DOG ON THE BEACH
雨垂れの快楽
- 2010-06-20
- Category - Days
- Tag - diary / environment
僕が小学校低学年の頃の話。
学校の隣には寺が在り、見上げるような山門と砂利を敷いた参道が延びる割と大きな仏閣であった。僕らは毎日、学校の帰り道にこの寺の境内を抜けて帰った。何故なら、境内やその一角の広場は僕らの恰好の遊び場であったからだ。帰り際の教室で約束を交わして其処に集まる時もあったし、後から通りかかった際にメンバーに加えて貰う事もあった。缶蹴りをしたり、フワフワボールで野球をしたりして毎日隈無く遊んでいた。樹木も多かったので、蝉取りもしていた気がする。とにかくあらゆる方法を使って遊んでいたのだ。
しかし記憶の隅に、独りで境内に佇む自分の姿が見える。比喩ではなく、確かに一人きりで其処に居た記憶がある。季節は夏の初めで、一体どういう事情だったのか憶えていないが、山門の近くに、恐らく営繕用に備えられた木材を積んだ場所が在り、山門の屋根で雨を凌ぎながらも僕はその近くに座り込んでいた。其処で何をしていたのかというと、何もせずにじっとしていただけである。
雨が無数の木の葉を叩き、屋根を流れて地面に落ちる様を僕はただ眺めていた。雨を吸い込んだ樹木と土は匂いを放ち、僕をそれを胸一杯に吸い込んで、何処までも落ちていくような不可思議な感覚を楽しんでいた。そういうのを誰かと共有した記憶はないから、恐らくその為に独りでいたのかも知れない。何となく気持ちの良い事を、誰かに説明する言葉を持たなかったから、そうするしかなかったのだろう。
大人になると、こういう事を言葉にする事が出来て嬉しく思う。堂々と公言出来るし、なんなら誰かと一緒に愉しむ事も出来る。でもまあ、そういう事に感心を持たない人も居るので、それだから面と向かっては余り話さないのだろうな。「え? なんで?」とか言われるとがっかりするし。
★
それから10年以上経って、ショパンの「雨だれ」という曲を知り、視覚や嗅覚だけではなく、聴覚でも雨を愉しんでいた事に気付いた。音は記憶に残りにくいものなのだろうか。一時期は雨の日が嫌いで仕方がなかったが、今では当時と同じような感覚で愉しんでいる。何がきっかけなのか判らないけど、そんな原始的とも言えそうな愉しみを取り戻せて嬉しい。ただし、雨の勢いに拠るけどね。風の強い日や土砂降りはどうも愉しめない。
学校の隣には寺が在り、見上げるような山門と砂利を敷いた参道が延びる割と大きな仏閣であった。僕らは毎日、学校の帰り道にこの寺の境内を抜けて帰った。何故なら、境内やその一角の広場は僕らの恰好の遊び場であったからだ。帰り際の教室で約束を交わして其処に集まる時もあったし、後から通りかかった際にメンバーに加えて貰う事もあった。缶蹴りをしたり、フワフワボールで野球をしたりして毎日隈無く遊んでいた。樹木も多かったので、蝉取りもしていた気がする。とにかくあらゆる方法を使って遊んでいたのだ。
しかし記憶の隅に、独りで境内に佇む自分の姿が見える。比喩ではなく、確かに一人きりで其処に居た記憶がある。季節は夏の初めで、一体どういう事情だったのか憶えていないが、山門の近くに、恐らく営繕用に備えられた木材を積んだ場所が在り、山門の屋根で雨を凌ぎながらも僕はその近くに座り込んでいた。其処で何をしていたのかというと、何もせずにじっとしていただけである。
雨が無数の木の葉を叩き、屋根を流れて地面に落ちる様を僕はただ眺めていた。雨を吸い込んだ樹木と土は匂いを放ち、僕をそれを胸一杯に吸い込んで、何処までも落ちていくような不可思議な感覚を楽しんでいた。そういうのを誰かと共有した記憶はないから、恐らくその為に独りでいたのかも知れない。何となく気持ちの良い事を、誰かに説明する言葉を持たなかったから、そうするしかなかったのだろう。
大人になると、こういう事を言葉にする事が出来て嬉しく思う。堂々と公言出来るし、なんなら誰かと一緒に愉しむ事も出来る。でもまあ、そういう事に感心を持たない人も居るので、それだから面と向かっては余り話さないのだろうな。「え? なんで?」とか言われるとがっかりするし。
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それから10年以上経って、ショパンの「雨だれ」という曲を知り、視覚や嗅覚だけではなく、聴覚でも雨を愉しんでいた事に気付いた。音は記憶に残りにくいものなのだろうか。一時期は雨の日が嫌いで仕方がなかったが、今では当時と同じような感覚で愉しんでいる。何がきっかけなのか判らないけど、そんな原始的とも言えそうな愉しみを取り戻せて嬉しい。ただし、雨の勢いに拠るけどね。風の強い日や土砂降りはどうも愉しめない。
床屋とサンデーソングブック
- 2009-09-06
- Category - People
- Tag - music / installation / environment
近所の床屋に通うようになって随分経つ。その床屋は基本的に主人夫婦で営んでいて、何年か毎に入れ替わるインターンがそれに加わる。ずっと前は先代の爺さんが昔馴染みの客が訪れた場合のみ鋏を握っていたが、何年か前に完全に引退した。余りにも長い間通い続けていると、この店の推移までも見て取れるので、妙に感慨深い気持ちになったりもする。
この店は自宅が併設されており、そのどちらも二階建てである。つまり店の二階にも散髪台が在る。そしてこの空間がとても気持ち良くて、それ目当てで通っていると言っても言い過ぎではない。道路に面した大きな窓からは惜しみない陽光が入り部屋を満たす。そしてどの季節に訪れても絶妙な空調が客をもてなしてくれる。一体どうすればそんなにも心地良い設定が出来るのか不思議に思えるくらいだ。空気がとても柔らかく、まるで微睡みの為に作られたかのようだ。
そして更には、店内にはいつも東京FMが流れていて、僕は日曜の午後に訪れる事が多いせいか、山下達郎のサンデーソングブックがよく流れている。これがまたとても具合が良くて、もともとFMの音は柔らかくて好きなのだが、放送する音源自体を山下達郎が拘ってリマスターしている(具体的にどうとかは解らない)からか、耳心地の良いオールディーズが開放的な気分にさせてくれるのである。正に日曜日。幸いな事に主人は無駄に話しかけてこないので、思う様この状況を満喫出来る。
髪の毛を洗って貰ったり切って貰ったりする環境としてこれ以上はないような気がしている。だからこそ僕はこの店にずっと通い続けているのだし、これからも通い続けるだろう。こういう自分の身体に直接触れるような場所では、ほんの少しでも不快な要素があると自然と遠のいてしまうものだ。その要素が見当たらないのだから、自分の生活の中に変わることなく残しておきたいのである。
この店は自宅が併設されており、そのどちらも二階建てである。つまり店の二階にも散髪台が在る。そしてこの空間がとても気持ち良くて、それ目当てで通っていると言っても言い過ぎではない。道路に面した大きな窓からは惜しみない陽光が入り部屋を満たす。そしてどの季節に訪れても絶妙な空調が客をもてなしてくれる。一体どうすればそんなにも心地良い設定が出来るのか不思議に思えるくらいだ。空気がとても柔らかく、まるで微睡みの為に作られたかのようだ。
そして更には、店内にはいつも東京FMが流れていて、僕は日曜の午後に訪れる事が多いせいか、山下達郎のサンデーソングブックがよく流れている。これがまたとても具合が良くて、もともとFMの音は柔らかくて好きなのだが、放送する音源自体を山下達郎が拘ってリマスターしている(具体的にどうとかは解らない)からか、耳心地の良いオールディーズが開放的な気分にさせてくれるのである。正に日曜日。幸いな事に主人は無駄に話しかけてこないので、思う様この状況を満喫出来る。
髪の毛を洗って貰ったり切って貰ったりする環境としてこれ以上はないような気がしている。だからこそ僕はこの店にずっと通い続けているのだし、これからも通い続けるだろう。こういう自分の身体に直接触れるような場所では、ほんの少しでも不快な要素があると自然と遠のいてしまうものだ。その要素が見当たらないのだから、自分の生活の中に変わることなく残しておきたいのである。
秋の好きなところ
- 2009-09-03
- Category - People
- Tag - environment
すっかりと秋の色を帯び始めた今日この頃であるが、些か急な変化に戸惑っている。季節が順当に進めばまず、陽気は夏の余韻を残しつつも大気は乾き、空は涼しげな風を吹き流し、地上では黄金色の陽の光の満ちた時を過ごすはずなのであるが、何故かしら今年は気温がやけに低い。朝方に寒くて目を覚ましたりする。僕はそういう経験が本当に好きではないので、朝冷たくなってしまった水道水で顔を洗う時なんかに軽く落ち込んだりする。ああ、これから先は益々冷たくなっていく一方の水で顔を洗わねばならないのか。と、既に冬に対する恐れを抱いていたりもする。
これから僕が過ごす事になる季節にはこんなにも色々な良いところが在るのだ、と念頭に置いて暮らして行かねば、日々を繰り返していく事が憂鬱で仕方なくなってしまいそうだ。それはとても嫌なので、今年の初めにも書いたようにこの季節の良いところを揚げて行こうと思う。何故かこういう事はその度毎に思い出しておかないと、去年の事などすっかり忘れてしまっているのだ。
これから僕が過ごす事になる季節にはこんなにも色々な良いところが在るのだ、と念頭に置いて暮らして行かねば、日々を繰り返していく事が憂鬱で仕方なくなってしまいそうだ。それはとても嫌なので、今年の初めにも書いたようにこの季節の良いところを揚げて行こうと思う。何故かこういう事はその度毎に思い出しておかないと、去年の事などすっかり忘れてしまっているのだ。
- 空の高さ。
実際には雲が薄く高い位置に流れているので空を高く感じる。夏の空に比べて圧迫感が少なく何かしらほっとした気分になる。 - 虫の声。
遠くに近くに、様々な角度から聞こえてくるこの音声は、心地良い距離感をもって僕を慰める。 - 11月に一日だけ遠くから風に乗って届く畑焼きの匂い。
確認した事はないのだけれど、恐らく千葉の方から。毎年一日だけ気付く。 - 稲やススキや葦の穂が風に揺れる様。
しかしその姿にお目に掛かれる事はなかなかない。荒川の辺に葦は生い茂っているけど。 - その年に初めてセーターを下ろして頭から被った時の衣類の匂い。
- デザート・ブーツの皮の柔らかさと可愛らしさ。
今は持っていない。その内に是非手に入れたい。 - 日本酒の舌触りのまろやかさ。
- 梨のシャクシャクとした歯応え。
- 新茶の新鮮さと柔らかい味。
- 本(特に文庫本)の活字の美しさ。
何故だか知らないけどこの季節が一番目に優しくてくっきりと映る気がする。 - J.S. バッハのチェロ・ソナタ
- ジュール・マスネのタイスの瞑想曲
- Last Modified : 2009-09-03
こんなところか・・・意外と少ないな。何だか観念的な事柄が多いし。夏に脳が溶けてるから、その揺り返しかな。
そもそもハイレグとは何だったのか。
1980年代中頃、ハイレグという形状の水着が流行った。現在から見ればとても変だと僕なんかは思うのだが、その当時はハイレグこそがセクシーの代名詞であった。上のリンク先にもあるように「セクシーで人目をひく・脚が長く見える・動きやすい・涼しい」とまあ、そんな理由なのだろう。しかし僕にはセクシーというのが今一つ分からなかった。そう、僕は流行っている当時から「何処となく変だな」と思っていたのだ。ハイレグは未だ良い。鋭角に切り込んだデルタラインがスリルを感じさせるのは勿論解る。しかしその傾向が過剰となりスーパーハイレグになるともう違和感が先だってセクシーでも何でもないのだ。太腿の付け根の上まで露わになった女性の大腿部は、僕にバッタの脚を思い起こさせる。
取り敢えずこれだけ書けば僕がハイレグを好きではない事を伝える事が出来たと思う。但し競泳水着の場合はこの限りではない。あれは動きやすさ(機能性)が優先されるだろうからハイレグ以外は有り得ないと思う。実際にそれを着用して運動するにしても、鑑賞されるにしても。
★
さて、2000年を迎えると今度はローライズが流行りだした。最初こそ僕も若干の違和感を感じていたのだが、今となってはすっかり慣れてしまい、それどころかローであればローである程良い気がしている。ファスナーの長さが5cmしかないようなジーンズを穿いた女性を見かけると心の中で小躍りするくらい好きである。ハイレグの場合は無闇やたらと公明正大というか「こんなに切れ込んだわよ。どう? 好きでしょ? 申し分ないでしょ? 素晴らしいでしょ?」という感じのスポーツ感覚がどうにも白けてしまうのだが、ローライズの場合は若干の迂闊さが存在する。しかしそれとて計算し尽くした上での迂闊さなのであって、それ無しで露出されたものは「だらしなさ」でしかない。どちらかと言えば、この方が日本人のエロティシズムの感覚に近いと思う。
★
で、こういう見方ってのは理性と本能(性欲)のどちらが欲する事なのだろうか。水着や下着などの色や素材・カットなどのデザインを注視して考えるならばそれは理性だろうし、肌の露出加減や隠蔽の際どさを考えるならばそれは本能であるように思う。しかしこんな風に単純には考えられない事も一応は知っている。何も観るのは男だけとは限らないのだ。
以前に会社を辞めた元同僚(女)二人と久しぶりに会おうとホテルのカフェで待ち合わせした時の事。彼女らがやってくるのを待つ間、本を読んでやり過ごそうとしている僕の隣の席に、背が高くとてもスタイルの良い二人の女の子が座った。二人はローライズのジーンズを穿いており、席に座る際に露出した下着が見えた。オレンジと紫のどちらもレースの下着であった。どうやらそのカフェの支配人の知り合いらしく、せっかくだから来てやったわよ的な態度の二人に、支配人自ら給仕をして何やかやと世話を焼いていた。やがて元同僚の二人が登場し、珈琲を飲みながら近況などをてんでバラバラに語りつつ午後を過ごした。隣の席の二人の女の子は気付けばいつの間にか居なくなっていた。
そして散々喋って話題も無くなった頃、僕は場繋ぎに「さっき隣の席に女の子が二人座ってさ、その子達が物凄いローライズ穿いてんのよ。そんでついつい見たら紫とか黒のパンツが見えたんだよねー」と女性相手に喋るには少々難のある話題をうっかり喋ってしまったのだけれど、元同僚の二人は「え?どこどこ?」「隣?隣ってどっち?」と予想外の反応が返ってくる。「いや、もう居ないよ」と僕は答えたのだけれど「えええっ!何で直ぐに教えてくれないんですか!」とか言う。「え、どして? 見たかった?」と訊けば「当たり前じゃないですか!」とユニゾンで怒鳴られる。「えー・・・何で見たいの?」「女の子大好きなんですよ。可愛いじゃないですか! で、何処なんですか?」「だからもう居ないって」「えええええっ!!」因みにこの二人は結婚してるし、僕が知る限りではレズビアンでもない。そういう感覚は本当に解らない。男が思うエロティシズムとは別な感覚で、女は女を観ているのだろう。
★
僕に解ったのは「よくわからない」という事だけだった。
取り敢えずこれだけ書けば僕がハイレグを好きではない事を伝える事が出来たと思う。但し競泳水着の場合はこの限りではない。あれは動きやすさ(機能性)が優先されるだろうからハイレグ以外は有り得ないと思う。実際にそれを着用して運動するにしても、鑑賞されるにしても。
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さて、2000年を迎えると今度はローライズが流行りだした。最初こそ僕も若干の違和感を感じていたのだが、今となってはすっかり慣れてしまい、それどころかローであればローである程良い気がしている。ファスナーの長さが5cmしかないようなジーンズを穿いた女性を見かけると心の中で小躍りするくらい好きである。ハイレグの場合は無闇やたらと公明正大というか「こんなに切れ込んだわよ。どう? 好きでしょ? 申し分ないでしょ? 素晴らしいでしょ?」という感じのスポーツ感覚がどうにも白けてしまうのだが、ローライズの場合は若干の迂闊さが存在する。しかしそれとて計算し尽くした上での迂闊さなのであって、それ無しで露出されたものは「だらしなさ」でしかない。どちらかと言えば、この方が日本人のエロティシズムの感覚に近いと思う。
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で、こういう見方ってのは理性と本能(性欲)のどちらが欲する事なのだろうか。水着や下着などの色や素材・カットなどのデザインを注視して考えるならばそれは理性だろうし、肌の露出加減や隠蔽の際どさを考えるならばそれは本能であるように思う。しかしこんな風に単純には考えられない事も一応は知っている。何も観るのは男だけとは限らないのだ。
以前に会社を辞めた元同僚(女)二人と久しぶりに会おうとホテルのカフェで待ち合わせした時の事。彼女らがやってくるのを待つ間、本を読んでやり過ごそうとしている僕の隣の席に、背が高くとてもスタイルの良い二人の女の子が座った。二人はローライズのジーンズを穿いており、席に座る際に露出した下着が見えた。オレンジと紫のどちらもレースの下着であった。どうやらそのカフェの支配人の知り合いらしく、せっかくだから来てやったわよ的な態度の二人に、支配人自ら給仕をして何やかやと世話を焼いていた。やがて元同僚の二人が登場し、珈琲を飲みながら近況などをてんでバラバラに語りつつ午後を過ごした。隣の席の二人の女の子は気付けばいつの間にか居なくなっていた。
そして散々喋って話題も無くなった頃、僕は場繋ぎに「さっき隣の席に女の子が二人座ってさ、その子達が物凄いローライズ穿いてんのよ。そんでついつい見たら紫とか黒のパンツが見えたんだよねー」と女性相手に喋るには少々難のある話題をうっかり喋ってしまったのだけれど、元同僚の二人は「え?どこどこ?」「隣?隣ってどっち?」と予想外の反応が返ってくる。「いや、もう居ないよ」と僕は答えたのだけれど「えええっ!何で直ぐに教えてくれないんですか!」とか言う。「え、どして? 見たかった?」と訊けば「当たり前じゃないですか!」とユニゾンで怒鳴られる。「えー・・・何で見たいの?」「女の子大好きなんですよ。可愛いじゃないですか! で、何処なんですか?」「だからもう居ないって」「えええええっ!!」因みにこの二人は結婚してるし、僕が知る限りではレズビアンでもない。そういう感覚は本当に解らない。男が思うエロティシズムとは別な感覚で、女は女を観ているのだろう。
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僕に解ったのは「よくわからない」という事だけだった。
- Last Modified : 2009-03-24
伏し目のボッティチェルリ

因みにボッティチェルリがいつも伏し目がちだとかそういう話ではない。先週放映された新日曜美術館の「パリは何故芸術都市と成り得たか?」という特集を観ていると、その中で上に(全体の一部分だが)掲げたボッティチェルリの「ヴィーナスと美神」というフレスコ画が紹介された。あーこの画家の描く女の顔は好きだなあとか呑気に眺めていたら、ふいに自分がボッティチェルリの安い画集を持っている事を思いだし、書架から引っ張り出した。
何故僕はボッティチェルリの画集を持っているのだろうか。恐らく何処かで手にしたボッティチェルリの絵を観て、今回と同じ様な感想を持ち、目当ての絵が収録されている安い画集を取り敢えず買ったのだろう。きっとそうだ。しかしその画集には「ヴィーナスと美神」は載っていない。じゃあどの絵を目当てにして買ったのかと頁を捲って探してみたところ、案外に早く、しかも確信を持って見つけ出す事が出来た。どう考えてもこれだ。

「マニフィカトの聖母」この聖母の顔というか伏し目がちな表情にもの凄く惹かれる。そしてこの流れで更に思い出したのは、僕はそもそもこういう表情をする女が好きだったという事である。その事を久しぶりに思い出した。思い当たるフシは幾つかある。そう言えば緒川たまきも時々こういう表情を見せている気がする。いや気のせいかな。しかし一体何時からこういう好みの種が僕の中に植え付けられたのだろうか。学生の頃にはボッティチェルリには何の興味も持っていなかったはずなので、この絵が原型ではないと思う。その事についてはどうにも思い出せない。というのは嘘でしっかりと思い出した。思い出したのは良いが後悔で押し潰されそうである。気付かなければ良かったよ。まいったねどうも。
しとやかな獣 / オリガト・プラスティコ
一昨日、新宿は紀伊国屋ホールにて " しとやかな獣 " を観てきた。未だ観てはいないが新藤兼人脚本・川島雄三監督の原作映画には興味があったし、ケラリーノ・サンドロヴィッチの黒光りのするユーモアは好きだし、テレビドラマや映画でちょくちょく見かける近藤公園という役者も気になっていた。しかし実際のところ、書くまでもない事だが、僕は緒川たまきをどうしても観たかったのである。実際に観る緒川たまきはやはり緒川たまきであるのだが、映像や紙面で観るよりもずっとほっそりとしていて、それ故に儚げな雰囲気も持ち合わせており、いやはや可憐である。可憐なんて言葉は生まれて初めて使ったな。しかし他に上手い言葉が思い浮かばないので取り敢えずそう書いておく。
僕は上手側の前方の席に座っていたのだけれど、劇中何度となく僕の目の前で芝居が行われるので僕は気が気ではなかった。僕の眼球から計って4メートル弱の舞台上に緒川たまきが立っており、これは観る為の催しであるのだから凝視し放題である。はずなのだが直視するには余りにも目映く、僕は手をかざしたい気持ちを必至に堪えつつ瞬きをくり返しながら見つめていた。そんな事をしていては芝居を追う事なんて出来はしまいと思うだろうが、緒川たまきばかりを観ていると目眩がして仕方がないので、他の役者に注意を向けて気を紛らせていたので物語の進行を見逃す事はなかった。しかしその間も緒川たまきの白く細長い指が僕の脳裏から離れてくれない。そして、劇中で緒川たまきがソファに押し倒される場面が在るのだけれど、仰向けになった緒川たまきの額から鼻梁、顎先に至るまでの造形は信じ難いほどに美しかった。
この芝居はDVD化されたりするのだろうか。しかしそうなったとしても後方から引きで撮った映像なのだろうな。それだと見えないものが色々と在る。出来得れば、僕の眼球に写った映像をそのまま記録したい。観ている間中僕は「どうしたら良いのか判らない」状態で、メディアを通さずに見せつけられる肉体の放つ光に平伏していたのである。以前にも何かの折に書いた気がするがもう一度書く。美しさとは観る物を圧倒する強大な力である。
- Last Modified : 2009-02-09
更にしつこく、緒川たまき。
ニコニコ動画で見つけたPV物。やはり今回も埋め込まずにリンクだけ。アカウント取得の上ご鑑賞下さい。
以前にも YouTube で観ていたのだが見失って忘れていたのだ。それぞれに趣きは違うのだけれど、どちらの作品も緒川たまきは「夢の女」的な扱いで、それがまた良いんだよなあ。下衆な現実だけを見せつけられたって、それの一体何処が嬉しいのだ。そりゃあ勿論現実は現実として受け容れますが、それを夢のように愛せとは全く不条理不届き千万。死ね。馬鹿。死ね。現実を承知した上だからこそ夢は楽しいのだ。とかなんとか考えているうちに LaB LIFe の方が YouTube にも在るのを見つけた。以下に掲載。
追記:つい先日アップロードされた土曜ソリトンSIDE-B。薄々は感じていたけど、緒川たまきという人は結構いらん事を言ってしまう人なのだなあ。
以前にも YouTube で観ていたのだが見失って忘れていたのだ。それぞれに趣きは違うのだけれど、どちらの作品も緒川たまきは「夢の女」的な扱いで、それがまた良いんだよなあ。下衆な現実だけを見せつけられたって、それの一体何処が嬉しいのだ。そりゃあ勿論現実は現実として受け容れますが、それを夢のように愛せとは全く不条理不届き千万。死ね。馬鹿。死ね。現実を承知した上だからこそ夢は楽しいのだ。とかなんとか考えているうちに LaB LIFe の方が YouTube にも在るのを見つけた。以下に掲載。
追記:つい先日アップロードされた土曜ソリトンSIDE-B。薄々は感じていたけど、緒川たまきという人は結構いらん事を言ってしまう人なのだなあ。
- Last Modified : 2009-02-14






