DOG ON THE BEACH
Le petit prince / Antoine de Saint-Exupery's
余丁町の散人氏のエントリで紹介されていたのですが、この本の中の「薔薇 」は一体誰がモデルになっているのかが56年を経てようやく判明したそうです。それは妻の Consuelo だとか。詳しい経緯については氏のエントリを参照してください。個人的な意見を書かせて貰うならば、文中の「薔薇」はかなり一般化して書かれていると思うので、大した問題ではないのではないか、と。ならば何故わざわざエントリに書くのかというと、一つ思い出した事がありまして。それと言うのも、10年くらい前の或る日の事です。ポストに小包が届いていました。差出人は不明です。中を開けると、手製の布地のカバーで製本し直された岩波少年文庫の「星の王子さま」が入っていました。宛名はしっかりと僕の名前と住所になっているので間違いであるハズはないが、全然思い当たるフシがありません。その当時、郵便物のやりとりをしていた人と筆跡を見比べてみましたが、誰の筆跡とも合致しません。誰が送ってくれたモノなのか知りたいとは思いましたが、モノがモノだけに、送り方が送り方だけに問いただす事もなく現在に至ります。不思議な事もあるものです。その本を贈ってくれた誰かは、僕に一体何を伝えたかったのでしょうか。
此処で紹介しているのは岩波少年文庫版ではありません。サン=テグジュペリが生前に唯一ゲラを確認した挿絵(アメリカ版)を使用したオリジナル版です。僕は持ってませんが、ちょっと欲しい気もします。

迷う中野下り電車
また電車内での話ですが、時折見かける吊革ダブルハンド。要は二人分の吊革を独り占めしている人の事です。僕が思うに、これをやる人間は30代以上の人々のような気がします。しかし例外が二つほどあります。女の子を座席に座らせ、自分は立ってデレデレと女の子に話しかけている男。こいつです。彼が吊革を二本掴む必要があるのは、声が巧く聞き取れない時に女の子の方に顔を寄せる為、バランスを取らねばなりません。その為に吊革が二本必要なのです。悪気はないのでしょうが(妬みも含め)邪魔です。もう一つは、吊革を使って懸垂しようとする小学生です。一瞬は微笑ましく思えるのですが、さすがにこれを真横でやられると腹が立ってきます。後ろにそうっと回って脇をくすぐってやればさぞ面白かろう、とか考えてしまいます。
さて、それ以外の取り立てて理由が思いつかないが、何故か吊革を二本占有してしまっている人々ですが、僕はその理由をこう考えます。30歳も過ぎ、酷く疲れていたり酔っていたりすれば、筋力の低下に依り、重心を保つのが困難なのではないでしょうか。そうであるならば解る気もします。しかし、しかしです。中にはそういう性善説を覆してしまうような態度を取る人も居るのです。そういう人達はチラチラを周りに視線を投げかけ、自分が吊革を余分に使用している事を気にしているように見えます。しかしその表情には恥じらいとか申し訳なさのような色は全く見えません。どちらかと言えば自慢げです。どういうつもりなのでしょう。もしかすると、他人より少しでも多くのモノを所有している事が嬉しくて仕方がないのかも知れません。僕はこういう人を見かけると、その手を竹で出来た物差し(家庭科の先生がよく持ってたヤツ)で思い切りスナップを効かせてピシッ!と叩きたい衝動に駆られます。
で、どうしてこんな事を書きたくなったのかというと、帰りの電車の中でそういうオッサンを見かけたからです。彼の目の前の座席には二人の女性が座っていました。彼は酔っているのでしょうか、重心が安定していません。暫くすると彼の身体が揺れ始めました。二人の女性は少し気になったようですが、直ぐに視線をハズし二人の会話に戻りました。オッサンは自分の身体の揺れに耐えようとしているのか、表情が険しいです。しかし悲しいかな、彼のその努力は報われていません。揺れはだんだんと大きくなり、とうとう身体全体がグラインドし始めました。二人の女性目掛けてダイヴしそうな勢いです。女性二人は訝しげに身体を反らせています。オッサンにも二人の女性にも私は何の義理もありませんが、僕はだんだん心苦しくなってきました。車内の雰囲気も明らかに寒々しくなっています。・・・そして、またタイミング良く私の降りる駅へ到着。その後どうなったかは判りません。
さて、それ以外の取り立てて理由が思いつかないが、何故か吊革を二本占有してしまっている人々ですが、僕はその理由をこう考えます。30歳も過ぎ、酷く疲れていたり酔っていたりすれば、筋力の低下に依り、重心を保つのが困難なのではないでしょうか。そうであるならば解る気もします。しかし、しかしです。中にはそういう性善説を覆してしまうような態度を取る人も居るのです。そういう人達はチラチラを周りに視線を投げかけ、自分が吊革を余分に使用している事を気にしているように見えます。しかしその表情には恥じらいとか申し訳なさのような色は全く見えません。どちらかと言えば自慢げです。どういうつもりなのでしょう。もしかすると、他人より少しでも多くのモノを所有している事が嬉しくて仕方がないのかも知れません。僕はこういう人を見かけると、その手を竹で出来た物差し(家庭科の先生がよく持ってたヤツ)で思い切りスナップを効かせてピシッ!と叩きたい衝動に駆られます。
で、どうしてこんな事を書きたくなったのかというと、帰りの電車の中でそういうオッサンを見かけたからです。彼の目の前の座席には二人の女性が座っていました。彼は酔っているのでしょうか、重心が安定していません。暫くすると彼の身体が揺れ始めました。二人の女性は少し気になったようですが、直ぐに視線をハズし二人の会話に戻りました。オッサンは自分の身体の揺れに耐えようとしているのか、表情が険しいです。しかし悲しいかな、彼のその努力は報われていません。揺れはだんだんと大きくなり、とうとう身体全体がグラインドし始めました。二人の女性目掛けてダイヴしそうな勢いです。女性二人は訝しげに身体を反らせています。オッサンにも二人の女性にも私は何の義理もありませんが、僕はだんだん心苦しくなってきました。車内の雰囲気も明らかに寒々しくなっています。・・・そして、またタイミング良く私の降りる駅へ到着。その後どうなったかは判りません。
真夜中の下り電車
相変わらず音楽を聴いたり本を読んだりしていますが、ここのところ、それ以外は仕事をしている記憶しかありません。昨日は23時過ぎの電車で帰宅。僕の隣で吊革に捕まるオッサンは赤ら顔して周りをキョロキョロを見回しています。酒臭いです。本来ならば直ぐにでも場所を移動して、その不快指数150%の状況から逃げ出すのですが、今回は思い留まりました。何故ならば、美しい女性が私の目の前の座席に座っていたからです。
ブルージーンズに白いレザーのスニーカーを履いて、生成のショールを肩から首に至まで巻いていました。そんなラフな格好の割りには左手にやたらとアクセサリーをつけています。しかし今回の話の中心はそんな事ではありません。肝心なのは彼女がつけている香水です。初めて嗅ぐ匂い(もはや香りとは言えない)ですが、その匂いに包まれていると、もう何だか倒れそうになるのです。もうどうなってもいい、などと思ってしまうくらいに落ちそうになるのです。
意識が遠のいていく中、僕はふと隣に立つ150%オッサンの存在が邪魔に思えて来ました。この匂いは俺のものだ。嗅ぐんじゃねえ。見るんじゃねえ。僕は乗客が乗り降りするタイミングを見計らい、鞄を押しつけてその150%オッサンを遠のけました。
さて、どのタイミングでよろけた振りをしようか。そんな心の奥深い声に耳を傾けている内に、あえなく地元の駅に到着。吊革を握る手を緩めました。
ブルージーンズに白いレザーのスニーカーを履いて、生成のショールを肩から首に至まで巻いていました。そんなラフな格好の割りには左手にやたらとアクセサリーをつけています。しかし今回の話の中心はそんな事ではありません。肝心なのは彼女がつけている香水です。初めて嗅ぐ匂い(もはや香りとは言えない)ですが、その匂いに包まれていると、もう何だか倒れそうになるのです。もうどうなってもいい、などと思ってしまうくらいに落ちそうになるのです。
意識が遠のいていく中、僕はふと隣に立つ150%オッサンの存在が邪魔に思えて来ました。この匂いは俺のものだ。嗅ぐんじゃねえ。見るんじゃねえ。僕は乗客が乗り降りするタイミングを見計らい、鞄を押しつけてその150%オッサンを遠のけました。
さて、どのタイミングでよろけた振りをしようか。そんな心の奥深い声に耳を傾けている内に、あえなく地元の駅に到着。吊革を握る手を緩めました。
Water Boys / Fuji Television
今回は TV 版。実は昨日の夕方から今朝の4時まで観てました。観るのは二回目です。元の映画も何度か観てますが、何だか事ある毎に観てますね。昨日もちょいと良くない方向に精神が流れ始めたので、流れ変えないとマズいなーと思いレンタルして来ました。映画版と違って TV 版だと、受け容れ難い表現も多々あるのですが、それでも観てしまうんですよ。感想なんてたった一言しか在りません。「こいつら、羨ましいなあ。」てそれだけです。そう思いたいが為に連続で10時間もモニタを眺めてしまうんです。私の今年の夏休みなど、連日12時間の睡眠と素麺と冷や奴とビールと甲子園とアテネ・オリンピックと散歩で終わりました。まあ、それはそれで王道な気もしますが。
Bad Guy / Kim Ki-Duk
これも娼婦絡みの映画。どうしてそんな映画ばかり観るのか、とか聞いてはいけない。僕だって高校球児の爽やかな涙を見遣りながらコレ書いていて、自分が少し心配になっていたりするのだから。・・・さてこの映画、前述の「歓楽通り」とは少し違う。いやだいぶ違う。主人公はヤクザの男。街で見かけた女子大生に一目惚れをしてしまうが、鼻も引っかけて貰えない。考えた男は女を罠にかけ、自分が面倒を見ている売春宿に身売りさせるのである。そうやって女を身近に置く事に成功する男だが、彼の苦悩はそこから始まる。初めて客を取らされ泣き叫ぶ女を目の当たりにして、居ても立っても居られずに客を叩き出したり、女に暴力を奮おうとする客を袋叩きにしたりするが、女を売春婦にしてしまったのは自分である。何れ女は客を取る事になる。客に買われ、子分にまで買われる女を男は見つめ続ける。たった一言の言葉も発せずに。実はこの主人公、全然喋らない。唯一、一場面だけ喋る。その台詞はこの映画の根底に流れる、男の思いを吐き出すものであるが、それさえギドク監督はもまともには喋らせない。簡単には感動なんかさせては貰えないのである。そんなところが私はいたく気に入りました。それと、ジャケット画像にもあるような売春宿の毒々しい原色の照明が美しく、さすが韓国人は原色の使い方が巧いなあ、とか思いました。これのポスターとか無いかな。劇中でエゴン・シーレの画集が突然登場するので何かと思えば、ギドク監督はパリで絵を描いて暮らしていた事があるそうな。
- SPO Entertainment によるキム・ギドク監督のサイト
- Seochon.net による主人公役のチョ・ジェヒョンのページ
Rue des plaisirs / Patrice Leconte
Amazon.com にも画像が無くて Amazon.fr で探したら見つかりました。しかしそこまでして書きたい事があったのかというとそんな事はないのですが、せっかくなので書いておきましょう。(ジャンプ先は Amazon.co.jp です)・・・戦時下のフランス。娼婦と客との間に一人の男の子が生まれる。彼は娼館の女達に実の息子のように可愛がられ「将来どんな人間になりたい?」との母からの質問に「女の人の世話をしたい。」と答える。後年、そのままその娼館で下働きとして女達の世話をしながら生活する男の前に、ある日、新入りの娼婦が現れる。彼はその娼婦に宣言する。「一生君の世話をする。」と。男はまさに女の為に生きる。いつも寂し気な彼女の運命の恋人を捜し、適当だと思われる男と彼女をくっける為に占い師を買収し、出会わせる。その後、その恋人が招く様々なアクシデントを献身的に払いのけ、彼女を人生に成功させる為にラジオ・オーディションに強引に応募し、合格させる。そしてラストはお決まりの唐突な悲劇で物語は終わる。
僕個人としては、いつも悲劇で終わらせるフランス映画の王道とも言うべき作法が気に入らない。まるで物語を終わらせる為には誰かを死なせなければならないかのようだ。全てとは勿論言わないが、観る映画がこればかりだと、段々観る気が失せてくる。物語=人生と考えるのならば、確かにそうなのだが。多くのフランス映画が何故そうなってしまうのか、その訳を知りたい。調べたりはしないけど。調べようがないし。誰から知らないかな。
余談ですが、私がルコント監督の作品を観るのはフェティッシュな映像を観たいからである。決して悲劇が好きな訳ではない。

生きている / 佐内 正史
- 2004-08-11 水曜日
- Category - Art
- Tag - photograph
日常の中ではさして気にする事もなく見逃してしまいそうな光景を焼き付けてある。こういう文章は割と彼方此方で目にするのだが、本当にどうでも良さそうなモノを撮っている。ように僕には思える。何の引っかかりもないし。でも何故か気になって観てしまうし、終いには写真集まで買ってしまう。何がどう気になるのか自分でも解らないままに。例えば、森山大道や荒木経惟や中平卓馬の方が僕に取っては解りやすい。対象物の何が気に入って撮っているのかが解るような気がするからだ。しかし佐内正史の撮る写真はそういう事が何も思いつかないのである。思うに、彼は対象物など撮っていないような気がする。対象物と思しきモノの直前に在る何か、空気のようなモノを撮っているような気がする。しかしそれが僕に心地よさ(のようなもの)を感じさせるのは何故なのか、それは全然さっぱり解らないのである。少しばかり考えてみると、彼の撮る写真には闇・影(隠喩としての)が無い。全方向からの光に満たされている。今現在目に見えている実体以外には何もない。そう言っているような気がする。汚れも、綻びも何もない清潔な実像。虚飾も欲望も存在しない陽の当たる場所。僕にはそれは空恐ろしく感じる。
以前、何処ぞの巨大掲示板で書いた気がするが、彼の撮る写真に写り込んでいるのは、黄泉の国から再び戻った時に最初に見る光景がそれであるような、そんな印象を受けるのである。






