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DOG ON THE BEACH

聖なる空き地

 小学生の頃、ある夏の早朝に、僕は近所に在る草ぼうぼうの空き地で孵化したばかりの蝉を見た。隣地の人家のブロック塀に沿って雑草が高く生い茂っていて、その雑草の一様に真っ白な蝉が止まっていた。そんなものを見たのは初めてだったので、僕はハッとして、畏れながらも目を離す事が出来なかった。見慣れた成虫のカラッとした焦げ茶の蝉とは違い、ふくよかで湿り気を帯びた白い体躯は、異様で、気味が悪く、そうでありながらも何処か神々しく僕の目に映し出された。触れてみたいという欲求は当然芽生えたが、冒しがたいその姿に僕は手を伸ばす事が出来なかった。もし手を伸ばして掴んでしまったら、握りつぶしてしまうのではないかと己を訝った。僕はそのまま其処にしゃがみ込み、小一時間その白い蝉を見つめ続けた。

 そんな事書いてるうちに一つ疑問に思ったのは、小学生の僕が何故早朝に空き地へなんか行ったのかという事。今も昔も、早起きなんて決して好きではないはずなのに、その点がどうしても解せない。

 そしてつられて思い出した事に、恐らく同じ時期に僕はその空き地に自分の宝箱を埋めていた事がある。何故そんな事をしていたのか。当時は狭い借家に家族五人で住んでいて、彼らの目に触れぬ何処かに自分の大事な物を隠す必要があったのだろうか。今となってはその宝が一体何だったのか全く思い出せないが、自分の性格を鑑みると何かしら秘密を持ちたかったのだと思われる。
 その事で記憶に残ってるのは、土砂降りの雨の日に、僕は何故かその空き地で宝箱を掘り返していた。自分の事ではあるが、何の為なのかは知らない。恐らく。自分の宝が其処に存在する事を確かめたかったのだろう。そして、それと同じ理由で、早朝を選んで宝箱の無事を確かめに行った際に白い蝉を見つけたのではないだろうか。ただの空き地に過ぎないが、自宅と小学校、そしてそれを結ぶ通学路のエリアが世界の全てであった僕にとっては、空き地は特別な場所であったのだろうと想像する。

きれいはきたない、きたないはきれい。闇と汚れの中を飛ぼう。

 昔からこの言葉を何となく知っていて、良いなぁと思っていた。そして先日、人のとの会話の中で偶然にこの言葉と邂逅する機会があったので、この際だからちゃんと読んでみるかと、岩波文庫の木下順二訳「マクベス」を買って読んでみた。しかし最後まで読み通してもこのフレーズは出てこない。何故だろうとよくよく調べてみれば、該当する部分は冒頭にこう訳されていた。
輝く光は深い闇よ、深い闇は輝く光よ、浮んで行こう、よごれた霧の中をよ。
 大まかなニュアンスとしては共通しているが、僕にとっては全然違うように読める。どちらも抽象的な対比には違いないのだけれど、そこから喚起されるイメージの領域が違う。タイトルに掲げた言葉は一体どの訳本に出てくるのか。内容はもう知ったので、それだけの為に探し求める気はさらさらないのだが。

喪失

 人の心から何かが失われると、それはそのまま人の裡に絶対的な空白を作る。そして眼差しに影を落としてしまう。注目すべきはその部分であり表層ではない。表層は舞台であり、其処では人はどんな嘘をも吐く事が出来る。舞台は華やかで、勢いもあり、潔いものであるが、角度を変えて見てみれば、何処か哀し気な色が差している。そしてその落差は、厄介な事に、とても美しく見える。

空の色は秋へ

 この二日間、僕は漠然とした後悔と罪悪感に苛まれていた。それは未だに続いていて、何かしらの答えが出る気配すらない。不思議なのは、後悔する事が在るのは何となく解るにしても、罪悪感に苛まれるというのがよく解らない。何しろそんな覚えがない。しかし確実に、罪悪感を伴ってある人の事が思い出される。きっかけが在ったとは言え、どうして今そんな思いに捕らわれなければならないのか。ようやく忘れかけていたのに。もしかしたら、忘れてはいけない事なのか。

空蝉

 昨夜遅く、ベランダへ通じるガラス戸を開けると蝉が飛び込んできた。部屋の明かりに呼ばれたのか、暫く部屋の中を飛び回った後に窓際のカーテンへしがみついた。さすがにそこで鳴かれたらとんでもなく煩いだろうなと思い、僕は指でつついて外へと追いやった。ジジッと鳴いてカーテンを離れたが、蝉はそのまま夜空へとは飛んでは行かず、ベランダの中に留まったようだ。まあ仕方がない。僕はガラス戸を閉め冷房のスイッチを入れた。

 そして今朝、ガラス戸を開けるとベランダの床に蝉が腹を見せて転がっていた。しゃがみ込んでよく見てみると、6本の脚をウヨウヨと動かしている。未だ亡骸ではない。しかしもう間近だ。今まさに命を終えんとする生き物をどうしたら良いのか暫し考えた。他の場所に移すのは何かしらに反する気がしたので、蝉はそのままにしておく事にした。僕はガラス戸を締め、鞄を持って部屋を出た。

夏の光

 横断歩道を渡るべく歩道の端に立ち、何となく目を遣った4車線の車道の向こう側。信号機の横に、義足をつけた女性が立っていた。やがて信号が青へと変わり、人々が一斉に車道を渡り出す。
 二十代半ばくらいだろうか。水色のシャツに、白いカバンを抱き、白いミニスカート、白い靴を履いて、ポニーテールに結んだ髪の毛をリズミカルに揺らしながら、動作も柔らかく、まっすぐに前を見据えながら歩いて来た。右足が金属のシャフトである事が不思議に思えるくらい、動きに違和感を覚えなかった。もっと言えば、金属の脚が必然であるような気さえしてくる。彼女は毅然と、両の脚を周囲に見せびらかし、颯爽と歩いていた。

 横断歩道の中ほどで僕は右側に進路をずらした。右手に在るコンビニへ行く為。というのは嘘で、本当はその女性と対峙するのを躊躇したからだ。それは何故か。彼女の不遇に憐憫の情を持ったのかも知れないし、強くしなやかな光を放つ、明らかな美へ対する恐れなのかも知れない。それかはたまた、クローネンバーグが撮った「クラッシュ」の中の、ロザンナ・アークエットの強制具を装着した脚の、倒錯的な美しさを思い起こしたからなのかも知れない。

 彼女は僕の3メートル先を、白いスカートを翻し、進化した人間であるが如き面持ちで、夏の光の中を歩き去って行った。

甘く危険な香り

 二週間くらい前だろうか。通勤電車の途中駅で乗り込んできた若い男女。入社したてであろう会社員。男の方は、まあ特に興味は持てない風貌で、片や女の方は大変な美人であった。薄いウォームグレイのスーツを着こなし、少し捲きの入ったセミロング、日夜身体を磨き上げている様子で、肌は白く輝いている。
 とまあ、そんな感じの女であったのだけれど、そんな事は本旨には関係ない。彼女は香水をつけていた。しかも強めに。思い起こせば20年前くらい前は結構多くの女性(に限らず男性も)が香水をつけていたような気がする。その頃の僕はまだ20代で、関わる人も同じくらいの年代だったからそうであったのかも知れないないけど。今でも、若い人達の方が香水をつめている確率が高い気がする。

 話が逸れた。この話の主題はその香りの事だ。香水に詳しくはないから名前なんて全然判らないが、とにかく、吸い込まれてしまいそうな香りだった。僕は昔っからその類の香りがとても好きだ。何年かに一度くらいの確率でしか出会わないから正確なところは判らないのだけれど、おそらく毎回違う香りだと思う。しかしその「吸い込まれそうな」という感覚はかなり近似している。もしかすると、香水自体(香水単体)の香りではなく、その人の体臭が混じった匂いであるのかも知れない。まあ、よく判らない。

 ともかくも、その日のその若い女から漂う匂いはそういう匂いであった。同行している男はどう見ても気がある素振りで、そりゃまあそうだろう。そして困ったのは、乗降の煽りで僕の隣まで移動してきたその女の肘が、僕にガシガシ当たって来る事である。よくある事だ。何故だか知らないけど、僕はよくそういう目に遭う。理由は知らない。未だによく解らない。解らないから放っておく。そのくり返し。

 その二人が僕が乗る車両に乗り込んで来たのはその日だけだった。たまたま乗り合わせただけだったのだろう。甘く、危険な香りの記憶だけが残った。
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