DOG ON THE BEACH
新聞・テレビを殺します
- 2005-02-22 Tuesday
- Category - People
- Tag - sociology / internet / philosophy
少し前の記事ですが、ライヴドア堀江社長のニッポン放送株取得に関する記事をまとめたエントリを読んでました。近鉄買収の時から、今回の件に至るまで、さして興味を持っていなかったのですが、タイトルにした台詞がちょっとカッコいいなあ、と思って読む気になったのです。
このエントリの中で気になった箇所がある。
このエントリの中で気になった箇所がある。
普通の人って情報の海から面白そうな情報を探すことに面白さを感じてないと思う。インターネットは能動的なメディアで既存メディアは受動的なメディア。能動的なメディアというのは、どうしても人を選ぶだろう。
考えてみれば先例があった。情報誌のぴあと東京ウォーカーの戦い。ぴあはすべての情報を提示することに命をかけたが、情報のフィルタリングをした東京ウォーカーの前に負けていった。情報がたくさん提示してあって、そこから受け手は面白いものを自動的に拾い上げてくれるだろうというのは受け手の能力に期待し過ぎだ。何となくそうかなあ、と思っている事はハッキリと言葉にされると気持ち良いですね。推測に過ぎませんが、自分で情報の取捨選択をする習慣のない人は増えてるような気がします。子供だけでなく、大人も。溢れる情報が多くなればなるほど、その選択に対する労力は足りなくなり、現代ではそれを金で買っている。やがてそうする事に慣れ切って、自分で判断する機会を失ってしまう。いつの日にか、誰かが自分の為に都合の良い情報をピックアップし、厳かに差し出してくれるのを待っている人ばかりの社会が訪れそう。などと想像したら気持ち悪くなって来ました。
All about orz
上のタイトルでは解り難いと思うが、要は挫折AA(私はこう呼んでいる)の「orz」の事である。それを米国の Boing Boing というサイトで色々と取りまとめをしている。
Orz is a popular symbol, a pictograph, a fun stuff, a strong meme, a fashion and even a subculture in Far East Asia since last year. It's originally from japan and spread soon to other countries such as China and Taiwan.という事らしく、日本で使われているだけかと思っていたら、そんなに広まっていたなんて知らなかった。更には商品化までしてるし。挙句の果てにはこのサイトの作者、自分で曲作って「オー・アール・ズィー」などと歌っている。記事の末尾でその曲のMP3ファイルへのリンクを張っているが、ええと、まあ、自作。
The Triplets of Belleville / Sylvain Chomet
この映画(Amazon のジャンプ先はサントラ)の予告編を、何かの映画を観に行った時に観たのだが、その時は正直観ようという気にはなれなかった。デッサンのような画風は好きだし、風景美術も好きな領域だ。ただし、全体のトーンが暗いのと、キャラクターが余りにもデフォルメされているのが気になったのである。しかし観てみる事にした。それというのも予告編で耳にしたギター・スウィングが余りにも良かったからだ。結果から書くと「凄く良かった。」やはり最初はデフォルメされたキャラクターが気になったが、この映画の、毒とユーモアをこれでもかという程に詰め込んだ演出には、このキャラクターは欠かせないだろう。主人公の老婆が、孫を救う為に大都市ベルヴィルへ行き、港沿いの橋の下に野宿しようとしている時、ベルヴィルの三つ子の老婆と出会う場面。自転車のスポークをガムランのような楽器に見立て、音を奏でているところに三つ子が歌で参加してくる。もう鳥肌モノである。陰鬱で干からびた場面が一気に華やかな色を帯びる。音楽の凄さを改めて認識する。
メインテーマ曲の「Belleville Rendez-vous」は本当に素晴らしい。幾つかバージョンを買えてサントラに収録されているが、特にエンディングで流れるバージョンは秀逸だ。ザックザクと脳味噌を切り刻んでくれる。映画音楽というより、今年聴いた音楽の中では一番だ。是非ともデカい音で聴きたい。歌詞も良い。「コンスタンチノープルには住みたくないね。だって韻を踏まないんだもの。」みたいな感じで、これほど高飛車で退廃的な歌詞はフランス人でもなけりゃ書けないだろ、みたいなグダグダな歌詞である。これほどまでに馬鹿馬鹿しく、粋で、笑える映画はそうそうないだろうな。
エミール・ガレ展 / 江戸東京博物館
迂闊にも昨晩知った回顧展に行って来ました。これまでアール・ヌーヴォの展覧会などで何点かは目にしていましたが、これだけのガレの作品を目の当たりにするのは初めてです。ガレがデザインした家具は見た事があったのですが、陶器は初めてでした。しかし陶器は私としては今一つ。これなら東アジアの陶器の方が断然良い。ま、比べるものでもないんですが。
ガレと言えばやはりガラス器。今回私の目を惹いたのは、北斎漫画をモチーフ(ほぼ絵をガラス細工でやり換えたもの)にしたガラス器。今現在私が日本の様式美に興味を持っているからこそ、そう思えるのだろうが。しかしそれとジャポニズムは別である。欧州人の好奇な色眼鏡で見られた日本の様式は、微かに歪められ、誇張され、それが非常にエキセントリックな印象を受ける。私が気に入っているのはそういう部分である。
もう一つ。ガレのランプが在る。その斜陽の灯りと眺めていると、不思議な感覚に捕らわれる。例えば自分がこのまま死んでしまうとしても、この灯りを見つめていればさして怖くもなく、緩やかに没する事が出来るのではないか。そんな風に考えてしまった。いずれ、来るその日の為にガレのランプを手に入れるのも悪くはない。さすがにアンティーク・ガレを買うのは無理だが、エミールが没した後も営まれ続けている、ガレ商会製のランプなら買えなくもなさそうだ。
ガレと言えばやはりガラス器。今回私の目を惹いたのは、北斎漫画をモチーフ(ほぼ絵をガラス細工でやり換えたもの)にしたガラス器。今現在私が日本の様式美に興味を持っているからこそ、そう思えるのだろうが。しかしそれとジャポニズムは別である。欧州人の好奇な色眼鏡で見られた日本の様式は、微かに歪められ、誇張され、それが非常にエキセントリックな印象を受ける。私が気に入っているのはそういう部分である。
もう一つ。ガレのランプが在る。その斜陽の灯りと眺めていると、不思議な感覚に捕らわれる。例えば自分がこのまま死んでしまうとしても、この灯りを見つめていればさして怖くもなく、緩やかに没する事が出来るのではないか。そんな風に考えてしまった。いずれ、来るその日の為にガレのランプを手に入れるのも悪くはない。さすがにアンティーク・ガレを買うのは無理だが、エミールが没した後も営まれ続けている、ガレ商会製のランプなら買えなくもなさそうだ。
都築 響一
- 2005-01-06 木曜日
- Category - Art
- Tag - japanese / photograph / book / architecture
都築響一とくれば「 TOKYO STYLE 」と来てしまう。さすがに12000円も出してハードカヴァーを買う気にはなれなかったが、文庫本を買って、それこそ寝るまでずっと眺めている事もあった。ベッドの中でパラパラとめくるには、文庫本は丁度良いのだ。しかしこの記事に書かれているように、クラブ・ゴールドのプロデュースまでやっていたとは知らなかった。この雑誌、ちょっと読んでみたいなあ。
冬の運動会 / Nippon Television Network
新聞での紹介を読んで興味が沸いたので観てみた。途中までは良かったのだが、最後の収束の仕方がツマラナイ。家族の確執がそんなにも急激に穏やかになる訳がないだろう。その余りに急速な健全化に呆気に取られるほどだ。まあ、それは置いといて、僕が興味を持っていた部分について少し。
というのも、僕は常々こう考えている訳です。既存の人間関係の中で、自分を支え切れないのであれば、他に誰かを求めても仕方ないだろうと。勿論、社会的なな道徳規範に晒されたり、個人間の所有欲や嫉妬に焼かれる事は否めないのですが、フィクションの中でまで否定して欲しくないのです。明治以前の日本の共同体は乱婚が行われており、それに拠って共同体が保たれていた、と書いていたのは宮台真司だったか。その本には家族はどう保たれていたのかについては書かれていなかったと思うが、それについては結構興味がある。
そうそう、ハイライトにはこんな事も書いてあった。
登場するのは、祖父・父・息子の3世代の男たち、祖父の北沢健吉、父・遼介、主人公で息子の菊男。3人は、どのように家族と関わったらいいのかと思い悩み、互いに確執を抱えながら、それぞれが自宅とは違う場所に擬似家族を持つようになる。30歳以上も年が離れた女との半同棲の生活を楽しむ健吉、親友の未亡人とその息子の面倒をみる遼介、子供のいない中年夫婦の家に入り浸る菊男。そして、この秘密が明らかになった時、女たちを含めた家族の形は大きく揺らぐ。果たして、男たちは、それぞれの葛藤の中で、お互いを理解し、許容し合えるようになれるのか—。日テレの番組のハイライトにはこうある。家族がそれぞれ他に疑似家族を持つという行に非常に興味を持った訳だが、何度も言うが最後の「お互いを理解し、許容し合えるようになれるのか」が要らないと思う。いや、それは言い過ぎか。少なくとも安易な理解の仕方は止めて欲しかった。あ、これはテレビドラマに限っての話。向田邦子の原作もこうなんだろうか。読んでみようと思ったけど、これと同じなら読みたくないなあ。
というのも、僕は常々こう考えている訳です。既存の人間関係の中で、自分を支え切れないのであれば、他に誰かを求めても仕方ないだろうと。勿論、社会的なな道徳規範に晒されたり、個人間の所有欲や嫉妬に焼かれる事は否めないのですが、フィクションの中でまで否定して欲しくないのです。明治以前の日本の共同体は乱婚が行われており、それに拠って共同体が保たれていた、と書いていたのは宮台真司だったか。その本には家族はどう保たれていたのかについては書かれていなかったと思うが、それについては結構興味がある。
そうそう、ハイライトにはこんな事も書いてあった。
血の繋がっている相手と諍いが絶えないのなら、せめて少しの間だけでも別の家族を持って穏やかな時を過ごしたい—ストレスと緊張に囲まれた現代人のそんな夢を、向田は25年以上も前のドラマの中で描いているのである。この記述は温いと思う。「夢」ではなく「渇望」だと思う。
ラジオの声
休日の午前中は部屋でFMを流している事が多い。しかも目が覚めたらすぐにチューナーの電源を入れる。かと言って直ぐにベッドから起きあがる訳ではない。微睡みの中で、スピーカーから聴こえて来る、低く絞られた音を聴いているのが好きなのである。内容なんか全然聞いていないし、曲もうろ覚え。耳障りの良いラジオの声を聴いているだけで良いのだ。
しかしこれはAMではダメである。AMの音は不快に感じる。詳しく調べた事はないが、FMの方が断然気持ち良い。例えばこのサイトなんかを読むと、AMはノイズに弱い性質を持ち、FMはノイズに強いという事らしい。しかし、それだけでは説明し切れない部分があるように思える。
この習慣は高校の時から有る。ラジオが自分の部屋に無い時期もあったから、その間はこの習慣を、自分自身忘れてしまっている。今この部屋に在るチューナーは今年になって買ったものだが、それまで僕の部屋にラジオは数年間無かった。それがある時、何となく自分の部屋でラジオが聴きたくなって、秋葉原に出向いてチューナーを買って来た。それからは時々電源を入れては何となく聴いていて、でも起き抜けに聴く事は無かった。
ある朝、何となしにラジオをつけて、スピーカーから聴こえてくる音に耳を澄ますと、何とも言えない安心感に包まれるのを感じた。その時聴いていたのは J-WAVE の番組でクリス智子が喋っていた。彼女の柔らかな声が非常にツボであった。それが余りにも気持ち良くて、それからは休日の午前中はラジオの声を聴きながら微睡む、という習慣がついてしまった。そう言えば高校の頃聴いていたのも、FM福岡の朝の番組(確か土曜日)で女性のパーソナリティだった。
しかしこれはAMではダメである。AMの音は不快に感じる。詳しく調べた事はないが、FMの方が断然気持ち良い。例えばこのサイトなんかを読むと、AMはノイズに弱い性質を持ち、FMはノイズに強いという事らしい。しかし、それだけでは説明し切れない部分があるように思える。
この習慣は高校の時から有る。ラジオが自分の部屋に無い時期もあったから、その間はこの習慣を、自分自身忘れてしまっている。今この部屋に在るチューナーは今年になって買ったものだが、それまで僕の部屋にラジオは数年間無かった。それがある時、何となく自分の部屋でラジオが聴きたくなって、秋葉原に出向いてチューナーを買って来た。それからは時々電源を入れては何となく聴いていて、でも起き抜けに聴く事は無かった。
ある朝、何となしにラジオをつけて、スピーカーから聴こえてくる音に耳を澄ますと、何とも言えない安心感に包まれるのを感じた。その時聴いていたのは J-WAVE の番組でクリス智子が喋っていた。彼女の柔らかな声が非常にツボであった。それが余りにも気持ち良くて、それからは休日の午前中はラジオの声を聴きながら微睡む、という習慣がついてしまった。そう言えば高校の頃聴いていたのも、FM福岡の朝の番組(確か土曜日)で女性のパーソナリティだった。






