DOG ON THE BEACH
喪失
- 2011-09-04 Sunday
- Category - People
- Tag - philosophy / hatena
人の心から何かが失われると、それはそのまま人の裡に絶対的な空白を作る。そして眼差しに影を落としてしまう。注目すべきはその部分であり表層ではない。表層は舞台であり、其処では人はどんな嘘をも吐く事が出来る。舞台は華やかで、勢いもあり、潔いものであるが、角度を変えて見てみれば、何処か哀し気な色が差している。そしてその落差は、厄介な事に、とても美しく見える。
鮮烈で圧倒的な美しさ
- 2011-06-06 月曜日
- Category - Art
- Tag - diary / philosophy / hatena
というのは、残酷さと同衾しているように思う。それを観る我々は、畏れ、平伏し、使役されるしかないのではないだろうか。
正岡子規の己が葬儀に関する遺言
- 2010-12-12 日曜日
- Category - Art
- Tag - philosophy / literature / hatena
本日 NHK ドラマ「坂の上の雲」にて正岡子規が死んだが、自分の葬儀に関して色々と注文をつけていたらしく、その葬儀の場面でモノローグとして読まれた。正確に知っておきたかったので、改めて WEB で調べてみたら以下のような文章を見つけた。
仰臥漫録:正岡子規最晩年の日記
そしてそれとは別に、正岡子規の遺言書なるページを見つけた。岩波文庫からの転載であるらしい。
正岡子規遺言書(PDF)
特に何か感銘を受けたとか、そういう事でもない。己が葬儀の華美に催される事を嫌うのはよく聞く話である。しかし文章として明文化されているのは初めて見るし、近い将来の自分に参考になるのではないかと思い、此処に記しておく。独り床に伏していると、時折こんな事を考える。
われらなくなり候とも葬式の広告など無用に候。家も町も狭き故二、三十人もつめかけ候はば柩の動きもとれまじく候。
何派の葬式をなすとも柩の前にて弔辞伝記の類読み上候事無用に候。
戒名といふもの用ゐ候事無用に候。かつて古人の年表など作り候時狭き紙面にいろいろ書き並べ候にあたり戒名といふもの長たらしくて書込に困り申候。戒名などはなくもがなと存候。
自然石の石碑はいやな事に候。
柩の前にて通夜すること無用に候。通夜するとも代りあひて可致候。
柩の前にて空涙は無用に候。談笑平生の如くあるべく候。
仰臥漫録:正岡子規最晩年の日記
そしてそれとは別に、正岡子規の遺言書なるページを見つけた。岩波文庫からの転載であるらしい。
余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解していた
悟りといふ事は 如何なる場合にも
平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いひで
悟りといふ事は 如何なる場合にも
平気で生きている事であった
正岡子規遺言書(PDF)
特に何か感銘を受けたとか、そういう事でもない。己が葬儀の華美に催される事を嫌うのはよく聞く話である。しかし文章として明文化されているのは初めて見るし、近い将来の自分に参考になるのではないかと思い、此処に記しておく。独り床に伏していると、時折こんな事を考える。
欲望装置〜続き〜
- 2010-11-24 水曜日
- Category - People
- Tag - philosophy / psychology / hatena
村上龍の「希望の国のエクソダス」だったか、人間は欲望を持って生きないと退行するという意味合いの事が書かれてあった。そして何処で読んだのか忘れたが、アメリカ政府に保護されたネイティヴ・アメリカンの男達は、狩りをする必要も必然も無くなった為、毎日酒に溺れうな垂れて暮らしている。というような文章を読んだ事がある。
人間は欲望を持たなければ、戦わなければ生きていけないのか。毎日を穏やかに過ごすだけでは駄目なのか。変化を望まない人間は滅びるしかないのだろうか。
人間は欲望を持たなければ、戦わなければ生きていけないのか。毎日を穏やかに過ごすだけでは駄目なのか。変化を望まない人間は滅びるしかないのだろうか。
- 最終更新日時 : 2011-11-09 21:06:28
欲望装置
- 2010-11-23 火曜日
- Category - People
- Tag - philosophy / psychology / hatena
ここ三週間ばかり仕事に忙殺されていて、それがようやく一段落ついたところで、何だか虚ろな気分に陥ってしまった。忙しく立ち回っていた時との落差なのだろうと思っていたのだけれど、でもそれならそれで、忙しい間に出来なかったあれこれをやろうと解き放たれた気分になりそうなものであるが、そうはならないのである。どちらかと言えば何もしたくない。いや、積極的に何もしたくないのではなく、特に何かをしたいという気分になれないという、消極的なものだ。自分の中のあれしたい欲やこれしたい欲が消失してしまったかのようだ。はてさて、これは一体どういう事なのだろうか。
何となく軽い鬱状態に似ている気がする。しかし、確かに忙しかったがそんなにストレスを溜め込んだ覚えはないし、冬鬱を患うには季節はそんなに深くない。さて困ったな。原因が掴めないと対処のしようがない。さりとてぼんやりと過ごせるような満ち足りた気分でもないのだ。何かしらスカスカしていて、ひんやりと危うい。
こうやって改めて文字にすると、自分が物凄く酷い状態にあるような気がしてきた。ああ、自分が心配だ。何かしら見つけなければとは思うが、見つけるようなものでもない気もする。些細な事であれ、何かに集中出来ていれば大丈夫だと思うんだけどな。例えそれが無理矢理でも。
何となく軽い鬱状態に似ている気がする。しかし、確かに忙しかったがそんなにストレスを溜め込んだ覚えはないし、冬鬱を患うには季節はそんなに深くない。さて困ったな。原因が掴めないと対処のしようがない。さりとてぼんやりと過ごせるような満ち足りた気分でもないのだ。何かしらスカスカしていて、ひんやりと危うい。
こうやって改めて文字にすると、自分が物凄く酷い状態にあるような気がしてきた。ああ、自分が心配だ。何かしら見つけなければとは思うが、見つけるようなものでもない気もする。些細な事であれ、何かに集中出来ていれば大丈夫だと思うんだけどな。例えそれが無理矢理でも。
経年鈍化
- 2010-11-15 月曜日
- Category - People
- Tag - philosophy / biology / anthropology / hatena
今年の秋は、印象としては僅かに二週間くらいしかなかった気がする。四季が失われつつあるのかなあ、とも思うけど、断腸亭日乗を紐解けば、永井荷風が同じように気候の変動を訝しむ記述があったりするので、もしかすると人間の環境に対する感じ方には傾向があって、それ故に四季が乱れていると思い込むのかも知れない。でもまあ、その理屈の動き方が思い付かないのでよく判らない。
それとは別に、年齢を経ていけば、段々と一年という時間を短く感じるようになっているのは何故なのだろうな。子供の頃と違い、歳を取ると環境の変化やそれ自体に対する慣れ、またはそれらに倦む事に因って時間経過の感覚までも鈍化していくからだと聞いた気がするけど、そういうものなんだろうか。物理的な時間は変化しないだろうから、いずれにせよ人間の受容感覚が変化したのだろう。
そう言えば先に挙げた断腸亭日乗、荷風最晩年の死の直前辺りでは殆どが天気の記述だけになる。日記を連ねる体力気力が無くなったのか、それとも何も感じなくなってしまったのか。さすがに老齢までには相当間のある僕には想像がつかない。
しかし考えてみれば、もしかするとそういった加齢に比例した肉体や感覚の鈍化というのは、死を迎える為の準備なのかも知れない。例えば、三十路を越えた辺りから色々な事に対して思い悩む事が少なくなって、幸いにも生き易くなるような感じで。あれだって、もう思い悩む体力がなくなって疲弊しているからそうなるのだろうしね。若い時に比べれば、肉体や感覚が鈍化していた方が死を受け入れ易いだろう。そうすると、老化とは死を目指した成長だと考えれば、何というか、非常に都合の良い生命のプログラムであるような気がしてくる。
それとは別に、年齢を経ていけば、段々と一年という時間を短く感じるようになっているのは何故なのだろうな。子供の頃と違い、歳を取ると環境の変化やそれ自体に対する慣れ、またはそれらに倦む事に因って時間経過の感覚までも鈍化していくからだと聞いた気がするけど、そういうものなんだろうか。物理的な時間は変化しないだろうから、いずれにせよ人間の受容感覚が変化したのだろう。
そう言えば先に挙げた断腸亭日乗、荷風最晩年の死の直前辺りでは殆どが天気の記述だけになる。日記を連ねる体力気力が無くなったのか、それとも何も感じなくなってしまったのか。さすがに老齢までには相当間のある僕には想像がつかない。
しかし考えてみれば、もしかするとそういった加齢に比例した肉体や感覚の鈍化というのは、死を迎える為の準備なのかも知れない。例えば、三十路を越えた辺りから色々な事に対して思い悩む事が少なくなって、幸いにも生き易くなるような感じで。あれだって、もう思い悩む体力がなくなって疲弊しているからそうなるのだろうしね。若い時に比べれば、肉体や感覚が鈍化していた方が死を受け入れ易いだろう。そうすると、老化とは死を目指した成長だと考えれば、何というか、非常に都合の良い生命のプログラムであるような気がしてくる。
- 最終更新日時 : 2011-11-09 21:02:14
温故知新
- 2010-06-30 水曜日
- Category - People
- Tag - sociology / philosophy
最近この言葉に言いようのない魅力を感じる。昔から知っている言葉だが、何故かしらこの頃になって気になり始めた。きっかけは恐らく山下達郎のラジオ番組「サンデーソングブック」で、その中でキャッチフレーズとして「オールディーズ・バット・グッディーズ」「温故知新」という言葉が繰り返し謳われるので、何となしに言葉が頭に残り、後に意味が朧気に頭に入り込んできた。
それが後ろ向きに振り返り、過去の大海を眺め、自分に合いそうな領域を見据えながらゆっくりとその場所へ近づいて行く。そういうやり方は実にしっくりくる。性格的な事だと言ってしまえばそうだが、要は忙しいのが嫌なのだろうな。勢いの良い流行のものであるとかそういうものは「知る」のではなく「知らされる」のであって、どうもそれが押しつけがましく感じるし、言ってしまえば迷惑である。もっとゆっくりと楽しませて欲しいのだ。
歴史的観点からすればそれが過去の遺物であったとしても、その存在を知らなった僕個人の歴史にとっては新作である。目新しく良き物事を知るのはとても楽しい。この頃では、マーケットプレイスで古本や中古 CD ばかり買っている。Used という意味だけではなく発売された時期自体も古い。しかも安く買える事が多いのでお得である。
★
と、ここまで書いて、どうにも話が纏まりそうにない事に気付いた。大体が、自分にもよく解らない事を、書きながらどうにか整理しようとしている事が多いので、話をどう結ぶのか考えもしないで進めている。つまり今回は失敗したという訳だ。しかし記録としてはそれでも構わないので、あやふやなまま終わる事にする。
本当なら、上に書いた事とは全然別の、アンティーク趣味というニュアンスに近い事にも興味を持ち始めているので、そこら辺も纏められれば良いなと思っていたのだが、やはり実践を伴わないと書けないようである。
過去の事実を研究し、そこから新しい知識や見解をひらくこと。「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」と訓読する。というように辞書には出ている。僕はそこまで堅苦しく考えている訳ではないが、例えば本にしろ音楽にしろ、最近では古いものを紐解く方がより楽しく思えてきた。今現在流布している本や音楽に興味がない訳ではない。ただ、それらは正面から波のように僕に迫って来て、あっという間に通り過ぎそして忘れ去られて行く。まごまごしていると何も手にする事なく時間だけがどんどん進んでいくので、手に触れるものを取りあえず咥え込んでいくのだが、元来そういう網でトンボを捕るようなやり方がどうも性に合わないといつも感じている。
それが後ろ向きに振り返り、過去の大海を眺め、自分に合いそうな領域を見据えながらゆっくりとその場所へ近づいて行く。そういうやり方は実にしっくりくる。性格的な事だと言ってしまえばそうだが、要は忙しいのが嫌なのだろうな。勢いの良い流行のものであるとかそういうものは「知る」のではなく「知らされる」のであって、どうもそれが押しつけがましく感じるし、言ってしまえば迷惑である。もっとゆっくりと楽しませて欲しいのだ。
歴史的観点からすればそれが過去の遺物であったとしても、その存在を知らなった僕個人の歴史にとっては新作である。目新しく良き物事を知るのはとても楽しい。この頃では、マーケットプレイスで古本や中古 CD ばかり買っている。Used という意味だけではなく発売された時期自体も古い。しかも安く買える事が多いのでお得である。
★
と、ここまで書いて、どうにも話が纏まりそうにない事に気付いた。大体が、自分にもよく解らない事を、書きながらどうにか整理しようとしている事が多いので、話をどう結ぶのか考えもしないで進めている。つまり今回は失敗したという訳だ。しかし記録としてはそれでも構わないので、あやふやなまま終わる事にする。
本当なら、上に書いた事とは全然別の、アンティーク趣味というニュアンスに近い事にも興味を持ち始めているので、そこら辺も纏められれば良いなと思っていたのだが、やはり実践を伴わないと書けないようである。
- 最終更新日時 : 2010-06-30 23:20:33






