DOG ON THE BEACH
好ましき髪型
僕自身の髪型の話ではない。女性の髪型の話である。予てから僕は「好みの女性タイプは?」という類の質問にはいつも上手く答えられない。こういう質問というのは主立った容貌や性格的傾向を訊いているのだろうけど、人間を構成する要素は多種多様であるしその組み合わせとなればこれはもう無数である。勿論僕にも好みの傾向というものは在るので、その幾要素かを辿る事は出来るのだが、そうしている内に段々と訳が判らなくなるものである。最高値の組み合わせを決定するなんて事は、これはもう一生を掛けての課題であるから、おいそれとは答えられないのは当然だと僕は思っているのだが、恐らく質問者はそこまでは求めていない。それは解っているのだけれどテキトーに答える事が出来ないのだな、僕は。
さてそんな中、これだけは発表しても差し支えないのではないだろうかと思えるのが女性の髪型である。最近ようやく自分の好みが判ってきた。これにしたって元々は「似合ってれば何でも良いな」くらいの認識しかなかったのだけれど、と或る髪型の女性を見かけると必ず目に留まり、それ以外の要素を確認しようとうろちょろとしてしまう自分に気がついたので、これはもう決定しても良いのではないかと思い記念に此処に記すのである。
んで、その髪型とは真ん中分けのボブである。リンク先に拠れば「ワンレングス ボブ」というらしい。その魅力を試しに書いてみれば「細く滑らかな髪質の特徴を十分に生かしつつ軽快で華奢な雰囲気を保ち、それでいて色の匂いを秘めている」とか解りにくい文章になってしまう。こういうのは観て触って嗅がないと解らない。
因みに有名な人物で例えるなら、髪の毛を切った後の麻生久美子とか、ショートにする前の Megumi とか。特に Megumi のこの髪型にした時の横顔はとても美しい。
さてそんな中、これだけは発表しても差し支えないのではないだろうかと思えるのが女性の髪型である。最近ようやく自分の好みが判ってきた。これにしたって元々は「似合ってれば何でも良いな」くらいの認識しかなかったのだけれど、と或る髪型の女性を見かけると必ず目に留まり、それ以外の要素を確認しようとうろちょろとしてしまう自分に気がついたので、これはもう決定しても良いのではないかと思い記念に此処に記すのである。
んで、その髪型とは真ん中分けのボブである。リンク先に拠れば「ワンレングス ボブ」というらしい。その魅力を試しに書いてみれば「細く滑らかな髪質の特徴を十分に生かしつつ軽快で華奢な雰囲気を保ち、それでいて色の匂いを秘めている」とか解りにくい文章になってしまう。こういうのは観て触って嗅がないと解らない。
因みに有名な人物で例えるなら、髪の毛を切った後の麻生久美子とか、ショートにする前の Megumi とか。特に Megumi のこの髪型にした時の横顔はとても美しい。
- Last modified : 2008-10-20 21:44
母と息子のバラッド
確か7月の半ば頃の話。梅雨が開けるか開けないかの瀬戸際の快晴の日に、僕は打ち合わせに挑むべく地下鉄の駅へと向かっていた。薄暗い地下へと降りる入口の前で、何やら高校生くらいの男の子がもたついている。彼は長身だというだけではなく、太っているという訳でもなく、縦にも横にも大きな巨漢であった。真っ黒な学生ズボンに白い半袖の開襟シャツ、坊主頭の下の表情は大変幼くどちらかと言えば愛らしい。そんな彼が一体そんな場所(通行の邪魔)で何をまごついているのか判らないが、突然横を向いてこう言ったのである。「お母さん、これ持ってて」それを聞いて初めて男の子の隣に佇んでいる女性の存在に気がついた。年の頃は40過ぎ、身長は150cmあるだろうか。僕の母もそうだが、とても小さなお母さんである。「もう・・・」と嘆きながら息子から鞄を受け取る。どうやら息子は定期券を探しているらしい。
巨漢の息子にちっちゃな母親。不思議だ。父親が巨漢なのだろうか。でもそんな事より、この二人を見ていると何故だか頬を緩むのだ。どれだけ身体が大きかろうが息子は息子で、どれだけ身体が小さかろうが母は母である。その事実は僕をとても楽しい気分にさせる。
巨漢の息子にちっちゃな母親。不思議だ。父親が巨漢なのだろうか。でもそんな事より、この二人を見ていると何故だか頬を緩むのだ。どれだけ身体が大きかろうが息子は息子で、どれだけ身体が小さかろうが母は母である。その事実は僕をとても楽しい気分にさせる。
渚のシンドバッド / 橋口亮輔
- 2008-07-10 木曜日
- Category - Art
- Tag - movie / philosophy / sociology / sexuality
先に書いておくと、登場人物の一人が浜崎あゆみである事に、エンディングロールを見るまで気がつかなかった。まあそれは良いとして、己の内なる欲望や欲求に対して羞恥心や罪悪感のようなものを持っている人間にとっては、思春期はまさに地獄の季節である。募り高まる性的な欲求と傷つきやすい自尊心とが最早膠着状態となり、対象を目の前にしてしまえば、世界と自分との距離感を全く掴めずに混乱したまま全てを告げてしまう。それは勿論自分自身と対象となる人間しか目に映っていないからであるが、そういう無様な若い人間の姿も、少し離れた場所から眺めれば結構美しく思えるものである。
この映画ではそういう事が正確な上に密度をもって描かれている。しかもそれが次々と映し出されるものだから、観ているこちらとしては思わず一時停止ボタンを押してしまうのである。もう見ていられないのだ。かといってそれで観るのを止めてしまう事はなく、腹をくくり息を止めてまた再生ボタンを押す。
誰かに受け容れられ安心出来る事を、不器用極まりないアプローチで追い求める登場人物達は皆必要以上に傷つき、そのまま生き続けていく事を恐れている。その恐れの中、傷つかず傷つけずに安心して生きて行くにはどうすれば良いのか。混沌とした迷いの中、彼らは懸命に日常を過ごして行く。
この流れで言えば、次作が「ハッシュ!」となるのは凄く解る。橋口亮輔は一貫して、人の生き方を追い求めているのだと思う。僕はこういう作家が好きだ。音楽にしろ文学にしろ何にしろ、人の一生を描いたものはとても愛おしい。それがカテゴライズとして何と呼ばれるかなんて事は本当にどうでも良い。
★
印象的だった場面を幾つか。
- 浜崎あゆみ扮する、過去に強姦された経験を持つ女子高生が、精神科医との面談時にこう話す。「私、やられてる時にも人の身体って暖かいんだなあと思った。だから、私は人の温かさというものを信じない。」
- 撮影の舞台となった長崎の美しい風景。蜜柑畑を抜けた先の陽の光に溢れた浜辺。
- 山口耕史扮する男子高校生が、自分が河に沈めた自転車を引き上げ、それに乗って走る場面。自転車を駆る少年は美しい。
恋は水色
- 2008-07-05 土曜日
- Category - People
- Tag - beauty / sexuality / psychology
五月雨の時期になると中学生・高校生は衣替えと称して、一斉に孵化した昆虫のように夏服に着替える。そうするってえとどうなるかというと、女子が着ている白い開襟シャツの背中に、薄い生地を通してブラジャーが浮かび上がるのである。そうなったらもう男子どもは狂喜乱舞してそれを眺め尽くすのであるが、或る者は友達と馬鹿話をするふりをしながら横目で窺い、或る者は前の席に座る女子の背中を凝視する。
僕の事で話すならば、もう20年以上も前の話だし九州の田舎の事であるので、ブラジャーの色としては白が圧倒的に多かった。今思えばその事実は少々時代錯誤な気もするが、そこはほれ、封建的なクソ田舎なので仕方がない。そんな中、クラスの中で数人の女子はピンクのブラジャーを着けていた。着色された下着は野暮ったさから解放され、柔らかい魅力を持って男子どもの目に突き刺さった。僕の勝手な想像だが、恐らくお母さんからのお仕着せではなく、少しの我が侭を通して買って貰ったのだろう。彼女達は先験的であったのだ。ピンクのブラジャーを着けている方が可愛いし男子にモテると。しかし本日の主題はピンクのブラジャーではない。水色のブラジャーである。
水色のブラジャーを着けている女子は殆ど居なかった。学年で一人か二人。しかも彼女達が毎日同じ色のブラジャーを着ける事もないので、背中に透けた水色のブラジャーを見かけた時には「当たり!」と心の中で拳を突き上げたものである。こうも書くのだから、僕は水色のブラジャーが大好きであった。勿論だが男子の間で囁かれる「何色のブラジャーが好いとると?」の公的な質問には当然「水色がよか」と答弁していた。それが何故なのかはよく解らない。いやらしさで言えばピンクの方がそうだと思うのだけれど、僕は何故か水色を好んだ。まさか希少性に性的興奮を覚えるとも思えない。たまたま水色のブラジャーを着けている女子が僕の好みだったと考えられなくもないが、今ではそれが誰であったのか思い出せないのでその理由ではないだろう。では一体何故なのか?もしかしたらピンクの先を行くそのセンスが好きだったのかも知れない。でもまあ、これは今考えたこじつけであるので、実際はよく解らない。
★
此処まで書いておいて何だが、僕が通っていた中学の女子の制服は、冬期はセーラー服で夏期はジャンパースカートだったんだよねえ。そのジャンパースカートは確か背中の部分も覆われていた気がする。という事は背中に透けブラが見えるはずがないのである。おかしい。高校は確かに開襟シャツにスカートだけだったからその方が見えるのだけれど、内容の子供っぽさからして中学生の時の感覚であると思うんだけどなあ。変だなあ。
因みに何故こんな事を書き出したかというと、僕が妙に水色を好むのはもしかしたらその事が原点ではないだろうかと思ったからである。己の嗜好の原点を辿るのは結構楽しい作業である。しかし行き着く先は得てして恥ずかしい事柄である場合が多い。
僕の事で話すならば、もう20年以上も前の話だし九州の田舎の事であるので、ブラジャーの色としては白が圧倒的に多かった。今思えばその事実は少々時代錯誤な気もするが、そこはほれ、封建的なクソ田舎なので仕方がない。そんな中、クラスの中で数人の女子はピンクのブラジャーを着けていた。着色された下着は野暮ったさから解放され、柔らかい魅力を持って男子どもの目に突き刺さった。僕の勝手な想像だが、恐らくお母さんからのお仕着せではなく、少しの我が侭を通して買って貰ったのだろう。彼女達は先験的であったのだ。ピンクのブラジャーを着けている方が可愛いし男子にモテると。しかし本日の主題はピンクのブラジャーではない。水色のブラジャーである。
水色のブラジャーを着けている女子は殆ど居なかった。学年で一人か二人。しかも彼女達が毎日同じ色のブラジャーを着ける事もないので、背中に透けた水色のブラジャーを見かけた時には「当たり!」と心の中で拳を突き上げたものである。こうも書くのだから、僕は水色のブラジャーが大好きであった。勿論だが男子の間で囁かれる「何色のブラジャーが好いとると?」の公的な質問には当然「水色がよか」と答弁していた。それが何故なのかはよく解らない。いやらしさで言えばピンクの方がそうだと思うのだけれど、僕は何故か水色を好んだ。まさか希少性に性的興奮を覚えるとも思えない。たまたま水色のブラジャーを着けている女子が僕の好みだったと考えられなくもないが、今ではそれが誰であったのか思い出せないのでその理由ではないだろう。では一体何故なのか?もしかしたらピンクの先を行くそのセンスが好きだったのかも知れない。でもまあ、これは今考えたこじつけであるので、実際はよく解らない。
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此処まで書いておいて何だが、僕が通っていた中学の女子の制服は、冬期はセーラー服で夏期はジャンパースカートだったんだよねえ。そのジャンパースカートは確か背中の部分も覆われていた気がする。という事は背中に透けブラが見えるはずがないのである。おかしい。高校は確かに開襟シャツにスカートだけだったからその方が見えるのだけれど、内容の子供っぽさからして中学生の時の感覚であると思うんだけどなあ。変だなあ。
因みに何故こんな事を書き出したかというと、僕が妙に水色を好むのはもしかしたらその事が原点ではないだろうかと思ったからである。己の嗜好の原点を辿るのは結構楽しい作業である。しかし行き着く先は得てして恥ずかしい事柄である場合が多い。
恋愛感情とは何か?
- 2008-06-08 日曜日
- Category - People
- Tag - philosophy / sexuality
暫く前に読んだ銀色夏生の「銀色ナイフ」というエッセイに「恋愛感情とは刷り込みである。」とか非常に確信を持って書かれていた。テレビや映画、小説、漫画等からの刷り込みによって人々に恋愛感情が生まれるというのだが、どうなのだろうか。幼児や小学生だって人を好きになるが、果たしてそれが恋愛感情と呼べるものなのかは疑わしいような気がする。僕がそう考えるのは、それらの感情には性的欲求が含まれていないと思うからであるが、性的欲求を含まない恋愛感情も在るような気がしないでもない。そうすると最早判断をしようとしている自分自身が疑わしい。(小学生に性的欲求が存在するかどうかは、自分の事を顧みてもよく思い出せないので横に置いておく。)
そこで考えたのは独占欲。自分にとって心地良く感じる要素を有する対象を我が物としたいと感じ、それが果たされたならば今度はそれを手放したくないと感ずる心情、それが恋愛感情なのではないだろうか。これなら年齢に関係なく当てはめる事が出来る。恋愛感情が刷り込みだというのは、前述の欲求を粉飾するロマンティック(正確な言葉であるロマンティシズムとは分けて考えて頂きたい。)な部分の事を指すのではないか。速やかなる欲求の成就を阻む状況に対する人間の知恵。殺伐たる現実に潤いを持たせる為の技術。知恵や技術は綿綿と受け継がれるものであり、それは人間の財産である。
段々と自分が何を書いているのかよく解らなくなってきたが、今夜この瞬間はそういう風に感じている。身も蓋もない話だが、粉飾部分ばかりが前面に押し出されて、それがあたかも真の姿であるように言われても反吐が出る。それが過剰な部分であり、日常では在らざるものであるからこそ美しく見えるのだ。
★
この文章は正確さに欠ける。別な機会に書き直そう。
★
「僕の彼女はサイボーグ」を観ていても思ったのだけれど、対象の選択肢は少なければ少ないほどロマンティックだな。出会い過ぎれば愛情は散り散りになってしまって、特定の誰かを大事にするというのは無理な相談である。それが妄想であれ執着であれプログラムされた唯一の情報であれ、一つの使命たるものを抱えながら永らくを要して遂行される行動に強い愛情を見るのは、一体何故なのだろうか。
そこで考えたのは独占欲。自分にとって心地良く感じる要素を有する対象を我が物としたいと感じ、それが果たされたならば今度はそれを手放したくないと感ずる心情、それが恋愛感情なのではないだろうか。これなら年齢に関係なく当てはめる事が出来る。恋愛感情が刷り込みだというのは、前述の欲求を粉飾するロマンティック(正確な言葉であるロマンティシズムとは分けて考えて頂きたい。)な部分の事を指すのではないか。速やかなる欲求の成就を阻む状況に対する人間の知恵。殺伐たる現実に潤いを持たせる為の技術。知恵や技術は綿綿と受け継がれるものであり、それは人間の財産である。
段々と自分が何を書いているのかよく解らなくなってきたが、今夜この瞬間はそういう風に感じている。身も蓋もない話だが、粉飾部分ばかりが前面に押し出されて、それがあたかも真の姿であるように言われても反吐が出る。それが過剰な部分であり、日常では在らざるものであるからこそ美しく見えるのだ。
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この文章は正確さに欠ける。別な機会に書き直そう。
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「僕の彼女はサイボーグ」を観ていても思ったのだけれど、対象の選択肢は少なければ少ないほどロマンティックだな。出会い過ぎれば愛情は散り散りになってしまって、特定の誰かを大事にするというのは無理な相談である。それが妄想であれ執着であれプログラムされた唯一の情報であれ、一つの使命たるものを抱えながら永らくを要して遂行される行動に強い愛情を見るのは、一体何故なのだろうか。
フラメンコと言えば
- 2008-06-01 日曜日
- Category - Miscellaneous
- Tag - sexuality / erotica
本当は前回のエントリの末尾に書こうとしたのだけれど、これを書くとせっかく書いた記事の全てが台無しになってしまいそうな気がしたので別エントリにする事にした。
昭和期に於ける日本で、フラメンキンなどという言葉を誰も知らないような庶民の中でフラメンコと言えば西郷輝彦の「星のフラメンコ」である。
はい、何とも言えず素晴らしいですね。歌が上手いが故に言葉を無くします。んで、この曲名をパロった「腰のフラメンコ」というタイトルのアダルト・ヴィデオがかつて存在しました。しかしながら僕は見た事がない。では何故それを僕が知っているのかというと、レンタル屋のアダルト・コーナーで見かけた事があるからなのか、誰かから聞いたのか、それとも何処かで読んだのか判然としないのだが、調べてみると愛川まやという女優が主演していたらしい。見てみたいような気もするがどんな女性なのかも判らないのでさして興味は沸きません。そんな事より「腰のフラメンコ」ってあんた・・・。意味は全然解らないけれどいやらしくて馬鹿馬鹿しい事だけは解ります。
昭和期に於ける日本で、フラメンキンなどという言葉を誰も知らないような庶民の中でフラメンコと言えば西郷輝彦の「星のフラメンコ」である。
はい、何とも言えず素晴らしいですね。歌が上手いが故に言葉を無くします。んで、この曲名をパロった「腰のフラメンコ」というタイトルのアダルト・ヴィデオがかつて存在しました。しかしながら僕は見た事がない。では何故それを僕が知っているのかというと、レンタル屋のアダルト・コーナーで見かけた事があるからなのか、誰かから聞いたのか、それとも何処かで読んだのか判然としないのだが、調べてみると愛川まやという女優が主演していたらしい。見てみたいような気もするがどんな女性なのかも判らないのでさして興味は沸きません。そんな事より「腰のフラメンコ」ってあんた・・・。意味は全然解らないけれどいやらしくて馬鹿馬鹿しい事だけは解ります。
男はつらいよ〜寅次郎かもめ歌〜 / 山田洋次
ここのところ、僕の中で伊藤蘭が流行っている。対抗意見保持者として赤枕十庵氏とプチ論争を起こしかけて途中放棄したり、KS氏と伊藤蘭の顔の造作や表情に見られる色気を子細に研究したりしている。きっかけは何だっけな。確か日本放送で福山雅治がやっている魂のラジオを聴いていたら、アミューズの会長大里洋吉(一時期は渡辺プロダクションでキャンディーズのマネージャーをしていた。)がゲスト出演した際に当時のキャンディーズの話をしていて、それがとても面白かったので色々とキャンディーズについて観ていたら、当時の伊藤蘭の表情の色っぽさが妙に気になって、それからというものすっかり魅了されてしまったのである。さて、伊藤蘭の美しさについての詳しい記述は他日に譲るとして、今回はその流れで観た映画の話。偉大なるマンネリ DT 映画シリーズ「男はつらいよ」である。舞台はいつものように東京は葛飾柴又と、北海道の奥尻島。そこで伊藤蘭は酒好きで博打好きのテキ屋の娘として登場する。それがもう可愛いったらありゃしないのさ、本当に。
そして物語は進んで、すみれ(伊藤蘭の役名)が寅次郎と共に上京し、働きながら定時制高校に通う事になるのだが、或る日函館で働いていた時の恋人から下宿先でもあるとらやに電話がある。そこでそれを聞きつけたタコ社長がこう言うのだ。「もう出来たんだよボーイフレンド。近所のメッキ工場の工員か何か。色っぽいからね、すみれちゃんは。」それでおばちゃんが「あら、そうかしら?」と言えば、タコ社長は続けてこう言う。「女にはわかりませんよ、あの色気は。」と言い残して金策へ出かける。この台詞を聞けば、今僕がそう思うだけではなく、当時もそういう見方が多かったという事が判る。当時ったって1980年だが、色っぽいのよ、とにかく。











