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DOG ON THE BEACH

Candela / Vessel

 去年買って暫く使っていたのだが、充電に時間がかかるのと、何かしら作業的な事をする際には暗くて不便なので、久しく使っていなかったキャンデラをまた使い始めた。前述のように不便な時(夜にアイロンかける時とか本を読む時とか)もあるが、やはりこの灯りは落ち着く。この灯りというか、この光量が。
 蛍光灯の光なんて大嫌いである。僕の部屋は一番明るい光源でも裸電球だ。100Wは無駄に明るい。60Wも少し気になる。40Wで十分な気がする。でも40Wの電球はなかなか売っていない。それ以外はクリップ式のハロゲン球だ。しかしこれは熱を持ち過ぎてちと危ない。一度床を焦がした事あるし。蝋燭の灯りも好きなのだが、やはりこれも(特に酒を呑んでいる時には)危ない。そう考えると、この照明器具は絶妙なのである。
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東京日和 / 竹中 直人

 ずっと以前にこの映画を観た時にはつまらなく感じて、それ以来思い出す事もなかったのだが、最近になって時々思い出すようになった。何を思い出していたのかというと、劇中に出てくる1970年代の東京の風景や柳川の風景である。あれは割と良かったなあ、と思っていたのである。それで今日になって、気になってどうにもならなくなったので再度観てみた。

 驚くほどにどの光景(風景に限らず美術も)も僕の気に入った。室内の美術にしても、昭和中期にモダンと呼ばれたであろう雰囲気で好きだ。線路脇の路地や階段坂など、僕が最近急激に興味を持ち始めたモチーフが散りばめられている。もしかしてこういう映像を撮りたくてこの映画を撮ったのだろうか。これらの絵を映像資料として欲しくなった。

 主軸となる物語は以前観た時と印象は変わらず。アンバランスな会話は端々で不安をかき立て、奇妙な緊張感で劇を覆ってしまう。たまに耳を塞ぎたくなる。「見ないで欲しいの。私の事、そんなに。」そう言えば、最初に観た時はこのコピーが気になって観たのだった。今でも気になると言えば気になる。

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エコバッグ

 二ヶ月くらい前から画像にあるようなエコバッグを使っている。理由は割と明確で、スーパーなどで買い物をした際に自動的についてくるポリエチレン製の袋が、毎度毎度あっという間に溜まってしまうので、それがほとほと嫌になったからである。我が家から出るゴミの3分の1はこれであるので、何となく罪悪感さえ芽生えてくる始末。

 さて、この二ヶ月の間、スーパーで買い物をする際に、他の買い物客の手元を観察しているのだが、ポリエチレンの袋ではなくエコバッグに品物を詰めて帰る人の割合は、僕が買い物に3・4回行くと一人くらいは見かける。全員女性。30代の女性を一人みかけたが、後は年配の女性が多い。そう言えば僕の母は、昔から買い物に行く際には布製の袋を持って行っていた。しかしながら彼女がエコ(そんな言葉が存在しない頃からだし)に興味を抱いているとも思えないから、恐らく僕と同じような理由なのだろう。
 そんな状況なので、僕が上のような袋に品物を詰めていると、物珍しそうな顔して見られる事がしばしばある。でも恐らく、殆どの買い物客は他人の手元になんか興味を持っていないだろうな。

 そして一つ思い出した。以前に一緒に居た人はエコバッグを使っていた。その人の地元で買い物をする時だけだったが、僕が何も聞かないのに、色々と説明してくれた覚えがある。ただその時僕はそういう事に何の興味も持っていなかったので、適当に聞き流していた気がする。時は流れるものである。
 今後、我が家のゴミから減らすべき物。総菜等をパッケージしているプラスティックのケース。そして空き缶や酒瓶。後者は消費する量を抑えるしか手はないが。

生の根幹としての食

 環境goo の中で見つけた記事
 杉本雄・栄子さんのご夫婦は、半農半漁の鴛鴦夫婦である。上品な味わいの無添加いりこそれに三十年近くも無農薬の夏みかんやたまねぎを作っている。故郷に舞い戻った息子さんたちと、かなりの量を生産する。出会ったその日、五トン舟で漁から舞い戻った栄子さんが、水俣病で十年も寝たきりだったとは、とても信じられなかった。輝くような生命力に満ちていた。なぜ、という愚かな疑問に、彼女は答えた。
「食べもので病気になったとですから、食べもので直すとです。」
 最後の言葉を読んで、とても嬉しくなった。こんなにも希望を感じさせる言葉は滅多にお目にかかれない。短絡的な考えかも知れないが、正しい食を保っていれば、人は健常で居られるのだ。老いを止める事は出来ないのだろうが、少なくとも、十分な人生を享受する事が出来るのだ。もしかすると(飛躍した妄想だけれど)精神的疾患も食で治す事が出来るのではないだろうか、などという事まで考えてしまう。

追記2006.06.01 : 上記の記事を書いた島村菜津というライターが書いた「スローフードな日本!」という本の中にも、この夫婦や水俣の話が出てくる。その中で気になったのは「地元学」という言葉。水俣市の市役所員、吉本哲郎氏が提唱する水俣市を再生をさせる方法論(本人曰く哲学)である。自らの生きる土地(場所)を知り、その中で可能な環境サイクルを構築する事。「ないものねだりから、あるもの探し」へ。「地元」という感覚で言うと、生まれ育った故郷が私にはそれに当たる。しかしながら、生憎と故郷を離れて10年を遙かに超える。自分の立ち位置、つまり生活している場所は此処である。私が知るべきはこの土地である。「あるもの探し」という考えが、自分が写真やなんかでやっている事に近いので、何となく嬉しくなった。くるりの「 World's end super nova 」という曲の中にこういう歌詞が在る。「同じ望みなら ここで叶えよう」いつの頃からか、この考えが染みついてしまった。

春花爛漫

 春というのは、寒かったり暖かったりを交互に繰り返しながらも、確実に穏やかさを誂えていく。時折、つむじ風が吹くのも、もしかしたら膿んだ空気を一掃する為のものであるのかも知れない。寒暖の差は人を不安定にするかも知れないが、安定の無さは可能性の存在を現しているものと考えたい。季節が奥まって、陽の光が隅々に行き渡るに連れ、人々の顔が綻び、笑顔に近づいていくのが、僕はとても嬉しいのである。

石との呼吸法

 晴れた休日の午後。僕は友人二人に誘われ、北青山に在る貸しスペースで飲む事になった。その場所は個室で区切られている訳ではなく、扉の無い続き部屋を、スペース単位で貸し出すシステムだ。スタッフに案内され、我々は10mほどの大きな一枚岩の低いテーブルの一角に陣取った。既に二組のグループが同じテーブルを使用して寛いでいた。この店は飲食は提供しない。飲食は客が自分で持ち込む。無論食器も無いから、それも客が持参する。店側が提供するのは空間だけである。
 この店舗は外装は勿論の事、内装も石に覆われている。前述の低いテーブルを始め、床・壁・天井に至るまで天然石だ。磨きなどの仕上は施してはあるが、着色はしていない。ただ、どちらかと言えば温かみのある色や質感の石を選んではいるようだ。窓は一つも無い。空間が縦にも横にも広いので閉塞感は少ないが、何とも不思議な気分になる。室内は天井に埋め込まれた照明に照らされ、結構明るい。美術館で使われているような質感の光だ。音楽は流れておらず、室内に反響する客の話し声や笑い声が聞こえてくるのみ。

 我々は、持ち込んだ韓国料理のデリを平らげながらビールをしこたまに飲んでいた。何を話していたのかさっぱり思い出せないが、適当な話をしながら適当な時間を過ごしていた。他の客を見ていても、だいたい同じように過ごしていたように思う。因みに此処には椅子は無いので、みな石の床に直に座るか、座布団ようなモノを持ち込んでそれに胡座をかいて座っていた。

 僕は次第にその場に飽きてきて、話し込んでいる他の二人を残して店の外に出た。

 店は公園に隣接していたので、僕は其処へ足を踏み入れた。舗道というようなモノがなく、雑木林と僅かな丘陵が在るだけの公園。人気も殆ど無い。僕にとってはその方が好都合で、気分良く散策に没頭出来た。すると、公園の端にコンクリート打ちっ放しの低い建物が現れた。人気はないが、中央に玄関らしきガラスの両扉と、左側にこれもガラスの片扉があった。玄関の奥は薄暗く廊下が続いているだけで何も無さそうだったが、左側の扉の奥には太陽光に近い色の照明に照らされた、棺くらいの大きさの石で出来た箱が何十も並んでいた。恐る恐る僕は中に入ってみた。
 四方の壁は白く、突き当たりにはオレンジ色のフィルムが貼られたガラスのパーテーションが立ち、向こう側へ廊下が続いているようだった。人の気配は無い。外からも見えた石の棺は、上面を分厚い擦りガラスでシールドしてあった。朧気に人間の顔の輪郭が見える。隅の方に僅かに結露しているのを見る限り、中に居る人間は呼吸をしているようだ。その時、表で人の気配がしたので、僕は慌てて外に出た。

 ★

 実はこの話、僕が先々週の土曜日の朝見た夢である。夢など滅多に見ないし、細部が妙にリアルで不思議な映像だったので、今になっても未だ覚えている。暫く前に読んだ小川洋子の「六角形の小部屋」という短編を思い出した。その小説の中では、公園の中に在る今は使われていない社宅の一室に設置された、木製の六角形の小部屋に、自らが望み小部屋を探し当てた客達が僅かな賃金を払って、一人だけ小部屋に入り語って帰って行くという話だった。僕が夢の中で見た石製の棺に横たわる人々に、小部屋で語る人々と同じような印象を持った。語るのとは違い、封印された空間の中で眠り、呼吸するだけではあるが。昔、友人が屋久島に渡り、屋久杉の原生林に分け入った時の話を聞いた事がある。五人がかりでないと腕を回せない程に太い杉の幹に抱き付いていると、とても心が落ち着くのだそうだ。いつまでもそうしていたいとさえ思ったらしい。もしかしたら、石にも同じような力というか作用があるのではないだろうか。あくまで想像に過ぎないが。

 この夢には少しだけ続きがある。外へ出ると作業服を着込んだ数人の男女が、建物の前に無造作に積み上げられた様々な石を運んだり、石鑿を使って加工したりしていた。その光景をぼーっと眺めていた僕に、一人の青年がチラシを手渡した。綺麗にカラープリントされたそのチラシには「石との親和性を高める研究会」とタイトルが記してあった。

SARSウイルスは空気感染する

 さて、こちらで纏められた記事に拠れば、SARSウィルスは空気感染するとの事。病気の怖さもさる事ながら、マスク無しでは生活出来なくなるという煩わしさも付いてきます。
 小学生の時に読んだ本の中に、未来の予想図としてのイラストが載っていて、未来では大気汚染がとうとう来るところまで来てしまって、ついには酸素マスクを被らないと生活出来なくなる。という非常に暗い気分になる絵でした。その頃には酸素は最も必要とされる物質となり、高価で売買されています。そして酸素を買う事が出来ない人は道端で酸素乞いをするのです。飼い犬と共に。コミカルな絵柄ではありましたが、小学生を暗澹たる気分に落ち込ませるには十分でした。
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