DOG ON THE BEACH
炉心融解 / 鏡音リン
- 2012-02-11
- Category - Art
- Tag - music / animation / vocaloid / philosophy
今更な事を書くけど、久しぶりに観たので。2008年末に発表され、恐らくニコニコ動画で二度のミリオン再生を稼いだ動画。まとめてるサイトも在るし面倒なので詳細は書かないけど、これを観てると、今後の音楽制作がどういう方向に進んでいくのか色々と(余計なお世話だが)考えてしまう。これは楽曲も、歌詞も、動画も出来が良いので人気を博すのはよく解る。でもそれ以上に僕が感心するのは、ヴォーカロイドだと歌い手の持つ音域や息継ぎなどを全く考慮せずに作曲出来るという事実である。特にこの曲だと、淀みなく何処までも伸びていくヴォーカルは最大の魅力だ。当たり前だけど、まさに超人的。作曲の自由度が人類史上希に見るほど高いのだ。
どの楽曲か忘れたけど、モーツァルトが贔屓のソプラノ歌手に依頼され、そのソプラノ歌手の喉が追いつけないほどの複雑さと音域で(意地悪く)作曲して渡したら、見事歌いきられてしまったというエピソードが在ったように思うが、そんな遣り取りが発生する事も今後は無いのかも知れない。
一方、生音を好み、歌い手の声質や抑揚など、生身の人間にしか出せないような要素を音楽の重要なものとして捉えているなら、幾ら音が自由でもフェイクにしか思えないかも知れない。ただ、現在ではエフェクトのかかったヴォーカルを好む流れもあり(ex. Perfume)、当座の流れとしては二分するのかも知れない。どちらがより優れているか、というのは既に土俵違いで、音楽の何を好むのかという事になりそうな気がする。それはたぶん生活のスタイルというか、より自分の好む質感であるのかどうかという事になりそうだ。
-
因みに上記のリンク先にこの動画のクレジットが記載されていて、各担当の自サイトへ繋がってるんだけど、誰も彼も凄そうだ。もしかすると、この国の才能はこの界隈に集約されつつあるのかも知れない。
この曲もそうだけど、今を持って終末感漂う昨今の歌詞の世界観については、また別の機会に。この歌詞なんて、人を絞め殺す事を夢想(動画では、絞め殺す相手は幼い頃の自分にようだ)しておいて、挙げ句の果てには「自分が居ない世界の方が正しい」みたいな事言ってるし。一般に流通する J-POP ではまずお目にかかれない歌である。
- Last Modified : 2012-03-25
大つごもり夜話
- 2011-12-31
- Category - Art
- Tag - fiction / literature
スーパーの入口の横、壁に貼りだされたチラシを私は眺めている。仕事収めの帰り。ななめがけにした布製のバッグが肩からずり落ちそうになる。それを左手で受け止め、右手にさげたポリ袋を持ちなおす。食品売場は既におせちやその他お正月用のものばかりが並んでいて、否応も無くお祭り感がただよっている。日常で使う食材は野菜やレトルトなどのパッケージ商品があいかわらずの場所に陳列されているだけ。私はそちらの棚で買い物をすませた。
私はどうしても、こういうお祭り的な雰囲気に入りこめない。騒がしくてイヤなのだ。もしかしてそれは私の育ちのせいかもしれない。騒がしい家庭だった。私はそれがとても嫌いで、いつも独りになりたいと思っていた。
-
父はこれまでに三度会社をおこし、三度とも倒産した。そして現在四度目に挑戦中だ。家族はもちろんその渦中で翻弄される。生活の不安もかえりみずに父は私財を投資し続けた。三度目の倒産の後、ちょうど専門学校を卒業出来た私は家を出た。父はものすごく反対したが、私は負けなかった。私が欲しかったのは安定した生活だ。地道に働いていればそれなりに暮らせる毎日だ。父の影響下にいる限りそれはないと思った。私には二人の兄がいる。彼らは父の仕事を手伝う形で家にずっといるが、大人になってからは余り話したこともない。彼らは父に似た性質を持っているのか、それとも父に合わせているだけなのか、何かしら反抗している姿を見たことがない。私にとっては同類の人間だ。母だけは違うだろうと思っているが、彼女は父に従うばかりで、何か相談をしても「それはお父さんに相談しなさい」と言ってしまうような何もない人だ。そんな人達の中で暮らしていると、いつのまにか私は家族の中で孤立し、結果として独りで過ごす時間が多かった。
そんな彼らからは「おまえには表情がない」「何だか怖い」とよく言われた。そりゃそうだろう、と思う。家族の中でたった独りそこに居ることを拒否しているのだから当たり前だ。この人達はそんなこともわからないのかと、私はさらにくすぶった。でも困ったのは、私は家にいる時以外でも同じ表情をしているらしい。学校の友達にも言われたことがある。私が男の子にモテなかったのもそのせいかもしれない。学生の頃に一人だけ付き合ったことのある男の子からは、「何を考えているのか全然わからないから辛い」と言い残されてフラれた。あの時はすごく落ち込んだな。ただその場合は、付き合ってるうちに男の子の横暴な面を見てしまうと、父や兄達の事を思い出し、げんなりしてしまって私は反射的に閉じてしまうのだ。そんな時には私はきっと能面のような顔をしているのだろう。でもそれはしょうがない。しょうがないよ。だってイヤなのだ。その人から離れたくて仕方なくなってしまうのだ。
そんなことがあってから、私はさらに独りで過ごすようになった。そしてそれがとても気に入っていた。文具メーカーにデザイナとして就職した私は、毎日決まった時間に出社し、遅くなることが多いけど、一日しっかり働いて、帰りに駅のそばのスーパーで買い物をして部屋に帰る。安売りしていたお総菜をそのまま食べたり、作り置きのものを温め直して食べたり、録画していたドラマを観たり、本を読んだり、ぼんやりしたり。誰も私の邪魔をしないし、とても幸せだと思った。
固定電話は置いてないし、携帯の番号も家族には教えていない。友人や知人とはメールでのやりとりだけだから、非常識な時間に電話で起こされることもない。経済的に自立したことで、私は穏やかで理想的な生活を手にすることが出来た。私はそのことがとても誇らしい。ただほんのちょっと、これは生活が安定していて余裕があるからだと思うけど、誰かが私の生活圏内に入り込んできても、悪くはないなと思っている。それはまだ、ほんのちょっとという限定的なものだけれど。
-
レジで支払いをすませると、私はスーパーの外に出た。するとそのまわりで正月飾りを売っている人達がいた。吹いてくる風が冷たいので、マフラーをキツく巻き直しながらそれらの商品を眺めてみた。個人でやっている人がこの場所を借りて商売をしているのだろう、商品はどれも、どことなく質素な雰囲気があった。その中に、小ぶりで可愛らしいしめ飾りを見つけた。私は思わずそれを手に取り値段をたずねていた。「800円です」こんなに小さいのにそれはちょっと高いなーとは思ったのだけれど、ご祝儀のつもりで店の主人に1000円札を手渡した。
部屋に戻った私は、机のひきだしの中から両面テープを探し出して、買ったしめ飾りを玄関の扉に貼り付けた。そして、そう言えばしめ飾りの意味について正確なところを知らないな、と思って私はインターネットで調べてみた。
私は玄関の扉に貼り付けてあるしめ飾りを思い浮かべつつ、少しだけお酒をのむことにした。良い気分だった。
- - -
このエントリ内に書かれている事は大体に於いて事実と異なります。
私はどうしても、こういうお祭り的な雰囲気に入りこめない。騒がしくてイヤなのだ。もしかしてそれは私の育ちのせいかもしれない。騒がしい家庭だった。私はそれがとても嫌いで、いつも独りになりたいと思っていた。
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父はこれまでに三度会社をおこし、三度とも倒産した。そして現在四度目に挑戦中だ。家族はもちろんその渦中で翻弄される。生活の不安もかえりみずに父は私財を投資し続けた。三度目の倒産の後、ちょうど専門学校を卒業出来た私は家を出た。父はものすごく反対したが、私は負けなかった。私が欲しかったのは安定した生活だ。地道に働いていればそれなりに暮らせる毎日だ。父の影響下にいる限りそれはないと思った。私には二人の兄がいる。彼らは父の仕事を手伝う形で家にずっといるが、大人になってからは余り話したこともない。彼らは父に似た性質を持っているのか、それとも父に合わせているだけなのか、何かしら反抗している姿を見たことがない。私にとっては同類の人間だ。母だけは違うだろうと思っているが、彼女は父に従うばかりで、何か相談をしても「それはお父さんに相談しなさい」と言ってしまうような何もない人だ。そんな人達の中で暮らしていると、いつのまにか私は家族の中で孤立し、結果として独りで過ごす時間が多かった。
そんな彼らからは「おまえには表情がない」「何だか怖い」とよく言われた。そりゃそうだろう、と思う。家族の中でたった独りそこに居ることを拒否しているのだから当たり前だ。この人達はそんなこともわからないのかと、私はさらにくすぶった。でも困ったのは、私は家にいる時以外でも同じ表情をしているらしい。学校の友達にも言われたことがある。私が男の子にモテなかったのもそのせいかもしれない。学生の頃に一人だけ付き合ったことのある男の子からは、「何を考えているのか全然わからないから辛い」と言い残されてフラれた。あの時はすごく落ち込んだな。ただその場合は、付き合ってるうちに男の子の横暴な面を見てしまうと、父や兄達の事を思い出し、げんなりしてしまって私は反射的に閉じてしまうのだ。そんな時には私はきっと能面のような顔をしているのだろう。でもそれはしょうがない。しょうがないよ。だってイヤなのだ。その人から離れたくて仕方なくなってしまうのだ。
そんなことがあってから、私はさらに独りで過ごすようになった。そしてそれがとても気に入っていた。文具メーカーにデザイナとして就職した私は、毎日決まった時間に出社し、遅くなることが多いけど、一日しっかり働いて、帰りに駅のそばのスーパーで買い物をして部屋に帰る。安売りしていたお総菜をそのまま食べたり、作り置きのものを温め直して食べたり、録画していたドラマを観たり、本を読んだり、ぼんやりしたり。誰も私の邪魔をしないし、とても幸せだと思った。
固定電話は置いてないし、携帯の番号も家族には教えていない。友人や知人とはメールでのやりとりだけだから、非常識な時間に電話で起こされることもない。経済的に自立したことで、私は穏やかで理想的な生活を手にすることが出来た。私はそのことがとても誇らしい。ただほんのちょっと、これは生活が安定していて余裕があるからだと思うけど、誰かが私の生活圏内に入り込んできても、悪くはないなと思っている。それはまだ、ほんのちょっとという限定的なものだけれど。
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レジで支払いをすませると、私はスーパーの外に出た。するとそのまわりで正月飾りを売っている人達がいた。吹いてくる風が冷たいので、マフラーをキツく巻き直しながらそれらの商品を眺めてみた。個人でやっている人がこの場所を借りて商売をしているのだろう、商品はどれも、どことなく質素な雰囲気があった。その中に、小ぶりで可愛らしいしめ飾りを見つけた。私は思わずそれを手に取り値段をたずねていた。「800円です」こんなに小さいのにそれはちょっと高いなーとは思ったのだけれど、ご祝儀のつもりで店の主人に1000円札を手渡した。
部屋に戻った私は、机のひきだしの中から両面テープを探し出して、買ったしめ飾りを玄関の扉に貼り付けた。そして、そう言えばしめ飾りの意味について正確なところを知らないな、と思って私はインターネットで調べてみた。
本来の宗教的意味は、各家庭が、正月に迎える年神を祀る依り代である。ということらしい。年神様か。穏やかで優しそうだ。私の家にやってくるのがそんな人なら良いな。いや、人ではなくて神様か。私にうるさいことを言って煩わせることなく、穏やかな時間だけをもたらしてくれるのなら大歓迎だ。神様バンザイ。
私は玄関の扉に貼り付けてあるしめ飾りを思い浮かべつつ、少しだけお酒をのむことにした。良い気分だった。
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このエントリ内に書かれている事は大体に於いて事実と異なります。
冒険者たちのバラード
ふいに思い出したガンバの冒険のエンディング・テーマ。このアニメーションは子供の頃によく観てたんだけど、イタチがとても怖くて震えながら観ていた気がする。
放映バージョン
フルコーラス
昔のアニメーションのエンディング・テーマはどうしてああも暗い曲が多いのだろうか。例えばこの曲なんかはメロディの複雑さからしても、とても子供向けに作られたとは思えない。そういう時代だった、では片付けられないものがある。
放映バージョン
フルコーラス
昔のアニメーションのエンディング・テーマはどうしてああも暗い曲が多いのだろうか。例えばこの曲なんかはメロディの複雑さからしても、とても子供向けに作られたとは思えない。そういう時代だった、では片付けられないものがある。
丁稚・スターダスト
以前にも少しだけ書いたけど、近所のカクヤスでバイトしている丁稚君の話。長い間見かけていなかったのだが二月ほど前に一時的に復活した。恐らく長期の休みを利用してバイトしているのだろう。丁稚君は坊主頭から少しだけ髪の毛が伸び、部活引退後の野球部員のような中途半端にフサフサな頭をしていた。相変わらず不慣れな感じでぎくしゃくと、しかし元気一杯に動き廻っている姿を見ていると心なしか気分が和む。しかしそんな気分も店内の有線放送からハイロウズの「サンダーロード」が流れ始めた時に消し飛んだ。何故かしら僕の頭の中では、丁稚君とハイロウズという組み合わせが予め設定された役柄のようにバチコーンとマッチしたのである。ヒロトだ、甲本ヒロトがそこに居る。姿形は全く違うが、朴訥とした感じが似ている気がする。僕は心の中で唸った。これまで丁稚君の属性というか背景というものに何の感心もなかったのだけれど、これほどまでにパンクバンドが似合うとは思いもよらなかった。彼はきっとバンドを組んでいる。もしくはこれから組む予定のはずだ。僕の頭の中では目眩く妄想が繰り広げられた。
★
彼はきっと幼い頃から憧れていたプロ野球選手になるべく、中学に上がってすぐに野球部に入部しただろう。しかし身体が小さく運動能力もさして高くないどころか結構低い、つまりドンくさい彼は三年間の地道な努力も報われず、結局最期まで補欠であった。中学三年の夏、夏の大会のレギュラー選出に洩れた彼は、予てから夢見ていた世界が脆くもガラス細工のように崩れていくような感覚を覚えた。思い描いていた自分自身の姿に成れなかった自分。その事実を受け容れ難くもがき苦しんだが、もうどうしようもなかった。人生初めての大きな挫折である。しかし、それでも根が真面目な彼は、夏の大会を裏方としてこれまた地道にサポートし、そして大会終了と共に彼の野球人生は終わった。
--
秋頃の彼は老人のようであった。日々を生きる目的を失い、呆然として毎日を過ごしていた。授業が終わればそのまま帰ってしまえばいいものを、いつまでも放課後の教室に残り、かと言って誰かと馬鹿話をする訳でもなく、ただぼんやりと紅く染まり始めた雲を眺めたりしていた。そして彼の役割として、突然背後からクラスメートの誰かから頭を叩かれたりするのだが、それも彼にはどうでも良い事だった。諦念。何事も諦めが肝心で、自分はそうして生きていくしかないのだ。そう考えては、夕陽に紅く染めた頬に涙を流す事さえあった。
そんな或る日の夜の事。彼は自宅の居間に寝っ転がり鼻をほじりながら何となくテレビを眺めていた。ケーブルテレビのミュージック・チャンネル。音楽にはさして感心が持てず、これまでにCDを買った事など一度もない彼であったが、2歳下の妹が部屋で聴いている音楽くらいは一応耳にしていた。そしてこの番組も妹の希望で契約に組み込まれているもので、今も妹はサラダ一番をポリポリと囓りながらエグザイルのPVを食い入るように観ている。なんかなあ、なんかなんだよなあ。恋とか愛とか愛とか恋とか歌われてもピンと来ないんだよなあ。それに何だ、この人数の多さは。彼は相変わらず鼻をほじりながらぼんやりとそう思っていた。右の鼻の穴をほじり終えると、今度は左の鼻の穴をほじった。
「ちょっとタカシぃ」
彼は妹から呼び捨てにされている。身長の差がないからだろうか。それにしても、と彼は考える。その最期の「シぃ」の部分の「い」の発音に若干の「う」が混ざったような妙な言葉遣いはどうにかならないのか。自分は勿論大っ嫌いだが、冷静に考えても世界中の人間はそれを嫌うんじゃないだろうか。彼はこれまで何度も注意しようかと考えたが、既に妹は彼の言う事に耳を貸す事などなくなっており、それどころかその事が妹の機嫌を損なうと色々面倒なので、結局何も言わないでいた。
「なに」
「そんなとこで鼻ほじんじゃねえよ。気持ち悪いんだよ」
どう、この言い草。一体何様のつもりなんだろうか。彼は鼻をほじる手を休めずそう考える。いちいち突っかかるような言い方しやがって。そんな風に他人を乱暴に扱えば、他人からも同じように乱暴に扱われてしまうというのがどうして解らないんだこのクソ女。そう言いたかったが、実のところ彼の妹は結構モテているらしい。中学一年にして既にギャル化が始まっており、自分の僅かながらの資産と親にねだった資金を使ってキラキラと着飾り始めた妹は、周囲の男どもの感心を惹きつける事にやっきになっていて、事実それが成功している。その事がどうしても納得がいかず彼は苛立った。
「うっせーな、オレの勝手だろ」
「勝手じゃねーよ気持ち悪いってんだよ、死ね!」
ちょうどエグザイルのPVが終わり場面が切り替わるところだった。サラダ一番の大袋を丸ごと投げつけられ、更に太腿に蹴りを入れられた瞬間、テレビの画面には目を剥いて絶叫する男の顔が大写しになった。どこかの会場でのライブ映像のようであった。絶叫していた男は、ステージの上を忙しく動き回り、ぴょんぴょん撥ねて妙にはっきりと聞こえる日本語で歌っていた。彼はその男に釘付けになった。ひどく痩せていて虚弱そうに見えるその男は、全身から汗を吹き出しながら懸命に叫び歌っていた。
「なにこれ。うざ」
そう吐き捨ててチャンネルを変えようとする妹に、彼は飛びかかりリモコンを奪った。
「何すんだよこのキチガイ!」
「うるっせーな!オマエが出てけ!」
顔を真っ赤にして震えている妹を尻目に、というかそちらを見ようともせずに彼はテレビ画面に齧り付いた。テレビの中の男は歌い続けていた。叫び続けていた。前へ前へ。外へ外へ。独りである事を誇らしげに口ずさんでいた。彼はいつの間にかテレビに向かって「これだ。これだ」と嘆きながら、心の中で強く強く「この人みたいになりたい」と思っていた。
--
彼は考えた。朝ご飯を食べている時も、授業中も。弁当を食べている時も。通学路の川縁を歩いている時も。晩ご飯を食べている時も。風呂に浸かっている時も。布団の中でも真っ暗な天井を見つめながら。あんな風になるには一体どうしたらいいのか。とにかくバンドを組めば良いような気がする。でもどうやって。彼はこれまで考えた事もなかった種類の欲求が突然自分の中に生まれた事に心底驚き、そういう自分自身を持て余していた。
一週間の間、彼は散々考え抜いた挙げ句にようやく落ち着いた。どう考えても一足飛びにあのような輝きを持つ人間に自分が成れるはずはない。取り敢えず自分の出来る事からこつこつとやっていくしかない。そう思いついた彼は、居ても立っても居られずにそれまで自分の知らなかった世界を知るべく情報収集に奔走し始めた。TSUTAYAでハイロウズのCDを片っ端からレンタルし、妹が留守している間に彼女が所有しているミニコンポでMDに落とし、ジャージでも買おうと溜めていたお年玉を使って一番安いポータブルのMDプレイヤーでそれを繰り返し聴いた。聴けば聴くほど好きになった。このバンドの一員になりたい、更にいうならこの音そのものになりたい。彼の欲求はエスカレートするばかりであったが、それが衝動だけでどうにか出来る訳ではない事も解っていた。
彼は歌いたかったが、演奏してくれるバンドは居ない。カラオケなんかじゃどうしようもないし、観てくれる人もいない。とにかく音を出したかった。音楽の一部になりたかった。彼は取り合えず、バンドと言えないまでも音を出せる最小単位を目指した。自分でギターを弾いて自分で歌う。今のところはそれしかないように思えた。
そう決めてしまうと、今度はギターの事ばかりが彼の頭の中を占めるようになった。カッコ良さでいうならやはりエレキギターが欲しいのだけれど、独りでやるならフォークギターにした方が良いのだろうか。だいいちエレキギターを弾きながら独りで歌ってる人なんて見た事がないし。とにかく、ギターを手に入れる事だけは決めた。手に入れるには金が要る。勿論彼はそんな持ち合わせはない。
バイトしなきゃなあ。何処で働こうか。自宅から近くて、夕方から夜にかけて出来るようなバイト。やっぱりコンビニか。彼は放課後、自転車に乗って近所を徘徊しはじめた。バイト先を探すためだ。近所には幾つかのコンビニが在って、そのどれもがバイトを募集していた。しかし深夜の枠でなければ大した時給は貰えず、それだとギターを買えるのが随分先の事になってしまう。出来るだけ早くにギターを手にしたい彼は他の業種を探そうと考えた。そうして線路脇の道をふらふらと自転車を漕いでいる時、店先に掲げられたバイト募集の広告を見つけた。酒のディスカウントショップだった。時給もなかなか良い。レジ打ちだけでなく、重い酒瓶の棚卸しや配達があるからそれだけ高いのだろう。彼はバイクの免許を持ってはいなかったが、それでも雇ってくれればと少し迷った後、店の中に足を踏み入れた。
★
と、こんな事情で丁稚君はバイトしているんじゃないかな。たぶん。
★
彼はきっと幼い頃から憧れていたプロ野球選手になるべく、中学に上がってすぐに野球部に入部しただろう。しかし身体が小さく運動能力もさして高くないどころか結構低い、つまりドンくさい彼は三年間の地道な努力も報われず、結局最期まで補欠であった。中学三年の夏、夏の大会のレギュラー選出に洩れた彼は、予てから夢見ていた世界が脆くもガラス細工のように崩れていくような感覚を覚えた。思い描いていた自分自身の姿に成れなかった自分。その事実を受け容れ難くもがき苦しんだが、もうどうしようもなかった。人生初めての大きな挫折である。しかし、それでも根が真面目な彼は、夏の大会を裏方としてこれまた地道にサポートし、そして大会終了と共に彼の野球人生は終わった。
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秋頃の彼は老人のようであった。日々を生きる目的を失い、呆然として毎日を過ごしていた。授業が終わればそのまま帰ってしまえばいいものを、いつまでも放課後の教室に残り、かと言って誰かと馬鹿話をする訳でもなく、ただぼんやりと紅く染まり始めた雲を眺めたりしていた。そして彼の役割として、突然背後からクラスメートの誰かから頭を叩かれたりするのだが、それも彼にはどうでも良い事だった。諦念。何事も諦めが肝心で、自分はそうして生きていくしかないのだ。そう考えては、夕陽に紅く染めた頬に涙を流す事さえあった。
そんな或る日の夜の事。彼は自宅の居間に寝っ転がり鼻をほじりながら何となくテレビを眺めていた。ケーブルテレビのミュージック・チャンネル。音楽にはさして感心が持てず、これまでにCDを買った事など一度もない彼であったが、2歳下の妹が部屋で聴いている音楽くらいは一応耳にしていた。そしてこの番組も妹の希望で契約に組み込まれているもので、今も妹はサラダ一番をポリポリと囓りながらエグザイルのPVを食い入るように観ている。なんかなあ、なんかなんだよなあ。恋とか愛とか愛とか恋とか歌われてもピンと来ないんだよなあ。それに何だ、この人数の多さは。彼は相変わらず鼻をほじりながらぼんやりとそう思っていた。右の鼻の穴をほじり終えると、今度は左の鼻の穴をほじった。
「ちょっとタカシぃ」
彼は妹から呼び捨てにされている。身長の差がないからだろうか。それにしても、と彼は考える。その最期の「シぃ」の部分の「い」の発音に若干の「う」が混ざったような妙な言葉遣いはどうにかならないのか。自分は勿論大っ嫌いだが、冷静に考えても世界中の人間はそれを嫌うんじゃないだろうか。彼はこれまで何度も注意しようかと考えたが、既に妹は彼の言う事に耳を貸す事などなくなっており、それどころかその事が妹の機嫌を損なうと色々面倒なので、結局何も言わないでいた。
「なに」
「そんなとこで鼻ほじんじゃねえよ。気持ち悪いんだよ」
どう、この言い草。一体何様のつもりなんだろうか。彼は鼻をほじる手を休めずそう考える。いちいち突っかかるような言い方しやがって。そんな風に他人を乱暴に扱えば、他人からも同じように乱暴に扱われてしまうというのがどうして解らないんだこのクソ女。そう言いたかったが、実のところ彼の妹は結構モテているらしい。中学一年にして既にギャル化が始まっており、自分の僅かながらの資産と親にねだった資金を使ってキラキラと着飾り始めた妹は、周囲の男どもの感心を惹きつける事にやっきになっていて、事実それが成功している。その事がどうしても納得がいかず彼は苛立った。
「うっせーな、オレの勝手だろ」
「勝手じゃねーよ気持ち悪いってんだよ、死ね!」
ちょうどエグザイルのPVが終わり場面が切り替わるところだった。サラダ一番の大袋を丸ごと投げつけられ、更に太腿に蹴りを入れられた瞬間、テレビの画面には目を剥いて絶叫する男の顔が大写しになった。どこかの会場でのライブ映像のようであった。絶叫していた男は、ステージの上を忙しく動き回り、ぴょんぴょん撥ねて妙にはっきりと聞こえる日本語で歌っていた。彼はその男に釘付けになった。ひどく痩せていて虚弱そうに見えるその男は、全身から汗を吹き出しながら懸命に叫び歌っていた。
「なにこれ。うざ」
そう吐き捨ててチャンネルを変えようとする妹に、彼は飛びかかりリモコンを奪った。
「何すんだよこのキチガイ!」
「うるっせーな!オマエが出てけ!」
顔を真っ赤にして震えている妹を尻目に、というかそちらを見ようともせずに彼はテレビ画面に齧り付いた。テレビの中の男は歌い続けていた。叫び続けていた。前へ前へ。外へ外へ。独りである事を誇らしげに口ずさんでいた。彼はいつの間にかテレビに向かって「これだ。これだ」と嘆きながら、心の中で強く強く「この人みたいになりたい」と思っていた。
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彼は考えた。朝ご飯を食べている時も、授業中も。弁当を食べている時も。通学路の川縁を歩いている時も。晩ご飯を食べている時も。風呂に浸かっている時も。布団の中でも真っ暗な天井を見つめながら。あんな風になるには一体どうしたらいいのか。とにかくバンドを組めば良いような気がする。でもどうやって。彼はこれまで考えた事もなかった種類の欲求が突然自分の中に生まれた事に心底驚き、そういう自分自身を持て余していた。
一週間の間、彼は散々考え抜いた挙げ句にようやく落ち着いた。どう考えても一足飛びにあのような輝きを持つ人間に自分が成れるはずはない。取り敢えず自分の出来る事からこつこつとやっていくしかない。そう思いついた彼は、居ても立っても居られずにそれまで自分の知らなかった世界を知るべく情報収集に奔走し始めた。TSUTAYAでハイロウズのCDを片っ端からレンタルし、妹が留守している間に彼女が所有しているミニコンポでMDに落とし、ジャージでも買おうと溜めていたお年玉を使って一番安いポータブルのMDプレイヤーでそれを繰り返し聴いた。聴けば聴くほど好きになった。このバンドの一員になりたい、更にいうならこの音そのものになりたい。彼の欲求はエスカレートするばかりであったが、それが衝動だけでどうにか出来る訳ではない事も解っていた。
彼は歌いたかったが、演奏してくれるバンドは居ない。カラオケなんかじゃどうしようもないし、観てくれる人もいない。とにかく音を出したかった。音楽の一部になりたかった。彼は取り合えず、バンドと言えないまでも音を出せる最小単位を目指した。自分でギターを弾いて自分で歌う。今のところはそれしかないように思えた。
そう決めてしまうと、今度はギターの事ばかりが彼の頭の中を占めるようになった。カッコ良さでいうならやはりエレキギターが欲しいのだけれど、独りでやるならフォークギターにした方が良いのだろうか。だいいちエレキギターを弾きながら独りで歌ってる人なんて見た事がないし。とにかく、ギターを手に入れる事だけは決めた。手に入れるには金が要る。勿論彼はそんな持ち合わせはない。
バイトしなきゃなあ。何処で働こうか。自宅から近くて、夕方から夜にかけて出来るようなバイト。やっぱりコンビニか。彼は放課後、自転車に乗って近所を徘徊しはじめた。バイト先を探すためだ。近所には幾つかのコンビニが在って、そのどれもがバイトを募集していた。しかし深夜の枠でなければ大した時給は貰えず、それだとギターを買えるのが随分先の事になってしまう。出来るだけ早くにギターを手にしたい彼は他の業種を探そうと考えた。そうして線路脇の道をふらふらと自転車を漕いでいる時、店先に掲げられたバイト募集の広告を見つけた。酒のディスカウントショップだった。時給もなかなか良い。レジ打ちだけでなく、重い酒瓶の棚卸しや配達があるからそれだけ高いのだろう。彼はバイクの免許を持ってはいなかったが、それでも雇ってくれればと少し迷った後、店の中に足を踏み入れた。
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と、こんな事情で丁稚君はバイトしているんじゃないかな。たぶん。
- Last Modified : 2009-06-04
小五郎 05
去年の冬辺りから小五郎の姿を見かける事がなく気になっていたのだけれど、時期を同じくして夫人の姿も見る事がなかったので、行方を尋ねる相手もおらず、結局、寒い季節なのだから外には出たくないのだろうと考える事にしていた。ところが、年を越し春が訪れて暖かくなってきた頃に、物凄く久しぶりに小五郎と夫人が通路で戯れているところに出会す。この日の夫人は寝間着にガウンを羽織っただけの姿で、そして完全にノーメイクであった。学生の頃ならいざ知らず、家族でもないし恋人でもない女性の化粧を落とした素顔を見知っているというのは、実に微妙な気持ちになるものだ。その顔に深く刻まれた皺の示す時間の経緯を何一つ知らないのだから、何となく怖い気もしてくる。しかし夫人そんな状況にまったく頓着しない様子で、こちらからは何も尋ねていないのに勝手に喋り始めた。
どうやら小五郎はリンパ系の癌を患っていたらしい。リンパ系、と言われてもよく解らないが、夫人にしてもよく解っていないようなので病状に関する詳しい事は言わなかった。そう言えば去年の冬に姿を見かけなくなる少し前辺りから、僕が声をかけても小五郎は大儀そうに尻尾を動かすだけだったり、果てには何一つ反応しない事が続いていた。小五郎が僕に対して腹の立つ態度を示すのは茶飯事であったので、僕はさして気に止めていなかったのだが、実はあの時既に病に因り反応すら返す事が出来なくなっていたのかも知れない。小五郎は季節毎に体重の変動が激しく、その時はかなり痩せていたように思う。
夫人は小五郎が日増しに元気を無くしていく事を不審に思い獣医に診せたところ、癌との診断が下され、取り敢えず投薬に因る治療を続けながらも、これはもう駄目だろうと自分の部屋に小五郎を連れ帰って、最期を看取ろうという腹づもりであったらしい。小五郎もかなり弱っていたので大人しく夫人の部屋で寝て過ごしいたのだが、思いの外それ以上悪くなる事はなく、徐々に体力を回復させ続け、遂に数日前に部屋から外へ出る事が出来たのだという。
★
これが昨冬来の顛末である。小五郎は幾分ふくよかになった腹を敷石に擦りつけたり、ごろごろと転がり腹を見せて夫人に甘えてみせたり、隣家の植栽に顔を突っ込んで僕には見えない何かを探していたりする。春は再生の季節というが、小五郎もまた再生したのだった。
- - -
このエントリ内に書かれている事は大体に於いて事実と異なります。
どうやら小五郎はリンパ系の癌を患っていたらしい。リンパ系、と言われてもよく解らないが、夫人にしてもよく解っていないようなので病状に関する詳しい事は言わなかった。そう言えば去年の冬に姿を見かけなくなる少し前辺りから、僕が声をかけても小五郎は大儀そうに尻尾を動かすだけだったり、果てには何一つ反応しない事が続いていた。小五郎が僕に対して腹の立つ態度を示すのは茶飯事であったので、僕はさして気に止めていなかったのだが、実はあの時既に病に因り反応すら返す事が出来なくなっていたのかも知れない。小五郎は季節毎に体重の変動が激しく、その時はかなり痩せていたように思う。
夫人は小五郎が日増しに元気を無くしていく事を不審に思い獣医に診せたところ、癌との診断が下され、取り敢えず投薬に因る治療を続けながらも、これはもう駄目だろうと自分の部屋に小五郎を連れ帰って、最期を看取ろうという腹づもりであったらしい。小五郎もかなり弱っていたので大人しく夫人の部屋で寝て過ごしいたのだが、思いの外それ以上悪くなる事はなく、徐々に体力を回復させ続け、遂に数日前に部屋から外へ出る事が出来たのだという。
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これが昨冬来の顛末である。小五郎は幾分ふくよかになった腹を敷石に擦りつけたり、ごろごろと転がり腹を見せて夫人に甘えてみせたり、隣家の植栽に顔を突っ込んで僕には見えない何かを探していたりする。春は再生の季節というが、小五郎もまた再生したのだった。
- - -
このエントリ内に書かれている事は大体に於いて事実と異なります。
小五郎 04
前回小五郎は女にモテるという話をしたが、では男にはモテないのか。これについては些か判断が難しい。このマンションには僕が知っているだけで5人の男が住んでいる。少ないような気がするだろうが、小さなマンションだし空き部屋も在るようなのでこれが住人の男の全てだろう。男女の比率で言えば若干女が多いくらいだろうか。そんな中、男の住人が小五郎に対して何かしら声をかけたり頭を撫でたりしているところを僕は見た事がない。通行人にしたってそうだ。この事実だけを元とすれば小五郎は男にはモテない、という事になる。しかしながら、僕が他の住人達を顔を合わせる事は非常に少ない故、僕の窺い知らぬところで小五郎は可愛がられているのかも知れない。世の中には猫好きの男なんてたくさん居ると思うのでその可能性は否定出来ない。それにしても、一度も見た事がないのは何故なのだろうか。どうも腑に落ちない。まさか小五郎が雄猫だからという理由ではあるまい。
そして僕の場合、小五郎を見かければ必ず声はかけるし手近に居れば頭を撫でる。日に拠って逃げられてしまうのは、僕が時々尻尾を引っ張ったりして悪戯をするせいなのだろう。声をかけたり頭を撫でたりする事も含め、どうしてもちょっかいを出さずにはいられないのだ。これはもう僕個人の癖というしかない。猫に限らず、昔実家で飼っていた犬にもそうだったし、気に入った女が居れば必ずそういう事をしてしまうのだ。そしてこういう事を続けていれば、何れは嫌われてしまうというのがオチだ。小五郎にしても、神妙な面持ちで頭を撫でさする事を許しているが何処かしら警戒している雰囲気が在る。
気がついた事がひとつ。小五郎は僕や他の愛好者達の前では決して鳴かないのだ。大人しく可愛がられてはいるが声を発する事がない。しかし静枝夫人が一緒に居る場合だけは何故かしら如何にも猫らしい声で鳴くのだ。日が沈み、だいたい晩の七時頃になると夫人は小五郎に餌を与える為に部屋から出てくる。その音を聞きつけた時の小五郎の態度ったらないのだ。そこまでやるかと思う程に甘ったるい声で鳴いて夫人を呼び寄せ賞賛する。その間どんなに口汚く夫人から罵られようと鳴き続ける事を止めない。何というか、何処までも己の欲求に従い一番効果的だと思える行動を取る。その正直さには恐れ入るものがあり、愛でられる側の強みと言おうか実に羨ましい限りである。
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このエントリ内に書かれている事は大体に於いて事実と異なります。
そして僕の場合、小五郎を見かければ必ず声はかけるし手近に居れば頭を撫でる。日に拠って逃げられてしまうのは、僕が時々尻尾を引っ張ったりして悪戯をするせいなのだろう。声をかけたり頭を撫でたりする事も含め、どうしてもちょっかいを出さずにはいられないのだ。これはもう僕個人の癖というしかない。猫に限らず、昔実家で飼っていた犬にもそうだったし、気に入った女が居れば必ずそういう事をしてしまうのだ。そしてこういう事を続けていれば、何れは嫌われてしまうというのがオチだ。小五郎にしても、神妙な面持ちで頭を撫でさする事を許しているが何処かしら警戒している雰囲気が在る。
気がついた事がひとつ。小五郎は僕や他の愛好者達の前では決して鳴かないのだ。大人しく可愛がられてはいるが声を発する事がない。しかし静枝夫人が一緒に居る場合だけは何故かしら如何にも猫らしい声で鳴くのだ。日が沈み、だいたい晩の七時頃になると夫人は小五郎に餌を与える為に部屋から出てくる。その音を聞きつけた時の小五郎の態度ったらないのだ。そこまでやるかと思う程に甘ったるい声で鳴いて夫人を呼び寄せ賞賛する。その間どんなに口汚く夫人から罵られようと鳴き続ける事を止めない。何というか、何処までも己の欲求に従い一番効果的だと思える行動を取る。その正直さには恐れ入るものがあり、愛でられる側の強みと言おうか実に羨ましい限りである。
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- Last Modified : 2008-10-31
小五郎 03
世の中には猫が嫌い、そもそも動物が嫌いという人は結構居るようで、このマンションの通りに面した残りの三方の内二方を猫嫌いな民家に囲まれている。小五郎に限った事ではないが、近所の野良猫どもは家々の塀の上や犬走をそれこそ走り回り、己を嫌う人間達に平気のへの字で嫌悪感を抱かせ続けている。その事に業を煮やしたその二軒が区の保健所に苦情を申し付け、或る日突然マンションの敷地内に鉄骨とコンクリートを用いた鼠返しならぬ猫返しを設置したのである。この行いを目の当たりにした静枝夫人は怒り心頭に発し、この猫返しの設置を許可した管理会社の担当者を散々に苛め続けたのであるが、結局は折れたようだ。それもそのはず、このマンションでは動物を飼ってはいけない事になっている。
それから暫くした後に、小五郎がこの猫返しの上から地面へ飛び降りる際に着地に失敗して脚に怪我を負うという事件が起きるのだけれど、この時の事は根深い恨み節となって僕は夫人から幾度となく聞かされる事となった。
そんな風に時には憂き目に遭う小五郎であったが、基本的には人気者である。特に女には。寒い季節でもなければ大体は、マンションの入口付近にいつも駐めてあるスクーターのシートの上に鎮座し通りを眺めている事の多い小五郎であるが、元来が美しい猫であるせいか、往来を行き交う女達の何割かは小五郎を見遣りながら通り過ぎていく。そんな時小五郎は面前を通り過ぎる人間の事など気にする様子もなく澄ました顔で通りを眺めている。やがてその内の何人かは小五郎にそっと近づき頭を撫でようとするのだが、ここからが小五郎の本領が発揮される。自分を可愛がりたいという欲求を持つ人間に対してどういう態度を取れば良いか実によく心得ている。頭に手を置かれても決して退いたりせず、ほんの少し首をすくめたまま、人間の思うがままに撫でさせる。そして人間が十分だと思う少し手前くらいに、今度は小五郎の方から頭をその置かれた手に押しつけていくのである。そんな事をされると人間の側としては嬉しくって仕方がないようで、撫でさする手の動きを早め口元に笑みを浮かべてすらいる。ここまでも人間の驕慢さを熟知した猫もそうは居まい。小五郎は決して野良ではなく、人間に飼われる事に拠ってもたらされる恩恵を最大限に活用して生き長らえてきた、言わば遣り手の放蕩猫である。
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それから暫くした後に、小五郎がこの猫返しの上から地面へ飛び降りる際に着地に失敗して脚に怪我を負うという事件が起きるのだけれど、この時の事は根深い恨み節となって僕は夫人から幾度となく聞かされる事となった。
そんな風に時には憂き目に遭う小五郎であったが、基本的には人気者である。特に女には。寒い季節でもなければ大体は、マンションの入口付近にいつも駐めてあるスクーターのシートの上に鎮座し通りを眺めている事の多い小五郎であるが、元来が美しい猫であるせいか、往来を行き交う女達の何割かは小五郎を見遣りながら通り過ぎていく。そんな時小五郎は面前を通り過ぎる人間の事など気にする様子もなく澄ました顔で通りを眺めている。やがてその内の何人かは小五郎にそっと近づき頭を撫でようとするのだが、ここからが小五郎の本領が発揮される。自分を可愛がりたいという欲求を持つ人間に対してどういう態度を取れば良いか実によく心得ている。頭に手を置かれても決して退いたりせず、ほんの少し首をすくめたまま、人間の思うがままに撫でさせる。そして人間が十分だと思う少し手前くらいに、今度は小五郎の方から頭をその置かれた手に押しつけていくのである。そんな事をされると人間の側としては嬉しくって仕方がないようで、撫でさする手の動きを早め口元に笑みを浮かべてすらいる。ここまでも人間の驕慢さを熟知した猫もそうは居まい。小五郎は決して野良ではなく、人間に飼われる事に拠ってもたらされる恩恵を最大限に活用して生き長らえてきた、言わば遣り手の放蕩猫である。
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- Last Modified : 2008-10-20






