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DOG ON THE BEACH

腐点

 本日の東京は最高気温28.8℃を越え、真夏日とまではいかなくとも既に夏である。今この瞬間にも、エアコンの温度表示を観てみれば25℃である。Fishmans の「 Wether Report 」という曲中で「5月なのに25℃を越える日もあるさ」などと歌っているが、今日はそれ以上だ。

 こんな日の終わりに部屋に戻ってみれば、いつもとは少々違う事に気付く。朝見た時にはあんなにも元気そうにしていた向日葵の切り花は、花瓶の水を半分以上も減らしてうな垂れているし、台所からは妙な匂いが漂ってくる。腐敗の兆候である。
 この自然界には沸点や融点もあるのだから、腐点というのも在りそうな気がするのだが、どうなのだろう。一昨年だったであろうか、日中の最高気温が39℃を越えた日、町中を歩いているとこれまでに嗅いだ事のない腐敗臭が漂っていた。いや、何かが腐敗した匂いなのかどうかも判らない。兎に角得体の知れない匂いを僕の鼻腔を擽ったのである。その時に僕は思った。この世に存在する有機物には、それぞれ腐敗し始める腐点のようなものが在るのではないかと。

 話は変わって、これは比喩でしかないのだが、人間にも腐点は在りそうだ。人それぞれが持つ己の欲求。似たような欲求でも人に拠って臨界点が違う。ここで言う臨界点とは、その値を超えると周囲の人間の存在が無に帰す事、社会性を無くす事である。時折、その臨界点が極端に低い人と出会う。傍目には面白いと思えなくもないが、実際に関わっていると迷惑なだけである。ただ、その人が全ての領域に於いてそうであるのではなく、部分的に(僕の主観では)腐っているだけなので、それ以後も相変わらず付き合っていく羽目になる。でもまあ、その領域が広ければ広い程疎ましく感じるのは事実なので、場合に拠っては離れざるをえないと判断する事も出てくるのである。

 とまあ、偉そうに書いてみたが、そういう事に基準を作るのは難しいねえ。

消えていく町の綻び

 左に掲げた写真、その光景はもう見る事は出来ない。去年に紫陽花に溢れた庭を持つ家が取り壊された記事(前のドメインで書いていたのでもう無いが)を書いたが、その向かいに在る家の一角である。或る休日の朝、朝食用のパンを買いに出た際にこの一角の前を通ったら、それまで在った室外機や消化器や石や紫陽花が撤去され、敷地境界線らしき白線が引かれていた。そしてそれから二月もしないうちにその古い家は取り壊されたのである。
 僕はこういった、自分の気に入った一角や道や庭を自分の住む町に幾つも持っている。しかし、今年になってそれらが古いものから順に取り壊されていっているのだ。さすがに道までは無くならないが、寂しいものである。

 何故こんなにも残念に思うのか、前々から考えているのだよく解らない。自分が生まれ育った頃に見た家屋の造形に似ていると言えばそうなのだが、例えば玄関や軒先に鉢植えが並んでいるというのは見た事はない気がする。田舎なので家と家の間は離れており、東京の下町のように密集してはいないのだ。何もかもがもっと間延びした感じの空間である。だからそういう空間造形に対する感傷ではないような気がするのだが、もしかしたらもっと比喩的な、凝縮された感傷であるのかも知れない。

茗荷谷の坂

 坂を歩くなら文京区だろうと思い、池袋駅から東京メトロ丸の内線に乗り換えて茗荷谷へ。駅から外へ出ると、予想していたより街並みが近代化されており、それが気に入らないと言えばそうなのだが致し方ない。何も僕の好みに従って街が作られている訳ではない。

湯立坂: 地下鉄の駅から出て北西へ。なだらかな坂道と緩やかな坂道。その両側に木々が生い茂っている。坂道の途中に何処その不動産会社が計画している多層階建てマンションの建設に反対する野立て看板が立っていた。見慣れた美しい景観が失われるのを恐れる気持ちは解る。つい最近、僕が住む下町にもついに高層のマンションが建った。そのおかげでそれまで見渡せていた空の一部が遮られてしまうのである。それを見て人が感情的になるというのは今では十分に理解出来る。

網干坂: 小石川植物園の西側を通る坂道。植物園を囲むブロック塀が物々しい印象を受けるが、ブロックの創り出す垂直線に対して坂の勾配が認識しやすいので僕はなかなか好きである。写真に撮った場合も判りやすい。それと塀に沿って放置された自転車が侘びし気に見えてそれが良い感じである。

氷川坂: 先ほどの網干坂を登りきって、左に回るとこの坂が在る。最初は面白くも何ともないが坂下に近づくにつれて傾斜がきつくなり楽しくなってくる。写真は坂の途中に建つ民家。庭木の枝を建物の前面に這わせているのが面白い。思うのだが、坂の途中に建つ家に住むのはどういう気分だろう。窓から顔を出せば坂下を見下ろす事が出来て、玄関を一歩外へ出ればそこは傾斜する大地である。実際にそういう環境で育った人に出会った事がないのでよく判らないが、その事は人の物凄く基本的な部分に影響しそうな気がする。

播磨坂: こういった整備された道幅の広い坂は特に好きでも何でもないのだが、この坂は長く続くのでそれを歩いている時の体感は気に入った。観るのではなく、傾斜を身体で感じ続けるという事に坂道の美が伺えるのである。

 久しぶりに坂を鑑賞した訳だが、僕の習性として一旦歩き出すと疲れても何故かそのまま歩き続けてしまう。途中で脚を止め、辺りを見回せば面白いものでも見つけられるのだとは思うが、どうしてもそれが出来ない。これを貧乏性と言うのかせっかちと言うのか、何れにせよ落ち着きがないのである。

底流窟

 仕事場の近所に小さな公園が在る。周りを五階建てくらいの建物に囲まれて、100平米を少し越えるくらいの土地がぽっかりと存在する。高さの異なる高木が三本と低木が五本茂り、虎模様の縄で囲ってある。二本の街灯の下には何度も上塗りされたペンキが剥げ落ちているベンチが四脚。楕円形の公衆便所が一つと、水飲み場がひとつ。ゴミ箱が一つに円筒形の灰皿が一本と一斗缶を塗装した簡易な灰皿が一つ。公園の真ん中には街灯に無理矢理に取り付けられた時計が一台。簡素な作りの割りには十分過ぎる機能を有した少し変わった趣のある公園である。
 夜、作業に疲れてコンビニまで散歩した後、飲み物片手にこの公園に足を踏み入れる事が時々ある。先客が居る事もあれば、誰も居ない事もある。大体は仕事帰りの会社員若しくは休憩を取る為に立ち寄った会社員である。皆独りで来る。稀に連れ立ってくる女性も居るには居るが、殆どは独りだ。なので誰も喋らない。黙って携帯電話を弄ったり、軽い食事をしていたり、煙草を喫んでいたり、仮眠を取っていたりする。お互いに目も合わせず、中空をぼんやり眺めていたりもする。きっと皆、独りになりたくてこの公園を訪れるのだろう。
 眺め遣ってみても、見えるものは周りを囲んだ建物の古びた壁と、その壁から突き出ている吸水管その他。給湯室であるらしき窓に見える干されたタオルの水色や桃色。干涸らびた観葉植物。それか入口方向に在る通りを行き交う人々。周りを高い壁に囲まれているせいか、谷底に落ちているような気分になる。僕は夜にしか行った事はないのだが、辺りは静かで、街灯の灯りが創り出す劇空間のように見えるこの公園は、意図的に隠蔽された日常の底流窟のような印象を受ける。

輝ける空

 空が輝く、という表現はこの季節の空の事ではないだろうか。冬は勿論の事、春でも夏でもこういう印象を受けない。光量の問題なのだろうか、冬は朧気だし、春は頼りなさげで、夏は熱に光が歪められているように感じる。秋はやけに「光」を感じるのだ。目で探す事もなく、両手に掻き集める事もなく、逆に暴力的に射抜かれる事もない光が、其処彼処に及んでいる。

夏色の空

 台風に引きちぎられたようにぽつねんと浮かぶ白い雲。周りには輝くばかりの青い空が広がり、その端っこには掃き寄せられたように陰を帯びた雲群が幾重にも重なりひしめき合っている。雲が立体的になってくると夏を感じる。そして、この青さこそが夏だと思うのだ。僕にとっての夏とはこの青さの事なのだ。この空は何処へでも連れて行ってくれるし、何処へも連れて行かない。我々が見るのは熱であり、蜃気楼なのだ。しかしながら、後年思い出すのはその光景ばかりなのはどういう事なのだろうか。幻影が記憶を浸食し水彩色の記憶ばかりが私を埋め尽くす。彼の人は光となりて現れる。

光を枕に

 キャンデラな夜を過ごし続けている。

 毎晩帰りが遅いので、シャワーを浴びて何か少し食べシャツにアイロンをかけたら、後は酒を呑みながら寝るまでの短い時間をぼんやりと過ごすだけである。一日中蛍光灯の下で過ごしているので、自分の部屋に居る時くらい、その強すぎる光からは逃れたい。今、僕の部屋の中で一番強い光を放つのはこのパワーブックの液晶画面である。とはいえ、僕の部屋は二階に在り、視線を少し上げると表通りの街灯の灯りが目に入る。というより、この部屋の中に差し込んでくる。つまり、遮光カーテンでも持ってこない限りはこの部屋は暗闇にはならないのである。しかしながら、僕は光を通さないカーテンは好きではないので、この部屋は光に晒されない時は皆無だ。
 そんな薄暗い中でも、僕は本を読もうとしてしまう。キャンデラの灯りをよほど近づけないと文字を読めないのだが、僕はベッドに寝転がり、顎と胸でキャンデラを挟み、その向こう側に本を立てて読んでいる。これだと光量は十分だ。勿論読みにくい。しかし眠る前にちょっと読みたいだけなので、さほど不都合はない。読むのが面倒になれば、本を投げ出してそのまま寝てしまう。

 そうそう、この照明器具は底面(電源スイッチ及び充電時の接続部)が少し暖かいだけで、他には熱を持つ事がない。なので、そのまま抱いて眠ってしまっても安全なのである。「光を抱きつつ眠る」という言葉にすれば少々恥ずかしいが、他では出来ない珍しい使い方を提供してくれる。たぶん誰もやらないとは思うけれども。
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