DOG ON THE BEACH
寺と雨
僕が通っていた小学校の隣には寺が在り、小学校の裏門と、寺の裏口は道を挟んで向かい合っていた。この寺の境内を抜けた方が近道になるので、僕は通学路としてよく足を踏み入れていた。それに加えて、境内は僕らの放課後の遊び場にもなっていたので、僕はこの境内で色々な経験をしたと思う。その中で、今でも梅雨の入口で静かな雨に降られていると思い出す事がある。
さすがに小学生の頃の事なので、記憶もかなり薄れてハッキリしない事が多いが、明るい雨降りの中、僕は一人で境内の中に佇んでいた。何をしていたのかと言えば、それだけは明瞭に覚えているが、僕は雨と木々の匂いを嗅ぎたくて其処にいたのである。境内の中には大小様々な樹木が植えられており、雨水を吸い上げたそれらは豊潤な香りで境内を満たしていたのだ。僕はそれまでの短い人生の其処此処に於いて、その匂いが自分に心地良さを与える事を知り、それを思い切り満喫出来る機会を待っていたのだろう。今ではこうやって説明出来るが、その頃の僕にはその力はなく、自分の中に在る何やらモヤモヤした気持ちとして仕舞い込んでいた。なので、誰にも説明する必要が発生しない機会を心密かに待っていたのだ。恐らく、その日は友達と連れだって帰るという事はせず、こっそり自分だけ境内に潜り込んだに違いない。雨の日に誰かが遊びに来る事もないだろうし、僕は安心しきって、山門の敷居に腰掛け、膝を抱えるようにして目をつぶり、雨が葉々を打つ音を聴きながら、樹木の匂いを心ゆくまで吸い込んでいた。
今でもそのような匂いを嗅いだりすると、当時の光景を思い出すし、現在も尚あの場所に自分が居るように錯覚する。
さすがに小学生の頃の事なので、記憶もかなり薄れてハッキリしない事が多いが、明るい雨降りの中、僕は一人で境内の中に佇んでいた。何をしていたのかと言えば、それだけは明瞭に覚えているが、僕は雨と木々の匂いを嗅ぎたくて其処にいたのである。境内の中には大小様々な樹木が植えられており、雨水を吸い上げたそれらは豊潤な香りで境内を満たしていたのだ。僕はそれまでの短い人生の其処此処に於いて、その匂いが自分に心地良さを与える事を知り、それを思い切り満喫出来る機会を待っていたのだろう。今ではこうやって説明出来るが、その頃の僕にはその力はなく、自分の中に在る何やらモヤモヤした気持ちとして仕舞い込んでいた。なので、誰にも説明する必要が発生しない機会を心密かに待っていたのだ。恐らく、その日は友達と連れだって帰るという事はせず、こっそり自分だけ境内に潜り込んだに違いない。雨の日に誰かが遊びに来る事もないだろうし、僕は安心しきって、山門の敷居に腰掛け、膝を抱えるようにして目をつぶり、雨が葉々を打つ音を聴きながら、樹木の匂いを心ゆくまで吸い込んでいた。
今でもそのような匂いを嗅いだりすると、当時の光景を思い出すし、現在も尚あの場所に自分が居るように錯覚する。
近況
先々週末に熱を出して寝込み、翌日には熱は引いたが今度は喉を痛め、かつてないほどの痛みと、地獄からの咆哮が如き声の変調を経験し、そしてそれも治まったかと思いきや、今度は咳嗽が止まらず、いつまでも完治せずに低調な毎日を送っていた。しかしようやく、本日をもって回復の兆しが見え一安心しているところである。
そんな中思っていたのは、喉を痛めると、噛み砕いたものですら飲み込むのがなかなか困難で、毎日の食事が愉しみでるあるどころか苦行に近いものがあり、そうなると毎日の暮らしに張り合いが無くなる。つまり「あと一時間もすれば旨い昼飯が待っているのでそれまで頑張ろう」だとかそういう自己暗示が出来なくなるので、どうにもやってられないのである。更には刺激の強いアルコールを摂取するのも、出来ない事はないが、いささか憚られるものがあり、夜に向けての張り合いも無くなる。こうなるともう、一日中どんよりとしている。僕はどちらかと言えば小食で、美食家でもない。そこそこの物をそれなりに食べていれば、一応は満足してしまう結構安上がりな人間である。毎日同じ献立であってもさほど問題は無い。そんな僕がこんなにも参ってしまうのだから、これが大食漢であり美食家でもある人物が喉を痛めたりしたら、とんでもない大打撃なのだろうなと考えたりしていた。
そして更に厄介なのは咳嗽。咳が続くとなーんにも出来ない。観るのも読むのも何かしら手を動かすのも考えるのも、何一つ集中出来ないのですぐに放り出したくなる。夜になると、炎症止めも咳止めも薬の効力が無くなってくるせいか、喉の痛みや咳嗽がこの時間帯に集中する。もはや身体はぐったりしているし、何もする気になれないので、兎に角横になりたい。横になったからといって症状が軽くなる訳でもないのだが、そうしているのが一番楽な気がしてくるのだ。しかし眠くもないのに横になっていて、余計な考え事なんかしたくはないので、ぼんやりテレビを眺めている。大概は語学番組だ。咳が治まっている時は発音練習をしたりもする。意外にこれが心地良く過ごせるので、ここ数日は毎晩やっている。おかげで何時の間にか、英語フランス語韓国語中国語を並行して学ぶ事になってしまった。ロシア語ドイツ語イタリア語アラビア語はさすがに多すぎるので避けた。いや、既に許容範囲は超えてそうだが、始めてしまったものは仕方がない。因みにテレビ番組のプログラムは半年間行われるが、これがいつまで続くのかは判らない。成り行き次第である。
そんな中思っていたのは、喉を痛めると、噛み砕いたものですら飲み込むのがなかなか困難で、毎日の食事が愉しみでるあるどころか苦行に近いものがあり、そうなると毎日の暮らしに張り合いが無くなる。つまり「あと一時間もすれば旨い昼飯が待っているのでそれまで頑張ろう」だとかそういう自己暗示が出来なくなるので、どうにもやってられないのである。更には刺激の強いアルコールを摂取するのも、出来ない事はないが、いささか憚られるものがあり、夜に向けての張り合いも無くなる。こうなるともう、一日中どんよりとしている。僕はどちらかと言えば小食で、美食家でもない。そこそこの物をそれなりに食べていれば、一応は満足してしまう結構安上がりな人間である。毎日同じ献立であってもさほど問題は無い。そんな僕がこんなにも参ってしまうのだから、これが大食漢であり美食家でもある人物が喉を痛めたりしたら、とんでもない大打撃なのだろうなと考えたりしていた。
そして更に厄介なのは咳嗽。咳が続くとなーんにも出来ない。観るのも読むのも何かしら手を動かすのも考えるのも、何一つ集中出来ないのですぐに放り出したくなる。夜になると、炎症止めも咳止めも薬の効力が無くなってくるせいか、喉の痛みや咳嗽がこの時間帯に集中する。もはや身体はぐったりしているし、何もする気になれないので、兎に角横になりたい。横になったからといって症状が軽くなる訳でもないのだが、そうしているのが一番楽な気がしてくるのだ。しかし眠くもないのに横になっていて、余計な考え事なんかしたくはないので、ぼんやりテレビを眺めている。大概は語学番組だ。咳が治まっている時は発音練習をしたりもする。意外にこれが心地良く過ごせるので、ここ数日は毎晩やっている。おかげで何時の間にか、英語フランス語韓国語中国語を並行して学ぶ事になってしまった。ロシア語ドイツ語イタリア語アラビア語はさすがに多すぎるので避けた。いや、既に許容範囲は超えてそうだが、始めてしまったものは仕方がない。因みにテレビ番組のプログラムは半年間行われるが、これがいつまで続くのかは判らない。成り行き次第である。
待合室
例年よりも随分と早く花粉の飛散を身体で確認したので、行きつけの耳鼻咽喉科に本日登院してきた。この近隣で耳鼻咽喉科はその医院しかなく、評判も良いので毎年この季節にはかなり混雑している。そして今日もその覚悟で参じてみれば、待合室の患者の数がやけに少ない。お、これはラッキー。まだ時期が早いから症状が出てる人も少ないんだろうな、と思いながら受付に診察券と保険証を差し出すと、カウンターの上に何やらモニタが鎮座している。画面を見ると「現在の呼び出し番号」「現在の待ち人数」「現在の待ち時間」等の項目が表示されている。それをじっと見ていると受付の女性がチラシを差し出した。どうやらインターネット経由で、モニタに映し出されたのと同じ情報をパソコンや携帯電話で閲覧する事が出来るらしい。
これは便利である。これまでは一度受け付けを済ませて、一二時間後に、そろそろ順番かなーという時間に再び登院する。丁度良い時もあれば、更に数十分待つ事になる事もある。そんな具合に非常にアバウトな事をやっていたのだが、このサービスを使えばほぼジャストな時間に行く事が出来て、時間の無駄が省けるというものである。世の中便利になったものだ。
しかしながら少し残念な部分も在る。このサービスのおかげで待ち時間はほぼ無い。待合室に居るのは一人二人くらいで閑散としている。なのですぐに順番が回ってくるのであるが、そこが問題なのだ。いや、問題というほどの事でもないのだけれど、僕はお年寄りや子供やその母親や中学生や高校生の雑多な人々に混じって、明るい陽差しの中で順番を待ちながら本を読むのが好きなのである。待ち時間がほぼ無いので、その楽しみも無くなった。いやまあ、それで別に困る事はないんだだけど、少し残念である。
-
よくよく思い出してみれば、これまで通った様々な診療科目の医院の待合室は、程度の差こそあれ、どれも採光を施した部屋が多かった気がする。そして隅に誂えられた小さな本棚には、医院長の趣味であろう雑誌や、古い絵本や、時代遅れの漫画が詰め込まれていたり、金魚や小さな熱帯魚が水槽に飼われていたり、鳥籠の中でメジロが可愛らしく鳴いていたりする事がよくあった。そんな穏やかで、明るく、静かな空間は読書をするのにうってつけだったのだ。此処なら住める、とよく思ったものだ。
仕方の無い事とは言え、そういう機会を一つ失ってしまった。うっすらと寂しい土曜日である。
これは便利である。これまでは一度受け付けを済ませて、一二時間後に、そろそろ順番かなーという時間に再び登院する。丁度良い時もあれば、更に数十分待つ事になる事もある。そんな具合に非常にアバウトな事をやっていたのだが、このサービスを使えばほぼジャストな時間に行く事が出来て、時間の無駄が省けるというものである。世の中便利になったものだ。
しかしながら少し残念な部分も在る。このサービスのおかげで待ち時間はほぼ無い。待合室に居るのは一人二人くらいで閑散としている。なのですぐに順番が回ってくるのであるが、そこが問題なのだ。いや、問題というほどの事でもないのだけれど、僕はお年寄りや子供やその母親や中学生や高校生の雑多な人々に混じって、明るい陽差しの中で順番を待ちながら本を読むのが好きなのである。待ち時間がほぼ無いので、その楽しみも無くなった。いやまあ、それで別に困る事はないんだだけど、少し残念である。
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よくよく思い出してみれば、これまで通った様々な診療科目の医院の待合室は、程度の差こそあれ、どれも採光を施した部屋が多かった気がする。そして隅に誂えられた小さな本棚には、医院長の趣味であろう雑誌や、古い絵本や、時代遅れの漫画が詰め込まれていたり、金魚や小さな熱帯魚が水槽に飼われていたり、鳥籠の中でメジロが可愛らしく鳴いていたりする事がよくあった。そんな穏やかで、明るく、静かな空間は読書をするのにうってつけだったのだ。此処なら住める、とよく思ったものだ。
仕方の無い事とは言え、そういう機会を一つ失ってしまった。うっすらと寂しい土曜日である。
退屈に呑まれる季節(前向きに)
昨日のエントリを書いてから思ったのだけれど、もしかして僕は自分がそうしたいからボンヤリしているのじゃないだろうか。暖かい場所で日がな一日微睡んでいたい、とそういう事を望んでいるのではないだろうか。言ってみれば、冬眠欲みたいなものなのではないか。であるなら、それはもう仕方がない。いっその事、積極的にこの堕落を推進して行った方が良いのではないかとさえ思えてきた。
因みに昨日のエントリに書いた、実家の縁側での過ごし方は結構理想的である。惜しむらくは炬燵でない方が好ましい。炬燵だとウトウトするには少々熱すぎて疲れてしまうのだ。使った事はないのだけれど火鉢はどうだろうか。寒いだろうか。毛布にくるまっていればそれなりに過ごせると思うのだが。それに外は雪が降り積もっていて欲しいし、身近には猫か犬が欲しい。そして、微睡むのに飽きた彼(猫か犬)がソワソワし始めるので障子を開けてやると、彼は勢い外に飛び出し、積もった雪にハマって右往左往する。そんな光景を眺めながらぬる燗の酒を啜りたい。
因みに昨日のエントリに書いた、実家の縁側での過ごし方は結構理想的である。惜しむらくは炬燵でない方が好ましい。炬燵だとウトウトするには少々熱すぎて疲れてしまうのだ。使った事はないのだけれど火鉢はどうだろうか。寒いだろうか。毛布にくるまっていればそれなりに過ごせると思うのだが。それに外は雪が降り積もっていて欲しいし、身近には猫か犬が欲しい。そして、微睡むのに飽きた彼(猫か犬)がソワソワし始めるので障子を開けてやると、彼は勢い外に飛び出し、積もった雪にハマって右往左往する。そんな光景を眺めながらぬる燗の酒を啜りたい。
- Last Modified : 2011-12-25
退屈に呑まれる季節
やらなければならない事、やりたいと思っている事は山ほどあるのだが、何もする気になれないってほどではないにしろ、何だかぼんやりと過ごしてしまう時間が多い。おまけにいつも眠い。寝ても寝てもやはり眠い。鬱々とした気分という訳ではなく、ただ億劫で、いろいろな事が面倒に思えて来るのだ。こういうのが冬鬱というのだっけ。そう言えばこのところ休日も部屋に引き籠もっている事が多いから、日の光を浴びていないなぁ、とそんな事を考えながら寝転がっているのだ。
ここ何年か暮れの帰省を止してしまっているが、帰った時に、茶の間で家族と喋ったりテレビを観たりするのに飽いてくると、大抵は縁側に何故か置かれている炬燵に深く潜り込んで、半ば横になったまま、雪見障子のガラス越しに見える冬枯れた庭をぼんやりと眺めて過ごしていた。冬は忙しいからそのせいなのか、寒さのせいで風邪が治りきっていないのか、いつもそうだった。
家族がそんな状態の僕をどう思っていたのか、特に何か言われた事もないから解らないが、末の弟も帰省した時には寝てばかりいるから、同じように平生いつも疲れているからなのだろうと思っているようだ。しかし僕には特に疲れているという自覚はなく、強いて言えば、夏の暑さに疲れてしまうように、冬の寒さに疲れているというのはありそうな気がする。この頃では、暖かいものは全て正しく善きものであるような気さえしている。ただ、寒さはこれからなので、まださして飽いてはいないと思うのだが。
それにしても、毎日寒くて眠い。
ここ何年か暮れの帰省を止してしまっているが、帰った時に、茶の間で家族と喋ったりテレビを観たりするのに飽いてくると、大抵は縁側に何故か置かれている炬燵に深く潜り込んで、半ば横になったまま、雪見障子のガラス越しに見える冬枯れた庭をぼんやりと眺めて過ごしていた。冬は忙しいからそのせいなのか、寒さのせいで風邪が治りきっていないのか、いつもそうだった。
家族がそんな状態の僕をどう思っていたのか、特に何か言われた事もないから解らないが、末の弟も帰省した時には寝てばかりいるから、同じように平生いつも疲れているからなのだろうと思っているようだ。しかし僕には特に疲れているという自覚はなく、強いて言えば、夏の暑さに疲れてしまうように、冬の寒さに疲れているというのはありそうな気がする。この頃では、暖かいものは全て正しく善きものであるような気さえしている。ただ、寒さはこれからなので、まださして飽いてはいないと思うのだが。
それにしても、毎日寒くて眠い。
デトロイトのパン屋(再び)
以前に書いた近所のパン屋が10月一杯で一旦店を閉め、先週末に新しい店舗で開業した。しかも何と僕の部屋から歩いて30秒ほどの場所に。
店を閉める前に、店の中でレジの女性と客が話しているのを立ち聞きしたところに拠ると、新店舗はオーナーの自宅の一階を改築して、もっと手狭にやるつもりだとの事であった。喋っていたその女性は昔から居るので、僕はその人がオーナーなんだとばかり思っていたが、どうやら違うようだ。それも今日解明し、オーナーは60代くらいの女性で、そう言えば前の店舗で時折見かけていた。
そして手狭にするという新しい店舗は、店内の面積で言えば以前よりも若干広く、以前のようにフツーの町のパン屋然とした感じではなく、漆喰風の壁材と木材を多用した、欧州の何処かの町に在りそうな、今で言えば小洒落た内外装の店である。確かにパンの種類は少し減った気がするが、僕が想像していたよりもずっと充実した品揃えだった。商売を小さくするものだとばかり思っていたが、もっと前向きな判断に拠る移転であったようだ。
因みに、あの白いCDプレイヤーはレジテーブル横の木製の台の上に居座っていて、レイ・チャールズのCDが立てかけてあった。
店を閉める前に、店の中でレジの女性と客が話しているのを立ち聞きしたところに拠ると、新店舗はオーナーの自宅の一階を改築して、もっと手狭にやるつもりだとの事であった。喋っていたその女性は昔から居るので、僕はその人がオーナーなんだとばかり思っていたが、どうやら違うようだ。それも今日解明し、オーナーは60代くらいの女性で、そう言えば前の店舗で時折見かけていた。
そして手狭にするという新しい店舗は、店内の面積で言えば以前よりも若干広く、以前のようにフツーの町のパン屋然とした感じではなく、漆喰風の壁材と木材を多用した、欧州の何処かの町に在りそうな、今で言えば小洒落た内外装の店である。確かにパンの種類は少し減った気がするが、僕が想像していたよりもずっと充実した品揃えだった。商売を小さくするものだとばかり思っていたが、もっと前向きな判断に拠る移転であったようだ。
因みに、あの白いCDプレイヤーはレジテーブル横の木製の台の上に居座っていて、レイ・チャールズのCDが立てかけてあった。
雑記
ここ数ヶ月で改めて感じたのは、人は、僕が想像するよりもずっと自分の欲求に忠実で、その場の感情に従って発言したり行動したりする。それはもう驚くほどに。そんなにあからさまに行動して大丈夫なのだろうか。冷静に物事を判断するとか、そういう事は考えないのだろうか。と心配をしてみるものの、意外や世間は大した問題も起きずに進んでいく。
さすがにこの歳だから、人のそういう部分を知らなかった訳でもないのに、この驚きと新鮮さは何だろうか。これまで、そういう場面に遭遇する事が少なかったのかも知れない。考えてみれば、僕は他人のそういう部分を何となく避けて生きて来たような気がする。何故避けるのかと言えば、それは面倒で疲れるからである。自分のものだけでも面倒なのに、他人のそれを受け止めるなんて至難の業だ。
しかしこの頃では、波風の立たない人生などあり得ないのではないかと思い始めている。これまではどうにか穏やかに暮らせていたのかも知れないが、今後はそうもいかないのではないか。もしかすると波風あってこその人生なのではないか。そんな風に感じている。でもそれは単に、退屈しているだからなのかも知れない。よく判らない。
そしてその昔、僕は波風立てて人に迷惑をかける側の人間だった事を思い出した。
さすがにこの歳だから、人のそういう部分を知らなかった訳でもないのに、この驚きと新鮮さは何だろうか。これまで、そういう場面に遭遇する事が少なかったのかも知れない。考えてみれば、僕は他人のそういう部分を何となく避けて生きて来たような気がする。何故避けるのかと言えば、それは面倒で疲れるからである。自分のものだけでも面倒なのに、他人のそれを受け止めるなんて至難の業だ。
しかしこの頃では、波風の立たない人生などあり得ないのではないかと思い始めている。これまではどうにか穏やかに暮らせていたのかも知れないが、今後はそうもいかないのではないか。もしかすると波風あってこその人生なのではないか。そんな風に感じている。でもそれは単に、退屈しているだからなのかも知れない。よく判らない。
そしてその昔、僕は波風立てて人に迷惑をかける側の人間だった事を思い出した。
- Last Modified : 2011-12-05






