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DOG ON THE BEACH

車中にて

 先の土曜日、上野アメ屋横町で買い物をしたその帰り、京成本線電車内での事。

 早い内から車両に乗り込み座っていた僕の目の前に、発車時刻ギリギリになだれ込んできた一団があった。中年層から初老の域までの男女合わせて10人ほどの団体。折りたたみのイーゼルを入れる布袋や、絵の具・筆を収納する手提げ箱や、ホルベインのショルダーバッグを持っている人がいるところを見ると、どうやら上野公園で写生をしていた人達であろう事が伺える。
 それぞれが和気あいあいと座席に座ったり立ったりしながら、今日の陽射しの具合や、絵の具の仕入れ先の事について話したり、技術面でのアドヴァイスをしたりして過ごしている。僕の隣には派手な身なりの老年に差し掛かった女性が座り、その前には擦り切れたジーンズにフィールド・ジャケットを羽織ったの初老の男性が立った。話を聞いていると、その男性はどうやらその会の指導者か若しくは主催者であるようだった。何故ならばちょっと偉そうだったからである。

 まあそこまでは良い。普通の光景だ。しかし、どうやら連中は写生の後、知り合いのイタリア料理屋で一杯やってきたらしく、僕の目の前の男性も結構饒舌であった。そして彼は、途中から会の他のメンバーの絵にケチをつけ始めた。当日の写生会の事ではないようだが、何やら発表会をやったらしくて、その時に提出された絵をいちいち否定するのである。「あいつ、あんなへったクソな絵出しやがってさー・・・」「まあまあ見れるのは、そうだねえ、一枚くらいかな・・・」
 事実そうなのかも知れないが、指導者(若しくは主催者)が同じ会のメンバーの一人に向かって、そんな事を口にするのは凄くマズイんじゃないのかなあ。そんなに気に入らないんだったら独りで描いてりゃいいのに。そんな事を思いながら、僕は寝たふりをしていたのだけれど、再び目を開けた瞬間、その初老の男のジーンズのジッパーが全開になっている事に気付いた。
 カッコ悪い・・・。そう思うと同時に、僕はその男が不憫に思えてきた。社会の窓が全開になっている事に気付かぬまま他人の悪口を言うのは、本当に間が抜けている。僕はその事を彼に告げるべきか迷ったが、何だかツマラナイ反応が返ってきそうなので、何も言わずに寝たふりを続けた。

花冷やし秋の終わりを告げる雨

  • 2007-10-28 日曜日
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猫と並んで溜め息ひとつ

たぬき丼

  • 2007-10-18 木曜日
  • Category - Days
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 確か先々月の事。未だ夏であった。銀座での仕事が昼を跨ぐので、昼食を摂ろうと入った老舗風の蕎麦屋。当初は盛り蕎麦を食べようと考えていたのに、お品書きに見慣れない「たぬき丼」という品目を見つけた。その文字を見た傍からどういう料理だか想像ついてしまうほどの判りやすさ。しかしながらこれまでの人生ではお目に掛かった事のない食べ物であったので、ついつい注文してしまう。
 結果。旨くない。注文する前から判り切っていたはずだし、実際に目の前にしてみて、何処をどう見ても想像通りの食べ物でしかない。でも旨くない。たぬき饂飩やたぬき蕎麦はあんなに旨いのに、たぬき丼は旨くない。それに何だか騙されたというか手を抜かれた気持ちになる。饂飩や蕎麦に乗せた場合には、それは立派なトッピングとして存在を主張しえる物が、丼物に乗せてしまうと突如として残りカスになる。不思議だ。
 此処まで書いておいて何だが「たぬき」に乗っているのは「揚げ玉」若しくは「天かす」の事である。

高菜

  • 2007-10-13 土曜日
  • Category - Days
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 スーパーでの事。「小松菜のお浸し」という商品が旨くてよく利用していたのだが、今日見たら同じ商品の名前が「江戸菜のお浸し」に変わっていた。見た目は全く同じ物なので、さては「小松菜」の別称が「江戸菜」なのだろうと僕は推測した。
 さて、部屋に戻って早速つまんでみると、味もまったく同じである。やはり。良い機会ではあるので詳しく事情を知っておこうと調べてみたところ、現在の東京都江戸川区の小松川付近で栽培されていた「小松菜」の改良種が「江戸菜」であるらしい。がしかし、食べてみても何処がどう改良されたのか判らない。たぶん同じものなのだろう。

 ところで、いろいろ調べていると「小松菜」と「高菜」は同類の種であるらしい。そう言えば歯ごたえや味が似ている。とはいえ、僕はこれまで「高菜」と言えば漬けた物か、更にそれを唐辛子と共に炒めた物しか知らなかったので、今日改めて気付いた次第である。
 因みに、僕の実家ではよく高菜が食卓に上る。漬けた物・炒めた物両方。これは地域的(隣の熊本県阿蘇が産地であるらしい)なもので、一般的な傾向であるのだが、そう言えば通っていた大学の学食にも「高菜チャーハン」が「チャーハン」と同じ値段で並んでメニューに在った。そうなると、同じ値段であるなら僕は「高菜チャーハン」ばかりを食べてしまう訳で、考えてみればこの頃から僕の食べ物に対する冒険心の無さが伺える。(余談だが、僕が生まれ育った町には中華料理店は無く、「炒飯/チャーハン」という名称を大学に上がるまで知らなかった。同じ調理法に拠る料理は「焼き飯」と呼ばれていた。)

 東京へ移り住んで十数年。ラーメン屋で豚骨ラーメンのトッピングとしてか、若しくはコンビニの弁当以外に此処で高菜を食べた記憶が無い。関東地方には高菜を食べる食習慣がないのだろうからそれは仕方がないし、そもそも住んでいる場所に適した食べ物食べているのが一番良いと思うので別段問題はないのだが、かつて食べ慣れていた食物を見て「珍しい」という気持ちになる事が、たまに不思議に思う事がある。

秋の歩き方

 先日の休みに母から電話があり、梨を送るから届くのは日曜で良いかと打診があった。何も問題はないのでその旨を伝え、その後数日過ごした本日、箱入りの梨が届いた。どう考えても多すぎる量で。
 礼でも言おうと母へ電話をかけ改めて今回の贈り物の訳を尋ねてみれば、なんと先日迎えた僕の誕生祝いであるとか。・・・誕生祝いに?・・・梨を? 母曰く「なんば贈ろうかねーち思いよったとばってんやん、なーんも思いつかんけん梨にしたとたい。」との事であった。母の実家の近所は茶と梨と葡萄の産地で、そこで買ったのだと言う。新茶の季節ではないし、旬で言えば梨か葡萄で、僕は葡萄が好きではないので、そう考えると必然と梨に決定するのは道理である。スーパーなどで見てみれば梨はやたらと高いし、そんな時期に梨をたらふく食えるというのは贅沢に違いない。

 ★

 ついでに我が家族の情報塔である母に各々の近況を尋ねる。実家に居る父や弟の事は普段から聞いているのでよいとして、今年になってようやく帰国した弟の事や東京に住む叔母の事など。叔母の事は少し前から気になっていたのだが、この秋にとうとう店を畳むという。今月中には一度顔を出そうと思う。
 その後どういう話の流れであったのか、母がこんな事を言い始めた。「いろんな事に興味ば持って、やりたいち思うた事は全部やらんといかんよ。」40を目前に控えた息子に言う言葉ではないように思うのだが、続いた母の言葉に合点がいった。「これはね、自分の経験から言うとたい。」母は早くに嫁いだ訳ではない。母も父も、その当時の社会的背景を考えれば晩婚である。それでもやり残した事がたくさん在るという。とすれば、結婚して家庭に入るという事はこの際関係無いのかも知れない。とにかく、彼女の人生に対する無念さのようなものを知らされた僕は、息子としてどう受け答えして良いか判らずに、ただ相づちを打ったのみであった。

 そう言えば、冷静に考えてみると、こんな言葉は本来ならば父親が息子に言う言葉ではないのだろうか。確かに母は気丈で、我が家では一番強い人ではあるが、他の家庭ではどうなのだろうか。それはともかく、彼女は僕に一生懸命何かを伝えようとしているのは痛いほどに解る。
 毎年年末に帰省する度に年老いて行く母を、僕は焦りを伴う気持ちで眺めている。そしてその都度、母に優しくする事を自分に強いるが、余り巧くいっていない。母が晩婚な上に僕の年齢を考えれば、当然彼女は高齢者である。つまり、彼女に残された時間はほんの少しだ。僕は母に対して、後どれほどの事をしてあげられるのだろうか。子供の頃、確か保育園か小学校の低学年辺りに、学校で習った技術を駆使して、弟達と一緒に母の誕生日に紙粘土で作った不細工なペンダントを贈った事がある。それでも母は喜んでくれた。あんな風に喜ぶ母の顔がもう一度見たいと思う。母との電話を終えた後、僕はその事についてずっと考えていた。

 ★

 今年はラニーニョ現象と温暖化の影響で、秋らしい秋を感じぬまま、残暑からいきなり厳冬へ突入する可能性があるという。嫌な流れだ。僕は何処かへ、一瞬だけ香る秋を探しに行こうかと考えている。

夜の帳の酒の日々

 常用する酒が日本酒になってから随分と経つ。以前は、日本酒を呑むと酔いの回りが早いし翌日に残る為余り呑まなかった。それが何故か去年辺りから平気になってきて、元々味は気に入っていたので段々と呑む機会も増えた。そして気がつけば、殆ど一年中日本酒を呑んでいる。さすがに先日までの夜でも30度を下らないような日には、日本酒は濃過ぎて喉ごしが悪いので麦酒か焼酎を水で割って呑んでいた。今思えば、酒量がやたらと増えたのは日本酒を常用するようになってからのような気がする。

 昔、甘口のワインと日本酒とに続けざまに悪い酔いしてからというもの、甘口の酒は呑まないようにしてきた。だから僕は基本的に辛口の酒しか呑まない。甘い酒を口にすると嫌な記憶が蘇るからだ。例外としてキールは呑む。但しこれは外で食事をする際に限る。わざわざ作らなくてはならない酒など、部屋で(しかも独りで)呑む訳がない。
 こういう習慣を頑なに守り続けていると、たまに困る事もある。例えば、今年の初めに京都に旅した時の事。旅館での夕食時に酒を頼もうとして、せっかくだから京都の酒を呑もうと仲居さんに訪ねたところ、京都の酒はみな甘口であるという。京料理には甘口の酒が合うという事なのだろうか。そんな気もする。随分と迷ったが、やはり怖いので辛口の酒を頼む事にした。

 ★

 辛口の日本酒が好きな訳を考えてみた。僕の場合、夕食に何を食べるかは、その日呑みたい酒に拠って決まるのだが、前述からも解るように最近は殆どが和食で、醤油や味醂や塩で味付ける食べ物ばかりだ。中でも醤油や塩で辛く味付けした物を肴に日本酒を呑むと、辛口の酒が時折甘みを帯びて感じられる。その味覚がとても好きなのだ。勿論呑む酒にも拠るし、その時の気候にも拠るのだけれど、甘く滑らかな酒が余りに清らかで、ミネラルウォーターよりも遙かに清潔に思えるのである。
 そんなところが気に入って僕は日本酒を毎晩呑んでいる。それとは逆に、そういうところが気に入っている時期だからこそ呑めない酒というのが在って、赤ワインやマッコリや濁酒は、今はどう考えても呑む気になれない。

 そう言えば、何年か前に巣鴨と大塚の中間辺りに在るモンゴル料理屋で、アルコールが60度の焼酎を呑んだ事があった。特別な酒みたいで、常用として呑むものではないという事だったのだが、臭みは全く無く、無色透明で、強烈な口当たりで、表現が大袈裟だとは思うが、僕は宝石を呑んでいるような感覚を持ったのである。店の名前も、酒の名前すらも忘れてしまったが、あんな酒を呑んだのはあれきりである。

荷物のダイエット

 暫く前から、既にこの部屋にはCDや本を収納するスペースが無くなっている事に気付いてはいたのだけれど、床に直置きするなどして誤魔化してきた。しかしもう限界である。いやまあ、床に隙間は在るのだけれど、そうすると掃除が出来なくなる。今は未だ一部分にしか置いていないので、掃除する際にはそれを移動させて掃いたり拭いたりしているのだが、床の大部分に物が置かれてしまうと、もう移動させるスペースすら無くなってしまうのだ。
 とまあ、そんな感じで、そろそろCDや本を手放すか貸し倉庫などに放り込むかしなければならない。

 僕は、何か気に入ったものを見つけると、その前後のものも含めて取り敢えず揃えてしまう性分である。但し、それを後生大事に保管し続けていく事には興味が持てない。つまり、独占欲は在るが維持能力に欠けるのである。
 そういう自分の性格を思えば、倉庫を借りてそこに保管する事は有り得ない。そうすると手放すしかないのだが、その選定が難しいのだ。数年前にも同じような状況に陥った事があり、その時は本は1/3か1/4くらいは捨てる事が出来たのだけれど、CDは4・5枚しか捨てる事が出来なかった。捨てようと思ってCDを手にとって眺めてしまうと「またいつか聴きたくなるかも知れない。」と考えてしまい、捨てる事が出来なくなってしまうのだ。そうして、たいして数を減らす事が出来ないまま今日まで来た。この意地汚さは執着心なのだろうか。

 この状況を打破するには新たな判断基準が必要である。例えば「今現在の自分に必要なもの以外は全て捨てる。」感じの。先日、ロバート・ハリスの「ワイルド・アット・ハート」を読んでいたら、後書きに氏の住むマンションをリフォームする際に、持っていた膨大な音源を気に入りの30枚に絞ったと書いてあった。そんな選定はとても無理だ。結婚するとか子供が生まれるとか、そんな現在の生活がひっくり返るような契機があれば出来るのかも知れないが。
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