DOG ON THE BEACH
Tran Anh Hung
僕の愛する映像作家。ベトナムはホーチミン出身でパリ在住。相変わらずストーリー等はリンク先のアマゾンのレビューでご覧下さい。
青いパパイヤの香り: 1993年に公開されたデビュー作。でも僕は先日観た。上流階級(と思われる)一家の元で、使用人として住み込みで働く少女の物語。同じ使用人の婆や一家の夫人に可愛がられたり、息子達に悪戯されたり、不審な老人に懐かれたり、淡々とした日々が続く。劇中ではドビュッシーとショパンのピアノ曲が挿入され、静かで二つの意味で瑞々しい空気を感じさせる。後半、10年を経て美しく成長した少女は、その一家に暇を出され、長男の友人であり新進の作曲家である青年の家の使用人となる。まだ幼い頃からこの青年に恋い焦がれていた少女は、甲斐甲斐しく青年の身の回りの世話をし続ける。そして、やはり手を出されてしまう。この辺りの背徳性というかエロティシズムが非常にフランス的だなあと思ったりするのだが、フランスに住んでるからってどうしてこうなるのかがよく分からない。その方がフランス国内で受けるからかな。
シクロ: 1995年公開作品。最初に観たのがコレ。しかし観たのは随分前なのでストーリーを殆ど覚えていない。シクロを引いて働く主人公の少年が、何かのきっかけで社会の暗部に巻き込まれていくというような感じだったと思う。主人公の美しい姉は売春婦として働き、ヤクザの庇護を受けている。そのヤクザを指して「詩人と呼ばれたヤクザ」という言葉がチラシだかパッケージだかに書かれていて、僕はそのフレーズが気に入って借りた気がする。
夏至: 2000年公開作品。或る一家の三姉妹の物語。この映画で印象的なのは、一つ目は挿入されたルー・リードの曲。何処までも深く沈んで行きそうな音階は、劇中で降る雨に似ていてとても心地良い。二つ目は陽射しが強く明るい庭で、三姉妹が談笑しながら茹でた鶏の足の黄色い皮膚を手で剥いている光景。気味悪い感じもするが美しい画だった。三つ目は下から二番目に男の兄弟が居るのだが、その弟が雨の朝煙草を吸っていると、末の妹が真似して吸い始める。弟はそれを取り上げ雨の中へ投げ捨てる。そこで言う「雨だから吸うんだ。ホントは嫌いだ。」という台詞が何故だか記憶に残っている。
どれも全体的に映像が美しい。そしてその美しさは幾方向にも触手を伸ばしている。マクロレンズで捉えた蟻や蛙のような小さな生物がよく登場するが、目を捉えて離さないものがある。これはたぶん美しいと感じているんだろうなあと思いながら見ている。こいういった生物が苦手な人には耐え難い映像だろうけど。それと、雨に打たれる人々や植物や家々の佇まいも美しい。雨に打たれる侘びしさみたいなものが感じられる。そして、女性が本当に美しい。雨や汗でいつも濡れている肌や髪の毛がより一層それを引き立たせているようだ。
この三作品以後はなりを潜めているこの作家だが、この三作品に共通して出演している女優のトラン・ヌー・イェン・ケーはパートナー(妻とは書いてなかった)であるらしい。二人のイカシた写真を見つけたが、画像をそのまま持ってくると問題ありそうなのでリンクしておく。こんな感じ。

青いパパイヤの香り: 1993年に公開されたデビュー作。でも僕は先日観た。上流階級(と思われる)一家の元で、使用人として住み込みで働く少女の物語。同じ使用人の婆や一家の夫人に可愛がられたり、息子達に悪戯されたり、不審な老人に懐かれたり、淡々とした日々が続く。劇中ではドビュッシーとショパンのピアノ曲が挿入され、静かで二つの意味で瑞々しい空気を感じさせる。後半、10年を経て美しく成長した少女は、その一家に暇を出され、長男の友人であり新進の作曲家である青年の家の使用人となる。まだ幼い頃からこの青年に恋い焦がれていた少女は、甲斐甲斐しく青年の身の回りの世話をし続ける。そして、やはり手を出されてしまう。この辺りの背徳性というかエロティシズムが非常にフランス的だなあと思ったりするのだが、フランスに住んでるからってどうしてこうなるのかがよく分からない。その方がフランス国内で受けるからかな。
シクロ: 1995年公開作品。最初に観たのがコレ。しかし観たのは随分前なのでストーリーを殆ど覚えていない。シクロを引いて働く主人公の少年が、何かのきっかけで社会の暗部に巻き込まれていくというような感じだったと思う。主人公の美しい姉は売春婦として働き、ヤクザの庇護を受けている。そのヤクザを指して「詩人と呼ばれたヤクザ」という言葉がチラシだかパッケージだかに書かれていて、僕はそのフレーズが気に入って借りた気がする。
夏至: 2000年公開作品。或る一家の三姉妹の物語。この映画で印象的なのは、一つ目は挿入されたルー・リードの曲。何処までも深く沈んで行きそうな音階は、劇中で降る雨に似ていてとても心地良い。二つ目は陽射しが強く明るい庭で、三姉妹が談笑しながら茹でた鶏の足の黄色い皮膚を手で剥いている光景。気味悪い感じもするが美しい画だった。三つ目は下から二番目に男の兄弟が居るのだが、その弟が雨の朝煙草を吸っていると、末の妹が真似して吸い始める。弟はそれを取り上げ雨の中へ投げ捨てる。そこで言う「雨だから吸うんだ。ホントは嫌いだ。」という台詞が何故だか記憶に残っている。どれも全体的に映像が美しい。そしてその美しさは幾方向にも触手を伸ばしている。マクロレンズで捉えた蟻や蛙のような小さな生物がよく登場するが、目を捉えて離さないものがある。これはたぶん美しいと感じているんだろうなあと思いながら見ている。こいういった生物が苦手な人には耐え難い映像だろうけど。それと、雨に打たれる人々や植物や家々の佇まいも美しい。雨に打たれる侘びしさみたいなものが感じられる。そして、女性が本当に美しい。雨や汗でいつも濡れている肌や髪の毛がより一層それを引き立たせているようだ。
この三作品以後はなりを潜めているこの作家だが、この三作品に共通して出演している女優のトラン・ヌー・イェン・ケーはパートナー(妻とは書いてなかった)であるらしい。二人のイカシた写真を見つけたが、画像をそのまま持ってくると問題ありそうなのでリンクしておく。こんな感じ。

放たれた窓辺に浮かぶ夕顔の
蔓が示すは雨垂れの跡
The Long Goodbye / Robert Altman
随分昔に一度だけ観た事があって、偶然に Tsutaya で見つけたので観てみた。僕の儚い記憶の中にうっすらと残っていた場面が次々と映し出される。一番印象に残っていたのは、米国西海岸の湿り気を帯びた濃密な夜の光景だ。街の放つ光を色っぽく包んだ夜が主役のような映画だ。改めて観ると、フィリップ・マーロゥ役の Elliott Gould がとても愛らしくてカッコ良い。探偵物語の松田勇作を思い出す。この映画は1973年の作品だが、探偵物語は1979年の放映なので、もしかしたら案外元ネタだったりするのかも知れない。原作は勿論 Raymond Chandler の長いお別れ。その原作と大きく違うのはラスト。自分を利用し裏切った友を、自分の手で殺すのだ。あ、そうそう。この映画は未だDVD化されていなかったようで、現在予約受付中である。しかもやけに安い。更に(個人的に)繋がりを見いだしてしまったので、これも何かの縁(偶然とも言う)だろうと買う事にした。
皮膜
- 2005-06-13 月曜日
- Category - Days
- Tag - diary / psychology
祖母の時もそうだったが、知っている人間が死ぬと、自分の中の何かしらの器官が塞がれてしまうような気がする。寂しいとか哀しいとかではなく、現実感は希薄であるのに暗い影だけが差す。そういう器官は幾つも在って、一つが塞がったからと言って劇的な変化はないが、確実に何かしらが欠落する。その器官から流れ出るべき何かが出なくなり、流れ入るべき何かが入らなくなってしまう。無感覚になると言っても良い。そしてそれは、時間が経てば元に戻るものでもないらしい。忘れる事が出来れば、無関係だと思える事が出来れば、それもいつしか無くなるのかも知れない。
石との呼吸法
- 2005-05-30 月曜日
- Category - Days
- Tag - dream / diary / environment / restaurant
晴れた休日の午後。僕は友人二人に誘われ、北青山に在る貸しスペースで飲む事になった。その場所は個室で区切られている訳ではなく、扉の無い続き部屋を、スペース単位で貸し出すシステムだ。スタッフに案内され、我々は10mほどの大きな一枚岩の低いテーブルの一角に陣取った。既に二組のグループが同じテーブルを使用して寛いでいた。この店は飲食は提供しない。飲食は客が自分で持ち込む。無論食器も無いから、それも客が持参する。店側が提供するのは空間だけである。
この店舗は外装は勿論の事、内装も石に覆われている。前述の低いテーブルを始め、床・壁・天井に至るまで天然石だ。磨きなどの仕上は施してはあるが、着色はしていない。ただ、どちらかと言えば温かみのある色や質感の石を選んではいるようだ。窓は一つも無い。空間が縦にも横にも広いので閉塞感は少ないが、何とも不思議な気分になる。室内は天井に埋め込まれた照明に照らされ、結構明るい。美術館で使われているような質感の光だ。音楽は流れておらず、室内に反響する客の話し声や笑い声が聞こえてくるのみ。
我々は、持ち込んだ韓国料理のデリを平らげながらビールをしこたまに飲んでいた。何を話していたのかさっぱり思い出せないが、適当な話をしながら適当な時間を過ごしていた。他の客を見ていても、だいたい同じように過ごしていたように思う。因みに此処には椅子は無いので、みな石の床に直に座るか、座布団ようなモノを持ち込んでそれに胡座をかいて座っていた。
僕は次第にその場に飽きてきて、話し込んでいる他の二人を残して店の外に出た。
店は公園に隣接していたので、僕は其処へ足を踏み入れた。舗道というようなモノがなく、雑木林と僅かな丘陵が在るだけの公園。人気も殆ど無い。僕にとってはその方が好都合で、気分良く散策に没頭出来た。すると、公園の端にコンクリート打ちっ放しの低い建物が現れた。人気はないが、中央に玄関らしきガラスの両扉と、左側にこれもガラスの片扉があった。玄関の奥は薄暗く廊下が続いているだけで何も無さそうだったが、左側の扉の奥には太陽光に近い色の照明に照らされた、棺くらいの大きさの石で出来た箱が何十も並んでいた。恐る恐る僕は中に入ってみた。
四方の壁は白く、突き当たりにはオレンジ色のフィルムが貼られたガラスのパーテーションが立ち、向こう側へ廊下が続いているようだった。人の気配は無い。外からも見えた石の棺は、上面を分厚い擦りガラスでシールドしてあった。朧気に人間の顔の輪郭が見える。隅の方に僅かに結露しているのを見る限り、中に居る人間は呼吸をしているようだ。その時、表で人の気配がしたので、僕は慌てて外に出た。
★
実はこの話、僕が先々週の土曜日の朝見た夢である。夢など滅多に見ないし、細部が妙にリアルで不思議な映像だったので、今になっても未だ覚えている。暫く前に読んだ小川洋子の「六角形の小部屋」という短編を思い出した。その小説の中では、公園の中に在る今は使われていない社宅の一室に設置された、木製の六角形の小部屋に、自らが望み小部屋を探し当てた客達が僅かな賃金を払って、一人だけ小部屋に入り語って帰って行くという話だった。僕が夢の中で見た石製の棺に横たわる人々に、小部屋で語る人々と同じような印象を持った。語るのとは違い、封印された空間の中で眠り、呼吸するだけではあるが。昔、友人が屋久島に渡り、屋久杉の原生林に分け入った時の話を聞いた事がある。五人がかりでないと腕を回せない程に太い杉の幹に抱き付いていると、とても心が落ち着くのだそうだ。いつまでもそうしていたいとさえ思ったらしい。もしかしたら、石にも同じような力というか作用があるのではないだろうか。あくまで想像に過ぎないが。
この夢には少しだけ続きがある。外へ出ると作業服を着込んだ数人の男女が、建物の前に無造作に積み上げられた様々な石を運んだり、石鑿を使って加工したりしていた。その光景をぼーっと眺めていた僕に、一人の青年がチラシを手渡した。綺麗にカラープリントされたそのチラシには「石との親和性を高める研究会」とタイトルが記してあった。
この店舗は外装は勿論の事、内装も石に覆われている。前述の低いテーブルを始め、床・壁・天井に至るまで天然石だ。磨きなどの仕上は施してはあるが、着色はしていない。ただ、どちらかと言えば温かみのある色や質感の石を選んではいるようだ。窓は一つも無い。空間が縦にも横にも広いので閉塞感は少ないが、何とも不思議な気分になる。室内は天井に埋め込まれた照明に照らされ、結構明るい。美術館で使われているような質感の光だ。音楽は流れておらず、室内に反響する客の話し声や笑い声が聞こえてくるのみ。
我々は、持ち込んだ韓国料理のデリを平らげながらビールをしこたまに飲んでいた。何を話していたのかさっぱり思い出せないが、適当な話をしながら適当な時間を過ごしていた。他の客を見ていても、だいたい同じように過ごしていたように思う。因みに此処には椅子は無いので、みな石の床に直に座るか、座布団ようなモノを持ち込んでそれに胡座をかいて座っていた。
僕は次第にその場に飽きてきて、話し込んでいる他の二人を残して店の外に出た。
店は公園に隣接していたので、僕は其処へ足を踏み入れた。舗道というようなモノがなく、雑木林と僅かな丘陵が在るだけの公園。人気も殆ど無い。僕にとってはその方が好都合で、気分良く散策に没頭出来た。すると、公園の端にコンクリート打ちっ放しの低い建物が現れた。人気はないが、中央に玄関らしきガラスの両扉と、左側にこれもガラスの片扉があった。玄関の奥は薄暗く廊下が続いているだけで何も無さそうだったが、左側の扉の奥には太陽光に近い色の照明に照らされた、棺くらいの大きさの石で出来た箱が何十も並んでいた。恐る恐る僕は中に入ってみた。
四方の壁は白く、突き当たりにはオレンジ色のフィルムが貼られたガラスのパーテーションが立ち、向こう側へ廊下が続いているようだった。人の気配は無い。外からも見えた石の棺は、上面を分厚い擦りガラスでシールドしてあった。朧気に人間の顔の輪郭が見える。隅の方に僅かに結露しているのを見る限り、中に居る人間は呼吸をしているようだ。その時、表で人の気配がしたので、僕は慌てて外に出た。
★
実はこの話、僕が先々週の土曜日の朝見た夢である。夢など滅多に見ないし、細部が妙にリアルで不思議な映像だったので、今になっても未だ覚えている。暫く前に読んだ小川洋子の「六角形の小部屋」という短編を思い出した。その小説の中では、公園の中に在る今は使われていない社宅の一室に設置された、木製の六角形の小部屋に、自らが望み小部屋を探し当てた客達が僅かな賃金を払って、一人だけ小部屋に入り語って帰って行くという話だった。僕が夢の中で見た石製の棺に横たわる人々に、小部屋で語る人々と同じような印象を持った。語るのとは違い、封印された空間の中で眠り、呼吸するだけではあるが。昔、友人が屋久島に渡り、屋久杉の原生林に分け入った時の話を聞いた事がある。五人がかりでないと腕を回せない程に太い杉の幹に抱き付いていると、とても心が落ち着くのだそうだ。いつまでもそうしていたいとさえ思ったらしい。もしかしたら、石にも同じような力というか作用があるのではないだろうか。あくまで想像に過ぎないが。
この夢には少しだけ続きがある。外へ出ると作業服を着込んだ数人の男女が、建物の前に無造作に積み上げられた様々な石を運んだり、石鑿を使って加工したりしていた。その光景をぼーっと眺めていた僕に、一人の青年がチラシを手渡した。綺麗にカラープリントされたそのチラシには「石との親和性を高める研究会」とタイトルが記してあった。
路上の花
この世の何に対しても拘る事が出来ないと言っていた彼女。つまりは執着出来ないという事だろうと僕は思っていた。来る者を拒まず、去る者を追わず。目の前に存在する者だけを受け容れ、その者が望むに任せる。他人の生き方にケチをつける気は毛頭無いが、自戒をも込めて敢えて言うなら、それは周囲の人を悲しませる。彼女はきっとそれを理解した上で、その生き方を選び取っていた。挙げ句には、自分が居なくなっても誰も悲しむ人など居ない、そういう状況を作ろうとしていたようにも思える。理由は知らない。考えても解らない。今となれば、彼女の望むべく末路を迎えたのかどうかだけが気がかりだ。
彼女が唯一拘っていたのは、自分の死期を知った時点で、バイクに跨り、それこそ動けなくなるまで日本中を走り回りたい。と、そう言っていた。希望は叶えられたのだろうか。
この季節。穏やかな初夏の光を浴びながら、日本の何処か海沿いの道路を、大排気量のバイクが疾走する姿を思い浮かべてみる。路肩に咲く白く小さな花。その横に横たわる彼女を思い浮かべてみる。それで彼女が心底安心出来るというのなら、構わないであげる他はないではないか。
彼女が唯一拘っていたのは、自分の死期を知った時点で、バイクに跨り、それこそ動けなくなるまで日本中を走り回りたい。と、そう言っていた。希望は叶えられたのだろうか。
この季節。穏やかな初夏の光を浴びながら、日本の何処か海沿いの道路を、大排気量のバイクが疾走する姿を思い浮かべてみる。路肩に咲く白く小さな花。その横に横たわる彼女を思い浮かべてみる。それで彼女が心底安心出来るというのなら、構わないであげる他はないではないか。
Gundam Shot Bar - ZION -
- 2005-05-14 土曜日
- Category - Hobby
- Tag - animation / restaurant / bar / sendai
以前から噂いは聞いていたが、これまでに行ったという人にお目に掛かった事がなかったし、ほぼ忘れかけていたのだが、仙台にはガンダム・ショット・バーが在るそうだ。メニューもそのサイトでご覧の通り。「ビグザム出撃後の肉団子」や「マクベのもやし炒め」など、口元を歪めずにはいられないセンス。少年期をファースト・ガンダムを観て過ごした者としては、一度は足を運ばずにはいられまい。上記のサイトにバーの住所その他が紹介されている。






