DOG ON THE BEACH
死んだ食物
- 2008-05-03 Saturday
- Category - Days
- Tag - food / environment / health
ここ半年くらいの僕の平日の食生活。朝起きて直ぐには何も食べられないので、仕事場の近くのコンビニでおにぎりを二個買って食べている。昼は幾つかの事情に因り、またしてもコンビニで何か買って食べるのが週の半分くらい。半分固形化した油が僕は駄目なので、出来るだけ油を使ってなさそうな物を選んでいるが、あまり食欲はないので少量に留める。そして夜は帰りも遅いし何もしたくないのでスーパーで安売りされている総菜を肴に酒を呑んでいる。
こう書くと酷い食生活を送っているように読めるが、独身者の慣習としては割合一般的な気もする。一応栄養のバランスを考えてはいるし。僕は毎日違う物を食べたいという欲求は余りないので、毎日同じものを食べる事も苦痛ではない。そういった感じでこんな食生活も何の不都合もなく送れてしまうのだけれど、時々ふと考える事がある。何だか死んだ食物ばかり食べているような気がする、と。何というか、僕が毎日食べている食物には勢いというか豊潤さが全く無いのである。味がどうのこうの言う前の話である。単に調理してから時間が経っているという理由ではなく、何かがすっかり抜け落ちている状態の物しか口にしていないように思える。
僕の体調の程度に因るものではないかとも考えてみるのだが、そんなのは毎日変わるし、継続して感じるという事は食物側に何かしらの問題があるのではないかと考え始めた訳である。簡単に言うなら、腹が減ったから食べているのに、身体が喜んでいない気がするのだ。そうすると食べ続ける気は直ぐさま失せるし、その後はただ流し込むだけである。
一体何が原因なのだろうか。食べる事を楽しめないというのは非常に由由しき問題であると思う。加工品ばかり食べているから防腐剤のせいかとも思うし、吸ってる空気や水の問題であるようにも思える。
例えば、5年か6年くらい前に箱根に旅行した時の事。泊まった旅館の夕食に出された山菜尽くしの数々の料理。味付けもシンプルというか地味であったのだが、僕は御飯を四膳もお代わりしながらそれらの料理を食べ続けた。普段の僕の食の細さを知っていた同行した人も、それに僕自身も驚くほどの食欲で出された物以上の料理を平らげた。美味しかったというのも勿論だが、それ以上に兎に角嬉しかったのだ。身体がとても喜んでいた。
僕が普段食べている食物には、箱根で食べた物のようなエネルギーのようなものが全くない。
ここ数日僕が考えている事は、其処で生産若しくは採れた食材を、其処で調理し、其処で食べさせる食物を食べたいという事。売る為ではなく、生きる為に用意された物を食べたい。
こう書くと酷い食生活を送っているように読めるが、独身者の慣習としては割合一般的な気もする。一応栄養のバランスを考えてはいるし。僕は毎日違う物を食べたいという欲求は余りないので、毎日同じものを食べる事も苦痛ではない。そういった感じでこんな食生活も何の不都合もなく送れてしまうのだけれど、時々ふと考える事がある。何だか死んだ食物ばかり食べているような気がする、と。何というか、僕が毎日食べている食物には勢いというか豊潤さが全く無いのである。味がどうのこうの言う前の話である。単に調理してから時間が経っているという理由ではなく、何かがすっかり抜け落ちている状態の物しか口にしていないように思える。
僕の体調の程度に因るものではないかとも考えてみるのだが、そんなのは毎日変わるし、継続して感じるという事は食物側に何かしらの問題があるのではないかと考え始めた訳である。簡単に言うなら、腹が減ったから食べているのに、身体が喜んでいない気がするのだ。そうすると食べ続ける気は直ぐさま失せるし、その後はただ流し込むだけである。
一体何が原因なのだろうか。食べる事を楽しめないというのは非常に由由しき問題であると思う。加工品ばかり食べているから防腐剤のせいかとも思うし、吸ってる空気や水の問題であるようにも思える。
例えば、5年か6年くらい前に箱根に旅行した時の事。泊まった旅館の夕食に出された山菜尽くしの数々の料理。味付けもシンプルというか地味であったのだが、僕は御飯を四膳もお代わりしながらそれらの料理を食べ続けた。普段の僕の食の細さを知っていた同行した人も、それに僕自身も驚くほどの食欲で出された物以上の料理を平らげた。美味しかったというのも勿論だが、それ以上に兎に角嬉しかったのだ。身体がとても喜んでいた。
僕が普段食べている食物には、箱根で食べた物のようなエネルギーのようなものが全くない。
ここ数日僕が考えている事は、其処で生産若しくは採れた食材を、其処で調理し、其処で食べさせる食物を食べたいという事。売る為ではなく、生きる為に用意された物を食べたい。
弱きに端を発す
- 2007-10-06 土曜日
- Category - People
- Tag - health / philosophy
ほぼ日刊イトイ新聞で、赤瀬川源平・南伸坊・糸井重里による「黄昏」という連載が始まっていて、その中で糸井重里がこんな事を言っている。こんな話を他人の口から聞いた事がなかったので少し書きたくなった。
人間が弱るのは勿論老衰だけではない。疾患や外的損傷。例えば風邪をこじらせ長い期間臥せっている時や、起き上がる事すらままならないほどの怪我を負うとか、そんな時には健常であった頃の自分が奇跡であったかのように思える。地上へと降りそそぐ暖かな陽の光を眺めては恨めしく思ったり、往来を元気に歩く人々を眺めては別世界の一幕を見つめているような気がしたりする。自分に与えられたものはと言えば、四角く区切られた窓から差し込む陽射しと、窓の隙間から洩れ聞こえてくる往来を歩く人々の作り出す物音くらい。しかもそれらは刻一刻と移り行き、やがては消え去ってしまう。何事も有限である事を切実に感じるのはこういう時である。引き留めたくても自分にはそれに対応できる体力が無い。動けないのだからどうしようもない。
付け加えるならば、この事は何も肉体的な弱者に限った話ではない。人間が弱っていくのには多種多様な理由が在ると思う。
さて、そういう弱った状態の人間にとって外界からの影響は甚大で、健常ならば些細に思える事でも物凄く堪えるものである。光も音も匂いも微量なものしか受け容れられないし、色やその他の変化も緩やかな推移を成すものしか受け容れられない。別な見方をすれば、些細な力や変化の中にとても新鮮な光を見つける事が出来るのだ。それ故に、弱き者が見つめるその世界観は精緻を極める。この世に存在するあらゆる意味での芸術は、恐らくそういう人々が創り続けてきたのではないだろうかと思っている。
たぶん、弱い生き物ほど、感覚が研ぎ澄まされているというか、「気配」を感じやすいんだと思うんです。というのは、その生き物が弱い場合、ちょっとした変化が命取りになるおそれがあるから。圧倒的な弱者である子供は当然の事だと置いておくとして、年寄り同士の会話がえてして天候の変化に関する話題に終始してしまうというのは、まさにこういう事だと思うのだ。傍から聞いているとどうでも良い事を話しているように聞こえても、彼らに取っては重要な事柄なのだろう。僕が年寄りになるには未だ時間が在るが、今現在から予想するに十分に想像が出来る。
人間が弱るのは勿論老衰だけではない。疾患や外的損傷。例えば風邪をこじらせ長い期間臥せっている時や、起き上がる事すらままならないほどの怪我を負うとか、そんな時には健常であった頃の自分が奇跡であったかのように思える。地上へと降りそそぐ暖かな陽の光を眺めては恨めしく思ったり、往来を元気に歩く人々を眺めては別世界の一幕を見つめているような気がしたりする。自分に与えられたものはと言えば、四角く区切られた窓から差し込む陽射しと、窓の隙間から洩れ聞こえてくる往来を歩く人々の作り出す物音くらい。しかもそれらは刻一刻と移り行き、やがては消え去ってしまう。何事も有限である事を切実に感じるのはこういう時である。引き留めたくても自分にはそれに対応できる体力が無い。動けないのだからどうしようもない。
付け加えるならば、この事は何も肉体的な弱者に限った話ではない。人間が弱っていくのには多種多様な理由が在ると思う。
さて、そういう弱った状態の人間にとって外界からの影響は甚大で、健常ならば些細に思える事でも物凄く堪えるものである。光も音も匂いも微量なものしか受け容れられないし、色やその他の変化も緩やかな推移を成すものしか受け容れられない。別な見方をすれば、些細な力や変化の中にとても新鮮な光を見つける事が出来るのだ。それ故に、弱き者が見つめるその世界観は精緻を極める。この世に存在するあらゆる意味での芸術は、恐らくそういう人々が創り続けてきたのではないだろうかと思っている。
腐点
- 2007-05-09 水曜日
- Category - People
- Tag - environment / health
本日の東京は最高気温28.8℃を越え、真夏日とまではいかなくとも既に夏である。今この瞬間にも、エアコンの温度表示を観てみれば25℃である。Fishmans の「 Wether Report 」という曲中で「5月なのに25℃を越える日もあるさ」などと歌っているが、今日はそれ以上だ。
こんな日の終わりに部屋に戻ってみれば、いつもとは少々違う事に気付く。朝見た時にはあんなにも元気そうにしていた向日葵の切り花は、花瓶の水を半分以上も減らしてうな垂れているし、台所からは妙な匂いが漂ってくる。腐敗の兆候である。
この自然界には沸点や融点もあるのだから、腐点というのも在りそうな気がするのだが、どうなのだろう。一昨年だったであろうか、日中の最高気温が39℃を越えた日、町中を歩いているとこれまでに嗅いだ事のない腐敗臭が漂っていた。いや、何かが腐敗した匂いなのかどうかも判らない。兎に角得体の知れない匂いを僕の鼻腔を擽ったのである。その時に僕は思った。この世に存在する有機物には、それぞれ腐敗し始める腐点のようなものが在るのではないかと。
話は変わって、これは比喩でしかないのだが、人間にも腐点は在りそうだ。人それぞれが持つ己の欲求。似たような欲求でも人に拠って臨界点が違う。ここで言う臨界点とは、その値を超えると周囲の人間の存在が無に帰す事、社会性を無くす事である。時折、その臨界点が極端に低い人と出会う。傍目には面白いと思えなくもないが、実際に関わっていると迷惑なだけである。ただ、その人が全ての領域に於いてそうであるのではなく、部分的に(僕の主観では)腐っているだけなので、それ以後も相変わらず付き合っていく羽目になる。でもまあ、その領域が広ければ広い程疎ましく感じるのは事実なので、場合に拠っては離れざるをえないと判断する事も出てくるのである。
とまあ、偉そうに書いてみたが、そういう事に基準を作るのは難しいねえ。
こんな日の終わりに部屋に戻ってみれば、いつもとは少々違う事に気付く。朝見た時にはあんなにも元気そうにしていた向日葵の切り花は、花瓶の水を半分以上も減らしてうな垂れているし、台所からは妙な匂いが漂ってくる。腐敗の兆候である。
この自然界には沸点や融点もあるのだから、腐点というのも在りそうな気がするのだが、どうなのだろう。一昨年だったであろうか、日中の最高気温が39℃を越えた日、町中を歩いているとこれまでに嗅いだ事のない腐敗臭が漂っていた。いや、何かが腐敗した匂いなのかどうかも判らない。兎に角得体の知れない匂いを僕の鼻腔を擽ったのである。その時に僕は思った。この世に存在する有機物には、それぞれ腐敗し始める腐点のようなものが在るのではないかと。
話は変わって、これは比喩でしかないのだが、人間にも腐点は在りそうだ。人それぞれが持つ己の欲求。似たような欲求でも人に拠って臨界点が違う。ここで言う臨界点とは、その値を超えると周囲の人間の存在が無に帰す事、社会性を無くす事である。時折、その臨界点が極端に低い人と出会う。傍目には面白いと思えなくもないが、実際に関わっていると迷惑なだけである。ただ、その人が全ての領域に於いてそうであるのではなく、部分的に(僕の主観では)腐っているだけなので、それ以後も相変わらず付き合っていく羽目になる。でもまあ、その領域が広ければ広い程疎ましく感じるのは事実なので、場合に拠っては離れざるをえないと判断する事も出てくるのである。
とまあ、偉そうに書いてみたが、そういう事に基準を作るのは難しいねえ。
伸びやかに巡る季節
この二週間というもの、平日は治らない風邪を抗生物質で誤魔化しながらエンヤコラと働き、休日は仕事したり用事があって出かけなければならなかったりして養生する時間があまりないので、日曜の夕刻の頃には本当に倒れるように床に着く。床に着くとは言っても眠ってしまう訳ではなく、意地汚くだらだらと本を読んだりDVDを観たりしているのだが。
しかしこの身体の感じ、とても嫌な感じだ。以前にもこういうのに悩まされた。部屋でじっとしている分にはさほどの事はないのだけれど、外へ出かけてしまうと時間が経つにつれて体調が悪化し、終いには歩き続ける事すら出来なくなる。それで予定を急遽中止して帰宅してしまった事がもある。面倒だな、この身体。でも僕の身体といえばコレしかないので、どうにかして上手く付き合っていくしかないのである。当分の間は摂生された生活を送るしかない。
そんな私の個人的な事情と打って変われば、季節は十分に巡り、籠もった熱から解放された空は澄み渡っている。薄く千切れた細長い雲がぬーっと飛んで去る。一反木綿のように見えて楽しい。夜ともなれば涼しげな風が横町を走り抜ける。薬のせいでぼうっとした頭で、ぼんやりと月を眺めるのも悪くはない。
しかしこの身体の感じ、とても嫌な感じだ。以前にもこういうのに悩まされた。部屋でじっとしている分にはさほどの事はないのだけれど、外へ出かけてしまうと時間が経つにつれて体調が悪化し、終いには歩き続ける事すら出来なくなる。それで予定を急遽中止して帰宅してしまった事がもある。面倒だな、この身体。でも僕の身体といえばコレしかないので、どうにかして上手く付き合っていくしかないのである。当分の間は摂生された生活を送るしかない。
そんな私の個人的な事情と打って変われば、季節は十分に巡り、籠もった熱から解放された空は澄み渡っている。薄く千切れた細長い雲がぬーっと飛んで去る。一反木綿のように見えて楽しい。夜ともなれば涼しげな風が横町を走り抜ける。薬のせいでぼうっとした頭で、ぼんやりと月を眺めるのも悪くはない。
Candela / Vessel
- 2006-06-13 火曜日
- Category - Days
- Tag - environment / health / furniture / ecology
去年買って暫く使っていたのだが、充電に時間がかかるのと、何かしら作業的な事をする際には暗くて不便なので、久しく使っていなかったキャンデラをまた使い始めた。前述のように不便な時(夜にアイロンかける時とか本を読む時とか)もあるが、やはりこの灯りは落ち着く。この灯りというか、この光量が。蛍光灯の光なんて大嫌いである。僕の部屋は一番明るい光源でも裸電球だ。100Wは無駄に明るい。60Wも少し気になる。40Wで十分な気がする。でも40Wの電球はなかなか売っていない。それ以外はクリップ式のハロゲン球だ。しかしこれは熱を持ち過ぎてちと危ない。一度床を焦がした事あるし。蝋燭の灯りも好きなのだが、やはりこれも(特に酒を呑んでいる時には)危ない。そう考えると、この照明器具は絶妙なのである。

生の根幹としての食
環境goo の中で見つけた記事。
追記2006.06.01 : 上記の記事を書いた島村菜津というライターが書いた「スローフードな日本!」という本の中にも、この夫婦や水俣の話が出てくる。その中で気になったのは「地元学」という言葉。水俣市の市役所員、吉本哲郎氏が提唱する水俣市を再生をさせる方法論(本人曰く哲学)である。自らの生きる土地(場所)を知り、その中で可能な環境サイクルを構築する事。「ないものねだりから、あるもの探し」へ。「地元」という感覚で言うと、生まれ育った故郷が私にはそれに当たる。しかしながら、生憎と故郷を離れて10年を遙かに超える。自分の立ち位置、つまり生活している場所は此処である。私が知るべきはこの土地である。「あるもの探し」という考えが、自分が写真やなんかでやっている事に近いので、何となく嬉しくなった。くるりの「 World's end super nova 」という曲の中にこういう歌詞が在る。「同じ望みなら ここで叶えよう」いつの頃からか、この考えが染みついてしまった。
杉本雄・栄子さんのご夫婦は、半農半漁の鴛鴦夫婦である。上品な味わいの無添加いりこそれに三十年近くも無農薬の夏みかんやたまねぎを作っている。故郷に舞い戻った息子さんたちと、かなりの量を生産する。出会ったその日、五トン舟で漁から舞い戻った栄子さんが、水俣病で十年も寝たきりだったとは、とても信じられなかった。輝くような生命力に満ちていた。なぜ、という愚かな疑問に、彼女は答えた。最後の言葉を読んで、とても嬉しくなった。こんなにも希望を感じさせる言葉は滅多にお目にかかれない。短絡的な考えかも知れないが、正しい食を保っていれば、人は健常で居られるのだ。老いを止める事は出来ないのだろうが、少なくとも、十分な人生を享受する事が出来るのだ。もしかすると(飛躍した妄想だけれど)精神的疾患も食で治す事が出来るのではないだろうか、などという事まで考えてしまう。
「食べもので病気になったとですから、食べもので直すとです。」
追記2006.06.01 : 上記の記事を書いた島村菜津というライターが書いた「スローフードな日本!」という本の中にも、この夫婦や水俣の話が出てくる。その中で気になったのは「地元学」という言葉。水俣市の市役所員、吉本哲郎氏が提唱する水俣市を再生をさせる方法論(本人曰く哲学)である。自らの生きる土地(場所)を知り、その中で可能な環境サイクルを構築する事。「ないものねだりから、あるもの探し」へ。「地元」という感覚で言うと、生まれ育った故郷が私にはそれに当たる。しかしながら、生憎と故郷を離れて10年を遙かに超える。自分の立ち位置、つまり生活している場所は此処である。私が知るべきはこの土地である。「あるもの探し」という考えが、自分が写真やなんかでやっている事に近いので、何となく嬉しくなった。くるりの「 World's end super nova 」という曲の中にこういう歌詞が在る。「同じ望みなら ここで叶えよう」いつの頃からか、この考えが染みついてしまった。
心のバランスを崩してしまった時
- 2006-02-27 月曜日
- Category - People
- Tag - philosophy / psychology / health
取り敢えず自分の為に出来る幾つかの事柄。
太陽の光を浴びる事と水に触れる事と身体を動かす事は、凝り固まった身体を解し、自分の内部に注視されていた意識を僅かでも外に向ける事が出来る。
水に触れるのは、海や川で身体を水に浸らせても良いし、それが出来る環境でないのなら、湯船に浸かったりシャワーを浴びるのでも良い。言ってしまえば、雨に打たれるのでも良い。
太陽の光を浴びる事と身体を動かす事は、身体を温める事にも繋がる。血流が鈍れば身体冷えていき、意識は沈滞するように思われる。食べる事や眠る事も、同じような事が言えるかも知れない。
これらの事をする前にやる事があった。但しこれは、事がとても深刻である場合。
- 太陽の光を浴びる。
- 水に触れる。
- 身体を暖める。
- 身体を動かす。
- 食べる。
- 眠る。
太陽の光を浴びる事と水に触れる事と身体を動かす事は、凝り固まった身体を解し、自分の内部に注視されていた意識を僅かでも外に向ける事が出来る。
水に触れるのは、海や川で身体を水に浸らせても良いし、それが出来る環境でないのなら、湯船に浸かったりシャワーを浴びるのでも良い。言ってしまえば、雨に打たれるのでも良い。
太陽の光を浴びる事と身体を動かす事は、身体を温める事にも繋がる。血流が鈍れば身体冷えていき、意識は沈滞するように思われる。食べる事や眠る事も、同じような事が言えるかも知れない。
これらの事をする前にやる事があった。但しこれは、事がとても深刻である場合。
- 自分の外部に、掛け替えのないものを持たない。











