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DOG ON THE BEACH
眼球舐め
これは十庵氏の要請に応えるエントリである。
だからと言ってこの話題というのも何だけれど。今から7年ほど前に、僕は突然、しかも実施でいきなりこの行為を知る事になる。しかし全然嫌ではなく、不思議な事に何の違和感も感じなかった。真夜中にいつものようにセックスに及んだ際に「ちょっと目開けてて。」と言われ、何だろうと思いながら目を思いっきり見開いて待っていたら、彼女は僕に覆い被さり、何の説明も予告もなく舐めてきたのである。
確かに気持ち良かった。その気持ちよさを例えるなら、蒸しタオルで目を覆う気持ちよさと、粘膜を介して行う性的な気持ちよさが混じったようなものだった。僕はどちらかと言えば物の先端に恐れを抱く方で、目薬さえまともに指せないのだが、この時はあまりそういう事を感じなかった。彼女の舌先が僕の眼球をなぞるのは、身体の他の部分で感じるのと同じように、行為を受ける者の喜びを感じる事が出来た。
その時の事を彼女がどう思っていたのか解らないが、眼球を舐められたのはその時一度だけだった。僕からもその時しかした事はなかったと思う。ノリだとか流れだとかの曖昧な理由で、その行為に及ぶ機会がなかっただけかも知れないが。
★
相手の眼球を舐めるという行為について、僕は人の口からは殆ど聞いた事がない。一人だけ、或る女性と話している時にその話題が出た事があるが、他はない。それは僕が性的な事柄について他人と話す事が余りないからかも知れない。実際のところ、よく解らない。少なくとも一般的ではないような気はしているのだけれど。
あ、そうそう。他人がやっている眼球舐めは見た事がある。最近の話だけれど、アダルトビデオの中で。三上翔子の主演した「拘束椅子レズビアン」というシリーズで、共演は姫咲しゅり。このシリーズ自体が相当ハードなのだが、これは更に姫咲しゅりが途中からずっと泣き喚いているし、眼球舐めの場面も凄絶過ぎて、僕は最早一体何の為にこのビデオを見ているのかすっかり忘れ去ってしまい、ただただ腕を組んで見入っていた。
だからと言ってこの話題というのも何だけれど。今から7年ほど前に、僕は突然、しかも実施でいきなりこの行為を知る事になる。しかし全然嫌ではなく、不思議な事に何の違和感も感じなかった。真夜中にいつものようにセックスに及んだ際に「ちょっと目開けてて。」と言われ、何だろうと思いながら目を思いっきり見開いて待っていたら、彼女は僕に覆い被さり、何の説明も予告もなく舐めてきたのである。
確かに気持ち良かった。その気持ちよさを例えるなら、蒸しタオルで目を覆う気持ちよさと、粘膜を介して行う性的な気持ちよさが混じったようなものだった。僕はどちらかと言えば物の先端に恐れを抱く方で、目薬さえまともに指せないのだが、この時はあまりそういう事を感じなかった。彼女の舌先が僕の眼球をなぞるのは、身体の他の部分で感じるのと同じように、行為を受ける者の喜びを感じる事が出来た。
その時の事を彼女がどう思っていたのか解らないが、眼球を舐められたのはその時一度だけだった。僕からもその時しかした事はなかったと思う。ノリだとか流れだとかの曖昧な理由で、その行為に及ぶ機会がなかっただけかも知れないが。
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相手の眼球を舐めるという行為について、僕は人の口からは殆ど聞いた事がない。一人だけ、或る女性と話している時にその話題が出た事があるが、他はない。それは僕が性的な事柄について他人と話す事が余りないからかも知れない。実際のところ、よく解らない。少なくとも一般的ではないような気はしているのだけれど。
あ、そうそう。他人がやっている眼球舐めは見た事がある。最近の話だけれど、アダルトビデオの中で。三上翔子の主演した「拘束椅子レズビアン」というシリーズで、共演は姫咲しゅり。このシリーズ自体が相当ハードなのだが、これは更に姫咲しゅりが途中からずっと泣き喚いているし、眼球舐めの場面も凄絶過ぎて、僕は最早一体何の為にこのビデオを見ているのかすっかり忘れ去ってしまい、ただただ腕を組んで見入っていた。
吉原と島原 / 小野 武雄
- 2007-08-08 水曜日
- Category - People
- Tag - philosophy / japanese / sexuality
先日再読してみた。この手の本は一度読んだだけでは極一部を覚えているだけでその他は全然頭に入っておらず、暫くしてか、若しくは数年後に再読すればその度に色々と気付く事があるものである。そりゃそうである。著者が膨大な時間とエネルギーを注いだ本を初見で覚えられるはずもない。第一僕は記憶力が薄い。すぐに色んな事を忘れてしまう質なのだ。そして今回、面白く読んだ部分は多々在ったのだけれど、その中で最近の僕の思考の流れに沿う部分を一部抜粋して話をしようと想う。客と遊女が本当に惚れ合い、離れ難い気持ちになると、とりわけ富豪の息子が夢中になって熱をあげると、遊女は彼を手放したくないと切望して、誓いの言葉を述べるだけでなく、最も権威あるものといわれる熊野神社の午王宝印の起請文にならって、夫婦になる起請文を書いて、神仏に誓う。
落語「三枚起請」(僕自身はその話は知っているのだけれども、まともに落語としては未だ聴いていない)でも知られる誓いだてですな。武将の盟約にもよく使用されたらしく、誓いとしては厳格なものであったようである。(余談:実は三枚起請の下げの意味がよく解っていなかったのだが、此処にその解説がされていた。僕はまだまだ勉強が足りない。)とまあ、そういう事らしいのだが、しかしながらこれが今回の主たる話ではない。流れを作る前文として書いたまでだ。引用元の本には上記に続いてこう在る。
さらにそれだけで不足ならば、遊女は真実の意を示す証拠として、小指を切断して男へ送る。漫画「さくらん」にも出てきた話だ。切断した小指を送りつけられるなんて、日常的な精神状態であれば脅迫という観念さえ越えて恐怖以外には思えない行為であるが、ロミオとジュリエットの類とは全然違った嗜好性に酔って、盛り上がりに盛り上がった当事者にとっては当然な流れなのかも知れない。更にこう在る。
また、客とともに互いに腕に、○○(遊女の名)の命、××(客の名)の命と入墨をして、見せ合う。これを読んで「お。根性彫りてえのはその頃から継承する習慣だったのか!」と思ったりしたのだけれど、よくよく眺めていると少し感じが違う。「名前」と「命」の文字の間に「の」が入るらしいのだ。僕の認識で言うならば「千明命」だとか「静香命」という風に刻まれるはずである。その意味合いとしては「おいらは千明を命を懸けて愛するんだぜ!」または「おいらは静香を命を懸けて愛しているんだぜ!」とか、どちらかと言えば一方的な想いを告白している感じである。
しかし江戸吉原で流行った入れ墨は「の」一文字が入っているだけで、その意味合いは「おいらは夕霧の命と謳われるほどの男なんだぜ!」となってしまう。相思相愛。お互いが最上の情夫(婦)である事を前提とした宣言文である。何だかえらい事になっているのである。これに比べたら「の」が入らない入れ墨なんぞ稚拙な自演に過ぎない。しかし傍から笑って見ていられるのもこちらである。相思相愛の上での入れ墨なんて笑えない。そういうのは他人に見せてはいけないものだ。上記の引用文から察するに、お互いが確認する為だけに行われた風習であるようだ。深く絡み合った情愛は二人以外の世界を排除してしまうのだろう。
蛮行伝 その二
- 2007-07-25 水曜日
- Category - People
- Tag - philosophy / psychology / sexuality
暫く前の話。恋人同士なのか夫婦なのか判らないが、見慣れない顔。上気したような表情で男が女の肩を抱く。肩を抱くとは言っても、例えば年老いた白人の夫婦が愛情と労りを持ってするような雰囲気ではない。飽くまで性的快楽を求めるような手や指の動きである。昨夜のセックスがそんなにも良かったのか。それとも玄関を出る寸前までヤっていたのだろうか。射精後の男がそういつまでもそんな状態でいられるとは思えないので、恐らく時間切れで中途で止めてきたのだろう。
女が許せば、きっとその場でヤり始めるのではないかと考えながら眺めていたら、女は肩に乗せられた男の手を払いのけた。惚けているのは男の方だけらしい。興奮で脳味噌が溶けているのだろう、男はその後もしつこく肩を抱こうとしたり腰に手を回したりしていた。
早朝の満員電車の中では、殆どの人々は内心イラつきながらも吊革に捕まっている。そんな中で欲望に顔を歪ませている人間が人目を憚らずに行為に及んでいれば、そりゃあもう不適切を遙かに超えて不快である。このまま男が諦めずに行為を続けた場合、女がキレるのが先か、それとも他の乗客がキレるのが先か一体どっちだろうな、などと考えている内に電車は僕が降りるべき駅に到着した。
因みに僕は、人目の在る場所で性的な行為をするのが嫌いである。手を握ったり腕を組んだりするのが限界だ。僕の方からはそれ以上は絶対にしないし、もし相手がそういう事をし始めたら怒りすら覚える。それとは逆に、二人きりの空間でなら何をしようが大抵の事は平気なのだが。
女が許せば、きっとその場でヤり始めるのではないかと考えながら眺めていたら、女は肩に乗せられた男の手を払いのけた。惚けているのは男の方だけらしい。興奮で脳味噌が溶けているのだろう、男はその後もしつこく肩を抱こうとしたり腰に手を回したりしていた。
早朝の満員電車の中では、殆どの人々は内心イラつきながらも吊革に捕まっている。そんな中で欲望に顔を歪ませている人間が人目を憚らずに行為に及んでいれば、そりゃあもう不適切を遙かに超えて不快である。このまま男が諦めずに行為を続けた場合、女がキレるのが先か、それとも他の乗客がキレるのが先か一体どっちだろうな、などと考えている内に電車は僕が降りるべき駅に到着した。
因みに僕は、人目の在る場所で性的な行為をするのが嫌いである。手を握ったり腕を組んだりするのが限界だ。僕の方からはそれ以上は絶対にしないし、もし相手がそういう事をし始めたら怒りすら覚える。それとは逆に、二人きりの空間でなら何をしようが大抵の事は平気なのだが。
業火
- 2007-07-17 火曜日
- Category - People
- Tag - philosophy / psychology
社会人となって十数年、職場で色々な人と接してきた。時々思うのは、同じ共同体内で上司や先輩の悪い部分を、それはもう見事に後輩が受け継いでいるのは何故だろうという事。自分が同じ事をされて嫌だったろうに、何故かしらそっくりそのままの事を目下の人間に対して遂行しているのである。不思議だ。その昔に何処かで読んだ軍隊を例に出した加虐のメカニズムを思い出す。
僕自身はそんな事をしているつもりはさらさらないのだが、気付いていないだけで実は同じような事をしているのかも知れない。そしてこれは何も仕事上の共同体だけの話ではなく、勿論家族という共同体の中でも見受けられると思う。現代の東京などでは有り得ない父権の強い家庭であるとか、男尊女卑の影が色濃く残っている家庭だとか、そんな家庭に育った人間は現代社会に於いてもその名残りを引きずっている。かく言う僕は明らかにそういう価値観の元に育っている。
思春期を迎えた頃から僕はそういう価値観が嫌いであったので、出来るだけそれに逆らうような形で生活してきた。でも実際のところ、他人の目に僕がどう映っているのかは判らない。たまに自分の行動した事を後から思い返せば、父のかつての行動が思い起こされたりするので、何かしらを引き継いでいるとは思う。業を引き継ぐ、もしくは継承するというのはこういう事だろうか。
少し話は逸れたが、こんな事を考えていると、人の世というものは日々ロクでもない方向に進んでいるような気がしてならないのだけれど、想像するよりも多少はまともな社会生活が営まれているように見えるという事は、業の継承とは別な流れが引き継がれているのだろうか。
僕自身はそんな事をしているつもりはさらさらないのだが、気付いていないだけで実は同じような事をしているのかも知れない。そしてこれは何も仕事上の共同体だけの話ではなく、勿論家族という共同体の中でも見受けられると思う。現代の東京などでは有り得ない父権の強い家庭であるとか、男尊女卑の影が色濃く残っている家庭だとか、そんな家庭に育った人間は現代社会に於いてもその名残りを引きずっている。かく言う僕は明らかにそういう価値観の元に育っている。
思春期を迎えた頃から僕はそういう価値観が嫌いであったので、出来るだけそれに逆らうような形で生活してきた。でも実際のところ、他人の目に僕がどう映っているのかは判らない。たまに自分の行動した事を後から思い返せば、父のかつての行動が思い起こされたりするので、何かしらを引き継いでいるとは思う。業を引き継ぐ、もしくは継承するというのはこういう事だろうか。
少し話は逸れたが、こんな事を考えていると、人の世というものは日々ロクでもない方向に進んでいるような気がしてならないのだけれど、想像するよりも多少はまともな社会生活が営まれているように見えるという事は、業の継承とは別な流れが引き継がれているのだろうか。
蛮行伝
僕は平日はいつも同じ時刻の電車に乗っている。通勤快速も止まる駅なのにわざわざ普通電車に乗っている。通勤快速は基本的に鮨詰めの状態なので乗りたくないし、普通電車であってもいつも僕が乗っている時刻の前後の電車は人が多い。なのでその時刻の電車に乗らなければどうあっても嫌な目に遭うのである。
そんな風にして何年もの間同じ電車に乗っていると、何年も前から見かける同じ顔というのも存在する。勿論人は動くものだし、何年かすればそこに居合わせる人々はすっかり入れ替わるのだけれど、1・2年は居たりするのだ。毎朝同じようなメンバーに囲まれて電車に揺られていれば、自然と「あ、この人は良い匂いがするからいつも隣に立とうかなー。」とか「あ、こいつは挙動不審だから嫌な目に遭わないように出来るだけ離れて立つ事にしよう。」などと思ってくるものである。
例えば、僕と同年代であろう女性というか女が次の駅でいつも同じ車両に乗ってくるのだが、数年前の事、揺れる車両によろめいてその女の足を踏んだ事があった。その女は非難がましい目で僕を睨み付けながら「いったーい!」と殊更にデカい声で叫びやがった、その余りの反応に僕は素でムカついて「すみません。」と小声で謝った後は無視していた。
その次の日から現在まで同じ車両に乗り合わせるのだが、時々見かける彼女は何というか自分の欲求のみに正直な人で、空いた座席やスペースを見つけるや否や、既に彼女の網膜にはそれしか写っていないらしく、他の乗客を蹴散らすような勢いで突進する。そして無事に領土を確保すると何事もなかったように鞄から本を取り出し読み始めるのである。しかしまあ、そんな事をするオバハンはよく居るので、大して気にしていなかった。
しかし彼女の場合はそれだけではなかった。普段は本を読んでいるがたまにイヤフォンで音楽を聴いているのを見かける。ジャカスカと音漏れしていなければ普通の行為だ。何ら問題はない。ただ彼女は違った。一体何の音楽を聴いているのかなんて知りたくもないが、なんと彼女はヘッドバンギングを始めたのである。ラッシュ時の電車内で。固く目を閉じ、唇は真一文字で、長い髪の毛を振り乱しながら一心不乱に、ガンッガンに首を縦に振っていた。もうそうなると迷惑だとかそういう問題ではない。怖いのだ、その存在が。何だか見てはいけないものを見たような気もしてくる。
明日も同じ車両に彼女が乗ってくるかと思うとドキドキする。何というか、彼女は余りにも不適切だ。
そんな風にして何年もの間同じ電車に乗っていると、何年も前から見かける同じ顔というのも存在する。勿論人は動くものだし、何年かすればそこに居合わせる人々はすっかり入れ替わるのだけれど、1・2年は居たりするのだ。毎朝同じようなメンバーに囲まれて電車に揺られていれば、自然と「あ、この人は良い匂いがするからいつも隣に立とうかなー。」とか「あ、こいつは挙動不審だから嫌な目に遭わないように出来るだけ離れて立つ事にしよう。」などと思ってくるものである。
例えば、僕と同年代であろう女性というか女が次の駅でいつも同じ車両に乗ってくるのだが、数年前の事、揺れる車両によろめいてその女の足を踏んだ事があった。その女は非難がましい目で僕を睨み付けながら「いったーい!」と殊更にデカい声で叫びやがった、その余りの反応に僕は素でムカついて「すみません。」と小声で謝った後は無視していた。
その次の日から現在まで同じ車両に乗り合わせるのだが、時々見かける彼女は何というか自分の欲求のみに正直な人で、空いた座席やスペースを見つけるや否や、既に彼女の網膜にはそれしか写っていないらしく、他の乗客を蹴散らすような勢いで突進する。そして無事に領土を確保すると何事もなかったように鞄から本を取り出し読み始めるのである。しかしまあ、そんな事をするオバハンはよく居るので、大して気にしていなかった。
しかし彼女の場合はそれだけではなかった。普段は本を読んでいるがたまにイヤフォンで音楽を聴いているのを見かける。ジャカスカと音漏れしていなければ普通の行為だ。何ら問題はない。ただ彼女は違った。一体何の音楽を聴いているのかなんて知りたくもないが、なんと彼女はヘッドバンギングを始めたのである。ラッシュ時の電車内で。固く目を閉じ、唇は真一文字で、長い髪の毛を振り乱しながら一心不乱に、ガンッガンに首を縦に振っていた。もうそうなると迷惑だとかそういう問題ではない。怖いのだ、その存在が。何だか見てはいけないものを見たような気もしてくる。
明日も同じ車両に彼女が乗ってくるかと思うとドキドキする。何というか、彼女は余りにも不適切だ。
根性彫り
- 2007-06-21 木曜日
- Category - People
- Tag - sociology / philosophy
昨日の夜はひどく疲れていたので、さっさと寝てしまおうと23時頃にはタオルケットを被っていたのだけれど、何故かしらふいに根性彫りの事を思い出してしまい、それからあれやこれやと思い出していたら眠れなくなってしまった。
田舎の中学生だった僕の周りには、所謂「ヤンな人達」が結構居て(というか元々保育園からの同級生なのだけれど)、彼等の間で「根性彫り」が流行っていたのだ。僕自身はその頃から非常に中途半端な精神性を持った子供で、真面目に勉強する事もなければ「ヤンな人」にもなれなかった。しかしその周辺には居たので自然感化される事になった訳である。つまり、僕も根性彫りをやった事があるような気がする。恐らく。というのも記憶が曖昧だからである。昨夜の回想の中では僕の左手首に刻まれた文字のような疵まで思い出せたので、恐らく間違いはないと思うのだけれど、僕は自分の記憶に夢が混ざっているフシがあるような人間なので確信が持てないのだ。
さて、根性彫りとは一般的に「好きな人の名前を自分の身体に刻む。」という、言ってみれば「どれだけ相手に惚れ込んでいるか?」という事を目に見える形で証明する行為であるようなのだが、僕の周辺で行われていたのはそれとはかなり違い「好きな人の名前を自分の身体に彫って、それを誰にも見せずに一ヶ月過ごせたら、その恋は成就する。」という、何というか・・・やってる事は大差ないのに、その意味合いが一般的な根性彫りに比べると一途で一本槍な感じがあっさりと崩れ去り、幼稚な部分だけが残ってしまったという非情に恥ずかしい行為であった。さすが中学生、おしなべて馬鹿である。
そして根性彫りというのは、どちらかと言えば女の子がやる行為(海外では好きな女の名前を入れ墨にする男は結構居るようではあるが)であるようで、僕の周辺で流行っていた行為も、その意味合いからしてどう考えても女の子用に考案された遊びに思える。では何故僕がそんな事をしたのか。その時の事情を全く覚えていないので想像するしかないのだけれど、たぶん「乗せられた」のだろう。僕は昔っから誰かを好きになると、その行動全てにそれが現れるらしくて、長くは経たない内に周囲の人全てが知るところとなる。そんなあからさまな行動をとる僕はよく女の子達にからかわれていたのである。
そんな風にして僕は好きな女の子の名前を自分の左手首に彫る事になったのだが、その後の処理がこれまた甘酸っぱい。上に書いたように「誰にも見せずに一ヶ月過ごせたら」という条件が在るので、何かしらで彫った名前を隠蔽する事になる。どうやって隠すか。それは絆創膏がその役目を果たしていた。しかも目立たない事を前提にデザインされた肌色の物ではなく、そこはさすがに女子中学生、キャラクター物の絆創膏なのである。他の人の事は覚えていないが、僕が貼っていたのはスヌーピーがプリントされた水色の絆創膏であった。勿論自分でそんな物を買う訳もなく、友達の女の子に予め貰って貼っていたのである。
スヌーピーの絆創膏って・・・。もう言葉もない。恐らく女の子から何かしら貰う、という事が嬉しくて仕方がなかったのだろう。今思えば中学2年くらいまでは、毎日そんな事ばかり思って過ごしていた気がする。
★
さて、此処までは前フリである。昨夜思い出していた中でどうしても気になった事があって、それがこの話のメインなのだが、それは何かというと、僕が左手首に彫った名前の持ち主が一体誰なのか全く思い出せない事である。実はそれが思い出せないが為に眠れなくなったのだ。その当時、中学生の頃の前半くらい、該当する女の子は二人居るがそのどちらなのかが判らない。
根性彫りと言うのならば、一生残る疵を自らに与えるのだろうけれど、根性も思想も何もなかった僕は、安全ピンを使ってナノ単位で薄く自分の皮膚を削っていたので、間もなく彫った名前は消えてしまった。そんな事を考えていると、もしかしたら僕の根性彫りは夢の中での出来事ではなかったのだろうかと思ってしまう。あり得るだけに確信が持てない。
本気で根性彫りをする人を何となく羨ましく思う。昨夜は、酒の酔いに任せて久しぶりに彫ってみようかとも考えたが、馬鹿馬鹿しくなって止めてしまった。今僕は、それを馬鹿馬鹿しく思わない精神性を眩しく感じるのだ。何故だろうか。たぶん、退屈なのだ。
田舎の中学生だった僕の周りには、所謂「ヤンな人達」が結構居て(というか元々保育園からの同級生なのだけれど)、彼等の間で「根性彫り」が流行っていたのだ。僕自身はその頃から非常に中途半端な精神性を持った子供で、真面目に勉強する事もなければ「ヤンな人」にもなれなかった。しかしその周辺には居たので自然感化される事になった訳である。つまり、僕も根性彫りをやった事があるような気がする。恐らく。というのも記憶が曖昧だからである。昨夜の回想の中では僕の左手首に刻まれた文字のような疵まで思い出せたので、恐らく間違いはないと思うのだけれど、僕は自分の記憶に夢が混ざっているフシがあるような人間なので確信が持てないのだ。
さて、根性彫りとは一般的に「好きな人の名前を自分の身体に刻む。」という、言ってみれば「どれだけ相手に惚れ込んでいるか?」という事を目に見える形で証明する行為であるようなのだが、僕の周辺で行われていたのはそれとはかなり違い「好きな人の名前を自分の身体に彫って、それを誰にも見せずに一ヶ月過ごせたら、その恋は成就する。」という、何というか・・・やってる事は大差ないのに、その意味合いが一般的な根性彫りに比べると一途で一本槍な感じがあっさりと崩れ去り、幼稚な部分だけが残ってしまったという非情に恥ずかしい行為であった。さすが中学生、おしなべて馬鹿である。
そして根性彫りというのは、どちらかと言えば女の子がやる行為(海外では好きな女の名前を入れ墨にする男は結構居るようではあるが)であるようで、僕の周辺で流行っていた行為も、その意味合いからしてどう考えても女の子用に考案された遊びに思える。では何故僕がそんな事をしたのか。その時の事情を全く覚えていないので想像するしかないのだけれど、たぶん「乗せられた」のだろう。僕は昔っから誰かを好きになると、その行動全てにそれが現れるらしくて、長くは経たない内に周囲の人全てが知るところとなる。そんなあからさまな行動をとる僕はよく女の子達にからかわれていたのである。
そんな風にして僕は好きな女の子の名前を自分の左手首に彫る事になったのだが、その後の処理がこれまた甘酸っぱい。上に書いたように「誰にも見せずに一ヶ月過ごせたら」という条件が在るので、何かしらで彫った名前を隠蔽する事になる。どうやって隠すか。それは絆創膏がその役目を果たしていた。しかも目立たない事を前提にデザインされた肌色の物ではなく、そこはさすがに女子中学生、キャラクター物の絆創膏なのである。他の人の事は覚えていないが、僕が貼っていたのはスヌーピーがプリントされた水色の絆創膏であった。勿論自分でそんな物を買う訳もなく、友達の女の子に予め貰って貼っていたのである。
スヌーピーの絆創膏って・・・。もう言葉もない。恐らく女の子から何かしら貰う、という事が嬉しくて仕方がなかったのだろう。今思えば中学2年くらいまでは、毎日そんな事ばかり思って過ごしていた気がする。
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さて、此処までは前フリである。昨夜思い出していた中でどうしても気になった事があって、それがこの話のメインなのだが、それは何かというと、僕が左手首に彫った名前の持ち主が一体誰なのか全く思い出せない事である。実はそれが思い出せないが為に眠れなくなったのだ。その当時、中学生の頃の前半くらい、該当する女の子は二人居るがそのどちらなのかが判らない。
根性彫りと言うのならば、一生残る疵を自らに与えるのだろうけれど、根性も思想も何もなかった僕は、安全ピンを使ってナノ単位で薄く自分の皮膚を削っていたので、間もなく彫った名前は消えてしまった。そんな事を考えていると、もしかしたら僕の根性彫りは夢の中での出来事ではなかったのだろうかと思ってしまう。あり得るだけに確信が持てない。
本気で根性彫りをする人を何となく羨ましく思う。昨夜は、酒の酔いに任せて久しぶりに彫ってみようかとも考えたが、馬鹿馬鹿しくなって止めてしまった。今僕は、それを馬鹿馬鹿しく思わない精神性を眩しく感じるのだ。何故だろうか。たぶん、退屈なのだ。
蚊取り線香
- 2007-06-17 日曜日
- Category - People
- Tag - japanese / environment
我が家では未だに夏が来ると蚊取り線香を焚く。勿論あの鬱陶しい藪っ蚊吸血鬼の飛来を妨げる為なのであるが、その本来の機能以外にも、僕の場合はあの蚊取り線香の香りを嗅ぐと何だか気分が落ち着くので、今日は雨が降っているし気温が低いから必要ないかなあと思っていても焚く。香りを楽しむ為の物ではないので、人に快をもたらす匂いではないとは思うのだけれど、何だか良いのである。だから恐らく、夏の間の僕は蚊取り線香臭いと思う。
因みに僕は、実家で使用していたという事もあって、昔っから大日本除虫菊株式会社の「金鳥」ブランドを使っている。これがアース製薬の物だと、何処かしらしっくりこないし、マット状の電気式の物なんて「こんな甘い匂いで蚊が撃退出来るのだろうか。」とその機能さえも疑ってしまうくらいである。
どうも僕は味とか匂いというものに対しては非情に保守的で、原体験で受け容れたもの以外はなかなか受容出来ないようである。あいや、よくよく考えたら僕は色んな局面に対して保守的な気がする。未知の可能性を夢見るよりも、慣れ親しんだものを慈しむ方が性に合っているようだ。
少し話はずれるが、蚊取り線香に限らず、窓を開け放たれた部屋に香の匂いが漂っているという状況が、僕は好きであるようだ。
因みに僕は、実家で使用していたという事もあって、昔っから大日本除虫菊株式会社の「金鳥」ブランドを使っている。これがアース製薬の物だと、何処かしらしっくりこないし、マット状の電気式の物なんて「こんな甘い匂いで蚊が撃退出来るのだろうか。」とその機能さえも疑ってしまうくらいである。
どうも僕は味とか匂いというものに対しては非情に保守的で、原体験で受け容れたもの以外はなかなか受容出来ないようである。あいや、よくよく考えたら僕は色んな局面に対して保守的な気がする。未知の可能性を夢見るよりも、慣れ親しんだものを慈しむ方が性に合っているようだ。
少し話はずれるが、蚊取り線香に限らず、窓を開け放たれた部屋に香の匂いが漂っているという状況が、僕は好きであるようだ。
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