DOG ON THE BEACH
本郷館
- 2007-03-18 Sunday
- Category - Art
- Tag - architecture / japanese
未見であった本郷館が4月に取り壊されると聞いたので行ってきた。現地に着いた時には、僕と同じように取り壊しの話を聞きつけたのであろう人が数人既に写真を撮っていた。実際に目の前にするとその建物の巨大さに圧倒された。板張りの外壁がそびえ立つ様は城を思わせる。狭い路地を歩いていたら突然巨大な木造建築物が目の前に現れるというアプローチにも異様さを感じるし、その事に感動さえ覚える。まるで時空をねじ曲げられたようだ。上記の Wikipedia もそうだが、彼方此方で見かける本郷館の姿は正面玄関側から撮影した写真ばかりで、僕もその印象しか持っていなかった。しかしこの建物の周囲を歩き回ってみるとその様相は様々で、見ていて飽きない。たくさん写真を撮ったはずなのだが、どうやらフィルム・カメラでばかり撮っていたらしく、デジタル・カメラで撮ったのはほんの数枚だった。フィルム・カメラのレンズは50mm、デジタル・カメラのレンズは28mm。近づいて撮るには28mmでも画角が全然足りなかった。せめて21mmは要るなあ。
余談だが、本郷館を紹介している頁では何処も本郷6丁目という事までしか記載していない。恐らく住人へ配慮であると思う。つまり無遠慮に見物に来たり写真を撮るなという事だろうな。入口には関係者以外の立ち入りを禁じる注意書きがあるし、その日の撮影者が多かったせいか、窓や玄関から外の様子を伺う住人の姿が見受けられた。まあ、迷惑には違いない。
夜の砂浜、横たわる夕顔。
母から着電。自分の事は殆ど話さずに、母の周辺の話をあれこれと聞く。先日伴侶を亡くした祖母は、変わらずに同じ家に住み続けているという。子供らが「独りで大丈夫ね?」と尋ねても「大丈夫。」と答え、施設に入る事や、子供らの内の何処かに同居する事を静かに拒んでいるらしい。「自分の家ば離れたくないっちゃろね。」と僕。母もそれに同意する。
それでも母は、齢90を越えた祖母の皺だらけの身体を見て、その老いの姿に少なくない衝撃を受け、祖母の行く末をひどく心配している。頃合いを見計らって話してみるという。
先月、末の弟が祖父の墓参りの為に一時帰国した。祖母はとても喜んでいたようだ。僕は未だ祖父の墓に参っていない。それもそうだが、祖母の方が気に掛かる。長い年月連れ添った祖父を亡くした祖母は、今どんな気持ちでその家で過ごしているのだろうか。子供らは皆家を出、その内の何人かは病を患っている。日没を眺めるように、静かに自分の生を見つめているのだろうか。暫くの間、祖母の気持ちになって過ごしてみよう、などという馬鹿げた事を思いつく。そんな事が僕に解る訳がないのだ。
緩やかな雨垂れの音の向こうから、微かに虫の音が聴こえる。
それでも母は、齢90を越えた祖母の皺だらけの身体を見て、その老いの姿に少なくない衝撃を受け、祖母の行く末をひどく心配している。頃合いを見計らって話してみるという。
先月、末の弟が祖父の墓参りの為に一時帰国した。祖母はとても喜んでいたようだ。僕は未だ祖父の墓に参っていない。それもそうだが、祖母の方が気に掛かる。長い年月連れ添った祖父を亡くした祖母は、今どんな気持ちでその家で過ごしているのだろうか。子供らは皆家を出、その内の何人かは病を患っている。日没を眺めるように、静かに自分の生を見つめているのだろうか。暫くの間、祖母の気持ちになって過ごしてみよう、などという馬鹿げた事を思いつく。そんな事が僕に解る訳がないのだ。
緩やかな雨垂れの音の向こうから、微かに虫の音が聴こえる。
痩身の老猿
今朝、弟から携帯へ電話があり、母方の祖父が亡くなった事を知る。今現在、仕事に忙殺されいて、とても故郷へ帰る余裕がない。じいちゃん、ごめん。
思えば、もう数年来祖父の姿を見てない。最後に会った時には、まだまだ元気であった。彼の事を思い出す時は、いつも子供の頃の記憶が蘇る。大の酒好きである祖父は、一風呂浴びた後には必ず晩酌をする。電気式のポットのような器具で、いつも燗をつけていた。勿論、隣に座ってる僕にもお猪口が回ってきて、一口は付き合わされた。祖父は、酒を呑んでいる時はいつも赤い顔をしていて、楽しそうだった。
今、彼の事を必死に思い出そうとしているのだが、何かを話したという記憶がない。祖母や母、その兄弟達と話してるのを隣で聞いていたという事しか覚えていない。内容は全然覚えていなくて、祖父のしゃがれた声しか思い出せない。たぶん、孫の遊び相手になるような人ではなかったのだろう。寡黙という感じではなかったし。本当に、酒を呑んでいる姿しか思い浮かばない。
年々、遠くに在る人を想うという事が出来なくなっている。長く生きていると、誰でもそうなっていくものなのだろうか。寂しいような気もするし、それはそれで良いような気もする。でも今夜は、色々な人達の事を思い出しながら眠る事にしようと思う。
思えば、もう数年来祖父の姿を見てない。最後に会った時には、まだまだ元気であった。彼の事を思い出す時は、いつも子供の頃の記憶が蘇る。大の酒好きである祖父は、一風呂浴びた後には必ず晩酌をする。電気式のポットのような器具で、いつも燗をつけていた。勿論、隣に座ってる僕にもお猪口が回ってきて、一口は付き合わされた。祖父は、酒を呑んでいる時はいつも赤い顔をしていて、楽しそうだった。
今、彼の事を必死に思い出そうとしているのだが、何かを話したという記憶がない。祖母や母、その兄弟達と話してるのを隣で聞いていたという事しか覚えていない。内容は全然覚えていなくて、祖父のしゃがれた声しか思い出せない。たぶん、孫の遊び相手になるような人ではなかったのだろう。寡黙という感じではなかったし。本当に、酒を呑んでいる姿しか思い浮かばない。
年々、遠くに在る人を想うという事が出来なくなっている。長く生きていると、誰でもそうなっていくものなのだろうか。寂しいような気もするし、それはそれで良いような気もする。でも今夜は、色々な人達の事を思い出しながら眠る事にしようと思う。
武相荘
- 2006-01-30 月曜日
- Category - Hobby
- Tag - japanese / tokyo / architecture
旧白洲邸である武相荘に行って来た。新宿から小田急線の急行に乗り新百合ヶ丘へ。それから鈍行に乗り換え鶴川へ。駅を降りたら徒歩15分ほどで着く。東京の郊外の街らしく、周りは新興住宅地である。勿論都心に比べれば緑が多く、雑木林なども存在する。予め見ていたのは、白洲夫妻が戦中に移り住んだ頃の写真で、その写真では、本当に田舎の農家然とした佇まいであったのだが、周囲の家々を見ていると、とてもそんな家屋が存在しているようには見えない。駅からの道をとぼとぼと歩いて、横道に逸れるとひっそりとした感じで正門(少し大袈裟な表現だが)が見える。
裏から見た正門。個人の邸宅でこんなにも立派な屋根のある正門など殆ど見る事はないが、それにしても門というのは、何かしら気分に影響するものである。大きければ大きい程、身を引き締めようとか、そんな気持ちを通る人に強いるものがあるように思う。日差しなり視界なりから、一瞬遮られるからだろうか。
主な住居の外観。前述したように、戦中の写真を見ていたせいか、漆喰塗りの壁は意外であった。石の踏み石というのは、歩く事を楽しむ為に作られたのではないかと思った。
玄関付近に置いてあった瓶の中の金魚。雪景色の中で見る金魚というのは初めてだ。さぞかし寒いだろうとは思うのだが、淡水の中を泳ぐ金魚にはそんな事は関係ないのであろうか。ゆらゆらと気持ち良さそうに泳いでいた。
今は第一ギャラリーとなっている入口(玄関)。正子の死後、ギャラリーとなってから誂えた物だろうけど、こんな風に花に迎えられると、きちんともてなしを受けている気分になる。余談だが(ここに書くのもナンだが)普段は誰を呼ぶにしても、敬称を略して書いても一向に気にならないのであるが、正子さん、と書かなくてはいけないような気がしてならない。何故なのだろう。
納戸を利用した第二ギャラリーの入口へ続く階段。生活の場にこんな造作が在るというだけでも素晴らしい。彼方此方に貼ってある説明書きを読んでいると、移り住んでから、長い年月をかけて、少しづつ改築・改良をして来たらしいのだが、生活の場を作るというのは、きっとそういう風に行われているのだろうなと思う。
庭と呼ぶには大きすぎる空間へと続く踏み石。こんな季節であるので、目立った植物は見当たらなかったが、雪に埋もれながらも確かに息づく地上の蠢きを期待させるような造り。
室内は撮影が禁止されていたので撮れなかったが、縁側にしろ、それと平行する廊下にしろ、居間にしろ、何処がどうとは言い切れないが、非常に居心地の良い空間であった。私が得に気に入ったのは白州正子が使っていた書斎。元々は隠居部屋を改造した作りらしくて、とても狭いのだが、書斎に続く全室には本が壁際にぎっしりと並べられ、その奥に執筆の為の部屋がある。薄暗いのだが、机の前に窓が在り、その窓を開けると隣の家の石垣が見える。そこには雑草が蔓延っている。恐らくそこから見える光景は、植物の四季の移ろいや、雨が降った降ったで、その静かなるスペクタルに耳を傾けるには、絶好の環境である。
3月になれば、今度は春の展示を始める。それはたぶんギャラリーでの展示内容が変わるだけなのだろうが、四季それぞれのこの邸宅の佇まいを見てみたい。
武相荘
裏から見た正門。個人の邸宅でこんなにも立派な屋根のある正門など殆ど見る事はないが、それにしても門というのは、何かしら気分に影響するものである。大きければ大きい程、身を引き締めようとか、そんな気持ちを通る人に強いるものがあるように思う。日差しなり視界なりから、一瞬遮られるからだろうか。
主な住居の外観。前述したように、戦中の写真を見ていたせいか、漆喰塗りの壁は意外であった。石の踏み石というのは、歩く事を楽しむ為に作られたのではないかと思った。
玄関付近に置いてあった瓶の中の金魚。雪景色の中で見る金魚というのは初めてだ。さぞかし寒いだろうとは思うのだが、淡水の中を泳ぐ金魚にはそんな事は関係ないのであろうか。ゆらゆらと気持ち良さそうに泳いでいた。
今は第一ギャラリーとなっている入口(玄関)。正子の死後、ギャラリーとなってから誂えた物だろうけど、こんな風に花に迎えられると、きちんともてなしを受けている気分になる。余談だが(ここに書くのもナンだが)普段は誰を呼ぶにしても、敬称を略して書いても一向に気にならないのであるが、正子さん、と書かなくてはいけないような気がしてならない。何故なのだろう。
納戸を利用した第二ギャラリーの入口へ続く階段。生活の場にこんな造作が在るというだけでも素晴らしい。彼方此方に貼ってある説明書きを読んでいると、移り住んでから、長い年月をかけて、少しづつ改築・改良をして来たらしいのだが、生活の場を作るというのは、きっとそういう風に行われているのだろうなと思う。
庭と呼ぶには大きすぎる空間へと続く踏み石。こんな季節であるので、目立った植物は見当たらなかったが、雪に埋もれながらも確かに息づく地上の蠢きを期待させるような造り。室内は撮影が禁止されていたので撮れなかったが、縁側にしろ、それと平行する廊下にしろ、居間にしろ、何処がどうとは言い切れないが、非常に居心地の良い空間であった。私が得に気に入ったのは白州正子が使っていた書斎。元々は隠居部屋を改造した作りらしくて、とても狭いのだが、書斎に続く全室には本が壁際にぎっしりと並べられ、その奥に執筆の為の部屋がある。薄暗いのだが、机の前に窓が在り、その窓を開けると隣の家の石垣が見える。そこには雑草が蔓延っている。恐らくそこから見える光景は、植物の四季の移ろいや、雨が降った降ったで、その静かなるスペクタルに耳を傾けるには、絶好の環境である。
3月になれば、今度は春の展示を始める。それはたぶんギャラリーでの展示内容が変わるだけなのだろうが、四季それぞれのこの邸宅の佇まいを見てみたい。
武相荘
都築 響一
- 2005-01-06 木曜日
- Category - Art
- Tag - japanese / photograph / book / architecture
都築響一とくれば「 TOKYO STYLE 」と来てしまう。さすがに12000円も出してハードカヴァーを買う気にはなれなかったが、文庫本を買って、それこそ寝るまでずっと眺めている事もあった。ベッドの中でパラパラとめくるには、文庫本は丁度良いのだ。しかしこの記事に書かれているように、クラブ・ゴールドのプロデュースまでやっていたとは知らなかった。この雑誌、ちょっと読んでみたいなあ。
長いお別れ
享年95歳。死因は腸梗塞。
父の兄弟が11人居るのは知っていたが、孫(つまり僕の従兄弟)が28人も居る事を初めて知る。下は22歳から上は46歳。その内で僕が存在を知っていたのは半分くらい。何故そんな寂しい事になっているのかというと、1971年に既に他界した祖父の遺産相続の件で父の兄弟が揉めていたからである。その話は今回もあった。勿論、孫の立場で僕がその話し合いに参加する訳はないので、詳しくは知らないが、最後には談笑していたところをみると、ある程度の妥協は成立したのだろうか。そうであって欲しい。
親族の人数が多すぎて、別れの膳は3交代で食べた。その周りを曾孫が嬌声をあげながら走り回る。
祖母の安眠する棺桶に、親族が皆で花を添える。曾孫は孫に抱き上げられて花を添える。叔母や従姉妹達の泣き腫らした顔をずっと見ていた。百合の花を祖母の髪の毛へ差した。美しい顔をしていた。祖母の冷たい頬に触れた時初めて、もうこの人は目を覚ます事はないのだな、と思えた。
葬儀は浄土真宗にて行われた。本家は宗教を持っていない。元々本家の家屋が在った場所の目の前に、浄土真宗の寺が在ったからに過ぎない。祖父の時からの流れだ。
火葬場で、祖母の棺桶が窯に送られ、分厚い鉄の扉が閉まる時が一番辛かった。
採骨室で、皆が交代で祖母の遺骨を、箸で渡して骨壺へ入れて行く。長い間不義理をしていた罪悪感があって、率先してその中へ入って行く気になれずに、入口の扉で自分が最後になるまで待っていた。しかしそれを従姉妹に見つけられ、先に入るように即される。
採骨を終え、骨壺が運び出されても、父と数人の従兄弟は祖母の遺骨をじっと見つめていた。そして彼等が立ち去っても尚、僕は扉の前を離れる事が出来なかった。祖母が完全に視界から消えてしまうまで見ていたかったからである。後悔を伴わなければ、祖母を思う事が出来ないとは、その文字通りに、情けない。
通夜の後、孫数人で寝ずの番をしている時、誰が言い出したのか、暇潰しに家系図を手書きで作り始めた。孫が不確かな記憶で作っていたので曖昧な部分が多かったが、葬儀の前後で親族みんなに確認し、加筆して貰ってかなり正確な家系図が描き上がった。叔父や叔母達は非常に喜んでいた。皆は口々に「これが最後の集まり」と言っていたが、たぶん、本当はバラバラにはなりたくないのかも知れない。若い従兄弟達がどう思っているのかは判らないが、僕はこれをデータ化し、清書して配ろうと思っている。何れの日にか、何かの気休めくらいにはなるだろう。
父の兄弟が11人居るのは知っていたが、孫(つまり僕の従兄弟)が28人も居る事を初めて知る。下は22歳から上は46歳。その内で僕が存在を知っていたのは半分くらい。何故そんな寂しい事になっているのかというと、1971年に既に他界した祖父の遺産相続の件で父の兄弟が揉めていたからである。その話は今回もあった。勿論、孫の立場で僕がその話し合いに参加する訳はないので、詳しくは知らないが、最後には談笑していたところをみると、ある程度の妥協は成立したのだろうか。そうであって欲しい。
親族の人数が多すぎて、別れの膳は3交代で食べた。その周りを曾孫が嬌声をあげながら走り回る。
祖母の安眠する棺桶に、親族が皆で花を添える。曾孫は孫に抱き上げられて花を添える。叔母や従姉妹達の泣き腫らした顔をずっと見ていた。百合の花を祖母の髪の毛へ差した。美しい顔をしていた。祖母の冷たい頬に触れた時初めて、もうこの人は目を覚ます事はないのだな、と思えた。
葬儀は浄土真宗にて行われた。本家は宗教を持っていない。元々本家の家屋が在った場所の目の前に、浄土真宗の寺が在ったからに過ぎない。祖父の時からの流れだ。
火葬場で、祖母の棺桶が窯に送られ、分厚い鉄の扉が閉まる時が一番辛かった。
採骨室で、皆が交代で祖母の遺骨を、箸で渡して骨壺へ入れて行く。長い間不義理をしていた罪悪感があって、率先してその中へ入って行く気になれずに、入口の扉で自分が最後になるまで待っていた。しかしそれを従姉妹に見つけられ、先に入るように即される。
採骨を終え、骨壺が運び出されても、父と数人の従兄弟は祖母の遺骨をじっと見つめていた。そして彼等が立ち去っても尚、僕は扉の前を離れる事が出来なかった。祖母が完全に視界から消えてしまうまで見ていたかったからである。後悔を伴わなければ、祖母を思う事が出来ないとは、その文字通りに、情けない。
通夜の後、孫数人で寝ずの番をしている時、誰が言い出したのか、暇潰しに家系図を手書きで作り始めた。孫が不確かな記憶で作っていたので曖昧な部分が多かったが、葬儀の前後で親族みんなに確認し、加筆して貰ってかなり正確な家系図が描き上がった。叔父や叔母達は非常に喜んでいた。皆は口々に「これが最後の集まり」と言っていたが、たぶん、本当はバラバラにはなりたくないのかも知れない。若い従兄弟達がどう思っているのかは判らないが、僕はこれをデータ化し、清書して配ろうと思っている。何れの日にか、何かの気休めくらいにはなるだろう。
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