佐田で、彼の少年期から青年期までの物語。
少年の頃、渓流で溺れていたところを川姫に助けられた佐田少年。彼は川姫に対して命を助けられた恩と共に、性的な対象としての興味を抱く。再び目を覚ました佐田少年は近隣の大人に発見され、再びいつもの日常に放り込まれる。その後何度かその渓流に足を運ぶが、川姫を見つける事が出来ない。
佐田少年は親や教師に不当に叱られたり、苛めに遭ったり、繰り返し失恋したりするのだが、そんな悲しみの中、ふと心が軽くなるような出来事が少年の周りで起きたりする。それもそのはず。様々な妖怪達が、少年の気付かないところで彼の手助けをしていたのだ。
それとは別に、佐田少年はひょんな事から川姫という妖怪の存在を知る。川姫を忘れられない少年は、それから日本中の妖怪に興味を持ち始め、手当たり次第に文献を漁り、日夜空想に耽るようになる。
少年から青年に成長した佐田は、兼ねてから愛読していた妖怪雑誌の編集者になる。取材を通して日本各地の妖怪棲息地を渡り歩き、その地元の年寄り達に妖怪に纏わる伝説を聞いて廻るうちに、かつての自分の人生には、妖怪達と関わった事が数多くあるのではないかと気づき始める。
と、こんな感じで撮ってくれないかなあ。
少年の頃、渓流で溺れていたところを川姫に助けられた佐田少年。彼は川姫に対して命を助けられた恩と共に、性的な対象としての興味を抱く。再び目を覚ました佐田少年は近隣の大人に発見され、再びいつもの日常に放り込まれる。その後何度かその渓流に足を運ぶが、川姫を見つける事が出来ない。
佐田少年は親や教師に不当に叱られたり、苛めに遭ったり、繰り返し失恋したりするのだが、そんな悲しみの中、ふと心が軽くなるような出来事が少年の周りで起きたりする。それもそのはず。様々な妖怪達が、少年の気付かないところで彼の手助けをしていたのだ。
それとは別に、佐田少年はひょんな事から川姫という妖怪の存在を知る。川姫を忘れられない少年は、それから日本中の妖怪に興味を持ち始め、手当たり次第に文献を漁り、日夜空想に耽るようになる。
少年から青年に成長した佐田は、兼ねてから愛読していた妖怪雑誌の編集者になる。取材を通して日本各地の妖怪棲息地を渡り歩き、その地元の年寄り達に妖怪に纏わる伝説を聞いて廻るうちに、かつての自分の人生には、妖怪達と関わった事が数多くあるのではないかと気づき始める。
と、こんな感じで撮ってくれないかなあ。
ブラッサイ - ポンピドゥーセンター・コレクション / 東京都写真美術館
- 2005-08-21 日曜日
- Category - Art
- Tag - photograph / philosophy
ブラッサイの写真展を観てきた。ブラッサイは「夜のパリ」と「昼のパリ」の写真集しか観た事はなかったのだけれど、今回の展覧会ではその他のシリーズも観る事が出来て良かった。私が得に気に入ったのは「落書き」のシリーズ。壁を石で削って描かれたその落書き達は、その深遠な表情と声ならぬ声で観る者に語りかけてくるようだ。ブラッサイはこれらの落書きを「時間のもたらす風化を確認するために」数年間に渡って繰り返し撮影されたそうだ。
ブラッサイは、やはり夜を撮った写真が好きだ。絶妙な光加減でパリの街やそこに佇む人達を浮かび上がらせる。本展のコミッショナーであるアラン・サヤグ氏のコメントにはこうある。
ブラッサイは、やはり夜を撮った写真が好きだ。絶妙な光加減でパリの街やそこに佇む人達を浮かび上がらせる。本展のコミッショナーであるアラン・サヤグ氏のコメントにはこうある。
ブラッサイは一度もスタジオを持ったことがない。ルポルタージュやモード、あるいは広告にもまるで関心がなかったし、また、事故や犯罪の現場に駆けつけることもなかった。彼はセンセーショナルな出来事を嫌っていた。(中略)ブラッサイは世の中を凝視する人間であろうとし、またそうであることに深い喜びを感じていた。彼は儚いものを越えて、永遠なるものを引き出し、不変の規範をそこに与えた。(夜を撮った写真とは余り関係のない話になってしまったが)写真表現が成立する理由として、それだけを全面的に支持する訳ではないが、人間の欲求としてそれを全面的に支持する。荒木経惟も同じような事を言っているが、彼は舞台を創ったりもする。森山大道や中平卓馬はどうだろう。考えれば切りがない。別に批判をしているのではなく、僕が自分の中で区別整理したいだけなのである。今自分が見ている世界や人々以外に凝視すべきものなど有り得ないし、そうであれば、何をどうすれば良いのだろう。写真に限らず、それは僕の命題であるように思われる。
珈琲時光〜未公開夕張編 / 候 孝賢
最近になって知人に指摘を受けるまで、DVDに特典映像のディスクがもう一枚入っている事を完全に失念していた。改めて観てみると、そのディスクには未公開映像と、監督・一青窈・浅野忠信のインタビュー、予告編などが収録されている。本編を観ている時に、最後のクレジットロールに夕張の名前が出てくるが、何処に夕張なんか出てきたのだろうと思っていた。実は未公開映像とは夕張に一青と浅野が、一青の叔父に会いに行く旅を写した数十分の映像であった。本編よりも、この夕張編を観ていて強く思ったのは、一青窈と浅野忠信に限らず周りの役者達も、これってホントに演技しているんだよなあと思えるくらいに普通に喋っている。誰かの日常を勝手に撮っているような感じ。自分の観ている光景が限りなく自分に近づいてくる。
夕張編の最後に(本来はこれが本編の最後になる予定だったのだろうか)一青窈の主題歌をバックに、車窓からの風景が延々と流れる。僕は「世界の車窓から」を好きで観ていたが、その番組だと列車に乗り合わせた乗客や、列車そのもの、駅などに焦点が合わせられている。しかしこの映像は、通常私達が列車に乗った時に観ている光景を写しているだけである。それがとても気に入った。もし、何処かの駅から何処かの駅までの車窓の光景のみを、淡々と写したDVDが売っていたなら、僕はきっと買うだろうな。眠れなさそうな夜に、そんな映像を観ながら眠りに就きたい。
春の日は過ぎゆく / ホ・ジノ
ホ・ジノ監督の八月のクリスマスに続く二作目。こちらはハッキリと恋愛物だが、やはり同じように所謂ハッピーエンディングにはならない。何となく、これはこれで良かったのかなあ、という感じで終わる。ま、それはいいとして。この映画で二つ好きな場面があって、一つは、主人公の二人が最初に出会う場面。未だ見ぬ二人が仕事の関係で駅で待ち合わせをする。録音技師の男は約束の時間に駅の待合室へ辿り着くも、相手の顔を知らないので戸惑う。しかしどうやらマフラーを顔に巻き付けてベンチに座って寝ているのが、待ち合わせの相手であるラジオのDJ兼プロデューサー当人であるようだ。男は敢えて肩などを叩いて起こそうとはせずに、隣で眠る女の携帯にそこから電話する。僕はこの場面が大好きである。もう一つは、二人が付き合うようになって、遠く離れて暮らしている為なかなか逢えず、酔った勢いでタクシー飛ばして男が女の住むマンションへ逢いに来る。予め電話を受けていた女は、マンションの外へ出て恋人が遠路遙々駆けつけるのを待っている。が、この人、道路に座り込んでグッタリとしながら待っているのである。まあ、待ちくたびれたのだろうけど、その姿がとても愛らしくて良い。
あ、もう一つ在った。二人が番組の為に竹林が風にさざめく音を録る場面があるのだけれど、その竹のさざめく音がとても良いのである。其処に長年済んでいる老婆は「この音を聴いていると心が軽くなる。」と言が、まさにそんな音。
小舟のほとりで / J. D. サリンジャー
「ナイン・ストーリーズ」の中の一編。グラース・サーガの観点から言えば、グラース家の三人目の子供にして長女であるブーブーの話。幼い頃から小さな家出を繰り返す息子のライオネルとのやり取りが、とても良い。秋の頃、湖の近くの別荘にて再び家出をしたライオネルを、桟橋に繋いだディンギーの中に見つける。桟橋の上から息子を見下ろしブーブーはこう声をかける。「オーイ。相棒。海賊。悪党め。わしは戻ったぞ。」この部分を何度も読み返すが、その度に柔らかい気持ちになる。自分の息子との距離の取り方。言い換えるならば、自分にとっては不可解極まりなく、それでも尚愛しさを抑える事の出来ない対象への、不器用に差し出された手の平。不完全な者から不完全な者への、最大限に考慮された忠告である。私はこの部分を読み返す毎に、この台詞を誰かに言ってみたくなる。






