DOG ON THE BEACH
12月のネオン
- 2010-01-09 Saturday
- Category - People
- Tag - sexuality / philosophy
去年のクリスマスの少し前だっただろうか、僕は夜の新宿を歩いていた。新宿通りの左側の歩道をJR新宿駅から三丁目へ向かって。そしてちょうど伊勢丹の入口、ショーウィンドウの光が溢れている辺りに差し掛かった時、僕の視界には歩道から外れた位置で二人の男が向かい合っている姿が入ってきた。二人とも体躯が大きく短髪で、ブルージーンにスタジャンを着ていた。例えるならば、大学か若しくは社会人のラグビー部のチームメイトという感じであった。共に 180cmは優に超えるであろう身長なので、百貨店前の人混みの中でも頭ひとつ飛び出ており、とにかく目立つ二人連れであった。そしてそんな彼らは向かい合って何をしていたのかというと、両の手を繋いでお互いの顔を見つめ合っていたのだ。とても幸せそうな表情で。
新宿を東に向かって歩いて行けば、ゲイのカップルを見かける事はそう珍しい事ではない。しかし彼らほど幸せそうに見えるカップルを僕は見た事がなかった。僕の眼鏡に色が着いていたのかも知れないが、大体は少し緊張した面持ちで、殊更に堂々と振る舞おうとしていたように思う。だからだろうか、彼らの姿が僕の目にはとても新鮮に映ったのだ。しかし僕が持った印象はそれだけでは説明できない。洪水が如き人波に押し流されて、僕は立ち止まる事も出来ないまま彼らの傍らを通り過ぎた。夜の影を歩む僕の目が捉えたものは、粉飾された幸福の模倣などではなく、ただただ幸福な二人の人間の姿であった。そういう人達を見かける事は希だ。殊更に騒ぎ立てる必要もなく、好きな人とお互いに見つめ合いながら微笑む事が出来るというのは、なんと幸せな事だろうか。良いものを見せて貰った。そう思いながら僕は横断歩道を渡った。
新宿を東に向かって歩いて行けば、ゲイのカップルを見かける事はそう珍しい事ではない。しかし彼らほど幸せそうに見えるカップルを僕は見た事がなかった。僕の眼鏡に色が着いていたのかも知れないが、大体は少し緊張した面持ちで、殊更に堂々と振る舞おうとしていたように思う。だからだろうか、彼らの姿が僕の目にはとても新鮮に映ったのだ。しかし僕が持った印象はそれだけでは説明できない。洪水が如き人波に押し流されて、僕は立ち止まる事も出来ないまま彼らの傍らを通り過ぎた。夜の影を歩む僕の目が捉えたものは、粉飾された幸福の模倣などではなく、ただただ幸福な二人の人間の姿であった。そういう人達を見かける事は希だ。殊更に騒ぎ立てる必要もなく、好きな人とお互いに見つめ合いながら微笑む事が出来るというのは、なんと幸せな事だろうか。良いものを見せて貰った。そう思いながら僕は横断歩道を渡った。
今生の別れ、その言葉たるや
- 2009-12-03 木曜日
- Category - People
- Tag - japanese / philosophy / language
今放映中の " JIN -仁- " の第五話のラストにこういう場面があった。梅毒を患い末期の症状に苦しむ女郎を救おうと、江戸時代にタイムスリップした現代の医者が、当時には存在しえないペニシリンを用いて治療を施す。しかしペニシリンの精製が間に合わず、とうとう患者は最期を迎える。そして今際の際に女郎はこう呟いて、手を合わせたまま息を引き取るのである。
どうしてこんなにも美しい言葉が日本の社会から失われてしまったのだろうか。いろいろ調べてみると、どうもこの言葉は武家若しくは郭の女性が主に使っていたようで、時期を異にすれどもどちらも解体された階級若しくは職場であるので、そのタイミングで失われたのだろうか。惜しい事です。情感溢れる古の言葉は、近代化や合理化に馴染む事が出来ずに風化してしまったのかも知れません。そしてそれと共にある種の美しさをも失ってしまったように思える。
挨拶というのは大変美しいものだと思うのだけれど、それをしない人もたくさん居る。他人の事情は想像を以てしても知る事はできないが、挨拶なくして一体何時、好意や感謝を伝える事が出来るのだろうか、とも考えるのである。
みなさま・・・ありがとう。けんど・・・苦しむことにも飽きなんした。堪忍しておくれなんし。・・・おさらばえ。凄く印象に残る場面であったので少し検索してみたところ、同じように思う人はたくさん居るようで、数多くの記事がヒットした。特に「おさらばえ」の言葉が反響を呼んでいるようだ。僕にしても、なんと美しく響く言葉だろうかと打ち震えた。言葉を分解してみれば「それならば・それでは」という意味の「然らば」の頭に「御」を付け足し、尾に女性言葉の「え」を付け足した単純な言葉であるのだが、導き出される情感は果てしがない。
どうしてこんなにも美しい言葉が日本の社会から失われてしまったのだろうか。いろいろ調べてみると、どうもこの言葉は武家若しくは郭の女性が主に使っていたようで、時期を異にすれどもどちらも解体された階級若しくは職場であるので、そのタイミングで失われたのだろうか。惜しい事です。情感溢れる古の言葉は、近代化や合理化に馴染む事が出来ずに風化してしまったのかも知れません。そしてそれと共にある種の美しさをも失ってしまったように思える。
挨拶というのは大変美しいものだと思うのだけれど、それをしない人もたくさん居る。他人の事情は想像を以てしても知る事はできないが、挨拶なくして一体何時、好意や感謝を伝える事が出来るのだろうか、とも考えるのである。
- Last modified : 2009-12-04 10:15
光の手
- 2009-11-30 月曜日
- Category - People
- Tag - health / philosophy / pathology
もう20年近く前に当時の知人から聞いた話。彼女の知り合いに、患部に手を触れて病を治す施術者の女性が居たらしい。幾人もの病人が彼女の元を訪れ、その都度、彼女は患部に手を触れて病を治していた。しかし、数年後に今度は彼女自身が病を患ったが、残念な事に自分自身を治す事は出来なかったようで、果たして彼女は死んでしまった。ここら辺の記憶は曖昧だが、施術者の女性は、病人の病を自分自身の身体に移す事で、患者を治癒に導いていたという話だった。似たような話が乙一の " Kids " という小説に出てくる。
僕の知人は施術者の女性が亡くなった時、この世の何かしらを悟ったような気がしたと言っていた。それから時を経て彼女は美術家となった。何年か前に僕は偶然その事を知った。今現在の彼女が元気でいるのかどうか、僕は知らない。何故だかこの話を今日思い出したのだ。そして時折思い出すこの話を、書き留めて置いた方が良いような気がしたから、今こうして書いている。
僕の知人は施術者の女性が亡くなった時、この世の何かしらを悟ったような気がしたと言っていた。それから時を経て彼女は美術家となった。何年か前に僕は偶然その事を知った。今現在の彼女が元気でいるのかどうか、僕は知らない。何故だかこの話を今日思い出したのだ。そして時折思い出すこの話を、書き留めて置いた方が良いような気がしたから、今こうして書いている。
退屈と恐怖
- 2009-04-04 土曜日
- Category - People
- Tag - philosophy / psychology
例えばすべき事が何も無い休日の午後、床に寝っ転がってぼんやりと天井でも眺めているとしよう。仕方がないから天井のシミや黴の跡を見つけて数えてみたり、天井を斜めに横切る小さな蜘蛛を眺めたり、そうでもなければ窓から差す陽射しに照らされた無数の塵が空気中を漂うのを眺めたりする。そんな時に口をついて出る「退屈だなあ」という言葉の響きには悲壮感は見当たらない。それどころか幾らか嬉しさのような成分も含まれている。多忙な日々を過ごした後の事ならその感慨も一入だ。何ならこういう時間がこの後当分の間続いたとしても、それはそれで良いのかも知れないと思えたりもする。
それとは別に、興味や意識の矛先を何一つ持てない、ある種の閉塞感を伴う「退屈」はやがて恐怖を呼び起こす。それは「無」を予感させるからだ。例えば真の闇の中に自分が置かれているとする。手を伸ばして何かに触れようとしても其処には何も無い。そして視覚を奪われているが為に自分が知覚出来るのは温度と匂いと音だけである。これでもし匂いも音も遮断されたとしたら? 残るのは自分自身の思念のみである。これほど危険を孕んだ状態もそうはないだろう。昔懐かしい良い思い出や楽しい事ばかりを考えて調子に乗っていられれば良いのだけれど、一度嫌な思い出や空しさについて考え始めたらこれはもう負のスパイラルである。邪魔するものなど何もないのだからひたすらに落ちていくのみである。眠れない夜にこれと似たような事が起きる。だから僕は不眠が怖い。
どんなに些細で取るに足らない事であっても、自分の外に意識を向けている事が出来れば大丈夫な気がする。更にはそれに興味を持ち、何かしら自分の行動に繋がればもう自分が「退屈」であった事など忘れてしまうだろう。
それとは別に、興味や意識の矛先を何一つ持てない、ある種の閉塞感を伴う「退屈」はやがて恐怖を呼び起こす。それは「無」を予感させるからだ。例えば真の闇の中に自分が置かれているとする。手を伸ばして何かに触れようとしても其処には何も無い。そして視覚を奪われているが為に自分が知覚出来るのは温度と匂いと音だけである。これでもし匂いも音も遮断されたとしたら? 残るのは自分自身の思念のみである。これほど危険を孕んだ状態もそうはないだろう。昔懐かしい良い思い出や楽しい事ばかりを考えて調子に乗っていられれば良いのだけれど、一度嫌な思い出や空しさについて考え始めたらこれはもう負のスパイラルである。邪魔するものなど何もないのだからひたすらに落ちていくのみである。眠れない夜にこれと似たような事が起きる。だから僕は不眠が怖い。
どんなに些細で取るに足らない事であっても、自分の外に意識を向けている事が出来れば大丈夫な気がする。更にはそれに興味を持ち、何かしら自分の行動に繋がればもう自分が「退屈」であった事など忘れてしまうだろう。
扉を開ければ其処には意外な現実が在った
- 2009-03-19 木曜日
- Category - People
- Tag - sociology / philosophy
ずっと昔僕が未だ実家に住んでいた頃、テレビ番組で東京の少し変わった住宅事情を紹介していた。場所は渋谷。恐らく桜丘町辺りだったと思うのだけれど、古いホテルを改装して各部屋を貸し出しているという物件だった。その物件は非常に人気があり、部屋が空くのを待っている人が後を絶たないという事であった。ホテルの部屋だから浴室とトイレは完備しているがキッチンは無い。しかし自炊する習慣の無い人にとってそれは大した問題とならないのかも知れない。部屋は広く造りもしっかりしているので、通常の賃貸物件に住む事に比べれば気分は上がる。管理人はいつでもフロントに居るし。ラウンジに腰掛けていれば、丁度お隣さんなんかが帰ってきて言葉を交わしまるでサロンのような雰囲気である。
そんな楽しい場所が在るなんて東京はなんて素晴らしい街なんだ、とその当時の僕は思っていたに違いない。しかし進学や就職で上京したての新参者がそんな物件に入り込める訳がない。どうやって探して良いのかすら判らないし、僕はテレビを観てその事を知っていたが、そうでなければそういう場所が存在することすら知らないだろう。僕達が知らず知らずに頭の中で構築した世界というか社会の構造の外側には、想像もしなかった場所が厳然と存在しているのである。
何故だか知らないが、そんな事を思いだした。
★
以前に村上春樹が何処かで書いていた。抜け道が多い社会こそ良い社会である、と。決まり切った額面通りの路しか無いと思いあぐねて延々と生きるのでは、どうにも希望が無い。
そんな楽しい場所が在るなんて東京はなんて素晴らしい街なんだ、とその当時の僕は思っていたに違いない。しかし進学や就職で上京したての新参者がそんな物件に入り込める訳がない。どうやって探して良いのかすら判らないし、僕はテレビを観てその事を知っていたが、そうでなければそういう場所が存在することすら知らないだろう。僕達が知らず知らずに頭の中で構築した世界というか社会の構造の外側には、想像もしなかった場所が厳然と存在しているのである。
何故だか知らないが、そんな事を思いだした。
★
以前に村上春樹が何処かで書いていた。抜け道が多い社会こそ良い社会である、と。決まり切った額面通りの路しか無いと思いあぐねて延々と生きるのでは、どうにも希望が無い。
緒川たまき結婚報道がもたらすもの
- 2009-03-07 土曜日
- Category - People
- Tag - sexuality / philosophy
休日の朝遅くに目を覚ました僕は、カーテンを開け、晴れ渡る青空に目を細めた後、パワーブックを起動させる。そしてブラウザを開いた僕の目に飛び込んできたのは緒川たまきとケラリーノ・サンドロヴィッチの結婚報道。僕は声も無く嘆いた。それは複雑に過ぎる混じり合った感情の押し出された形なのかも知れない。きっと色々な人達が色々な事を書いてるだろうとグーグルのブログ検索で探ってみると「たまきちゃん結婚おめでとう!」とか「ケラリーノ・サンドロビッチって誰?ヘンな名前w」みたいな記事ばかりで、余りにもツマラナイので早々に読むのを止めた。そんな中、僕の巡回先に一人だけこの件について記事を書いている人が居て、それが秀逸で面白かった。
緒川たまき結婚で試される童貞力 / Webdog
特にこの辺りの行が大好きである。
それにしてもケラめ、おめでとうなんて絶対に言わないぞ。
先日観た緒川たまきの神々しくさえある姿が、昼間の光に晒され、朧気に消えていく・・・。
緒川たまき結婚で試される童貞力 / Webdog
特にこの辺りの行が大好きである。
結婚を報じるあらゆるニュース記事を読みながら僕はなにかを掴もうと必死になった。なんだかよく分からないけど眠っていた童貞力がめきめきと伸び始めた。伸び続けて止まらない。第一報を目にしてから30分、もはや僕はすっかり童貞だ。ああ、こんな風に思う事あるよなあ。上の記事にも在るように、原田知世が結婚した時とか森口瑤子が結婚した時とか本上まなみが結婚した時とか麻生久美子が結婚した時とかに僕はそんな感じだった。僅か数ミクロンの微かな希望でさえも手繰り寄せて縋りたくなるような心許ない気持ちというか、「切ない」という曖昧な表現の中にはこういう「憧れの対象への手の届かなさ」が多分に含まれているような気がする。「手が届かない」からこそ「憧れ」であり、「憧れ」ているからこそ心も下半身もねじ切るようにして見つめてしまうのだろう。「憧れ」るにはその対象となる人に関する情報量の少なさが必須であるように思う。メディアへの露出が比較的多く、巷でプライベートを報道されまくっているようなアイドルにはどうやっても「憧れ」る事が出来ない。
それにしてもケラめ、おめでとうなんて絶対に言わないぞ。
先日観た緒川たまきの神々しくさえある姿が、昼間の光に晒され、朧気に消えていく・・・。
- Last modified : 2009-03-07 14:03
渚のシンドバッド / 橋口亮輔
- 2008-07-10 木曜日
- Category - Art
- Tag - movie / philosophy / sociology / sexuality
先に書いておくと、登場人物の一人が浜崎あゆみである事に、エンディングロールを見るまで気がつかなかった。まあそれは良いとして、己の内なる欲望や欲求に対して羞恥心や罪悪感のようなものを持っている人間にとっては、思春期はまさに地獄の季節である。募り高まる性的な欲求と傷つきやすい自尊心とが最早膠着状態となり、対象を目の前にしてしまえば、世界と自分との距離感を全く掴めずに混乱したまま全てを告げてしまう。それは勿論自分自身と対象となる人間しか目に映っていないからであるが、そういう無様な若い人間の姿も、少し離れた場所から眺めれば結構美しく思えるものである。
この映画ではそういう事が正確な上に密度をもって描かれている。しかもそれが次々と映し出されるものだから、観ているこちらとしては思わず一時停止ボタンを押してしまうのである。もう見ていられないのだ。かといってそれで観るのを止めてしまう事はなく、腹をくくり息を止めてまた再生ボタンを押す。
誰かに受け容れられ安心出来る事を、不器用極まりないアプローチで追い求める登場人物達は皆必要以上に傷つき、そのまま生き続けていく事を恐れている。その恐れの中、傷つかず傷つけずに安心して生きて行くにはどうすれば良いのか。混沌とした迷いの中、彼らは懸命に日常を過ごして行く。
この流れで言えば、次作が「ハッシュ!」となるのは凄く解る。橋口亮輔は一貫して、人の生き方を追い求めているのだと思う。僕はこういう作家が好きだ。音楽にしろ文学にしろ何にしろ、人の一生を描いたものはとても愛おしい。それがカテゴライズとして何と呼ばれるかなんて事は本当にどうでも良い。
★
印象的だった場面を幾つか。
- 浜崎あゆみ扮する、過去に強姦された経験を持つ女子高生が、精神科医との面談時にこう話す。「私、やられてる時にも人の身体って暖かいんだなあと思った。だから、私は人の温かさというものを信じない。」
- 撮影の舞台となった長崎の美しい風景。蜜柑畑を抜けた先の陽の光に溢れた浜辺。
- 山口耕史扮する男子高校生が、自分が河に沈めた自転車を引き上げ、それに乗って走る場面。自転車を駆る少年は美しい。









