DOG ON THE BEACH
雨垂れの快楽
- 2010-06-20
- Category - Days
- Tag - diary / environment
僕が小学校低学年の頃の話。
学校の隣には寺が在り、見上げるような山門と砂利を敷いた参道が延びる割と大きな仏閣であった。僕らは毎日、学校の帰り道にこの寺の境内を抜けて帰った。何故なら、境内やその一角の広場は僕らの恰好の遊び場であったからだ。帰り際の教室で約束を交わして其処に集まる時もあったし、後から通りかかった際にメンバーに加えて貰う事もあった。缶蹴りをしたり、フワフワボールで野球をしたりして毎日隈無く遊んでいた。樹木も多かったので、蝉取りもしていた気がする。とにかくあらゆる方法を使って遊んでいたのだ。
しかし記憶の隅に、独りで境内に佇む自分の姿が見える。比喩ではなく、確かに一人きりで其処に居た記憶がある。季節は夏の初めで、一体どういう事情だったのか憶えていないが、山門の近くに、恐らく営繕用に備えられた木材を積んだ場所が在り、山門の屋根で雨を凌ぎながらも僕はその近くに座り込んでいた。其処で何をしていたのかというと、何もせずにじっとしていただけである。
雨が無数の木の葉を叩き、屋根を流れて地面に落ちる様を僕はただ眺めていた。雨を吸い込んだ樹木と土は匂いを放ち、僕をそれを胸一杯に吸い込んで、何処までも落ちていくような不可思議な感覚を楽しんでいた。そういうのを誰かと共有した記憶はないから、恐らくその為に独りでいたのかも知れない。何となく気持ちの良い事を、誰かに説明する言葉を持たなかったから、そうするしかなかったのだろう。
大人になると、こういう事を言葉にする事が出来て嬉しく思う。堂々と公言出来るし、なんなら誰かと一緒に愉しむ事も出来る。でもまあ、そういう事に感心を持たない人も居るので、それだから面と向かっては余り話さないのだろうな。「え? なんで?」とか言われるとがっかりするし。
★
それから10年以上経って、ショパンの「雨だれ」という曲を知り、視覚や嗅覚だけではなく、聴覚でも雨を愉しんでいた事に気付いた。音は記憶に残りにくいものなのだろうか。一時期は雨の日が嫌いで仕方がなかったが、今では当時と同じような感覚で愉しんでいる。何がきっかけなのか判らないけど、そんな原始的とも言えそうな愉しみを取り戻せて嬉しい。ただし、雨の勢いに拠るけどね。風の強い日や土砂降りはどうも愉しめない。
学校の隣には寺が在り、見上げるような山門と砂利を敷いた参道が延びる割と大きな仏閣であった。僕らは毎日、学校の帰り道にこの寺の境内を抜けて帰った。何故なら、境内やその一角の広場は僕らの恰好の遊び場であったからだ。帰り際の教室で約束を交わして其処に集まる時もあったし、後から通りかかった際にメンバーに加えて貰う事もあった。缶蹴りをしたり、フワフワボールで野球をしたりして毎日隈無く遊んでいた。樹木も多かったので、蝉取りもしていた気がする。とにかくあらゆる方法を使って遊んでいたのだ。
しかし記憶の隅に、独りで境内に佇む自分の姿が見える。比喩ではなく、確かに一人きりで其処に居た記憶がある。季節は夏の初めで、一体どういう事情だったのか憶えていないが、山門の近くに、恐らく営繕用に備えられた木材を積んだ場所が在り、山門の屋根で雨を凌ぎながらも僕はその近くに座り込んでいた。其処で何をしていたのかというと、何もせずにじっとしていただけである。
雨が無数の木の葉を叩き、屋根を流れて地面に落ちる様を僕はただ眺めていた。雨を吸い込んだ樹木と土は匂いを放ち、僕をそれを胸一杯に吸い込んで、何処までも落ちていくような不可思議な感覚を楽しんでいた。そういうのを誰かと共有した記憶はないから、恐らくその為に独りでいたのかも知れない。何となく気持ちの良い事を、誰かに説明する言葉を持たなかったから、そうするしかなかったのだろう。
大人になると、こういう事を言葉にする事が出来て嬉しく思う。堂々と公言出来るし、なんなら誰かと一緒に愉しむ事も出来る。でもまあ、そういう事に感心を持たない人も居るので、それだから面と向かっては余り話さないのだろうな。「え? なんで?」とか言われるとがっかりするし。
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それから10年以上経って、ショパンの「雨だれ」という曲を知り、視覚や嗅覚だけではなく、聴覚でも雨を愉しんでいた事に気付いた。音は記憶に残りにくいものなのだろうか。一時期は雨の日が嫌いで仕方がなかったが、今では当時と同じような感覚で愉しんでいる。何がきっかけなのか判らないけど、そんな原始的とも言えそうな愉しみを取り戻せて嬉しい。ただし、雨の勢いに拠るけどね。風の強い日や土砂降りはどうも愉しめない。
床屋とサンデーソングブック
- 2009-09-06
- Category - People
- Tag - music / installation / environment
近所の床屋に通うようになって随分経つ。その床屋は基本的に主人夫婦で営んでいて、何年か毎に入れ替わるインターンがそれに加わる。ずっと前は先代の爺さんが昔馴染みの客が訪れた場合のみ鋏を握っていたが、何年か前に完全に引退した。余りにも長い間通い続けていると、この店の推移までも見て取れるので、妙に感慨深い気持ちになったりもする。
この店は自宅が併設されており、そのどちらも二階建てである。つまり店の二階にも散髪台が在る。そしてこの空間がとても気持ち良くて、それ目当てで通っていると言っても言い過ぎではない。道路に面した大きな窓からは惜しみない陽光が入り部屋を満たす。そしてどの季節に訪れても絶妙な空調が客をもてなしてくれる。一体どうすればそんなにも心地良い設定が出来るのか不思議に思えるくらいだ。空気がとても柔らかく、まるで微睡みの為に作られたかのようだ。
そして更には、店内にはいつも東京FMが流れていて、僕は日曜の午後に訪れる事が多いせいか、山下達郎のサンデーソングブックがよく流れている。これがまたとても具合が良くて、もともとFMの音は柔らかくて好きなのだが、放送する音源自体を山下達郎が拘ってリマスターしている(具体的にどうとかは解らない)からか、耳心地の良いオールディーズが開放的な気分にさせてくれるのである。正に日曜日。幸いな事に主人は無駄に話しかけてこないので、思う様この状況を満喫出来る。
髪の毛を洗って貰ったり切って貰ったりする環境としてこれ以上はないような気がしている。だからこそ僕はこの店にずっと通い続けているのだし、これからも通い続けるだろう。こういう自分の身体に直接触れるような場所では、ほんの少しでも不快な要素があると自然と遠のいてしまうものだ。その要素が見当たらないのだから、自分の生活の中に変わることなく残しておきたいのである。
この店は自宅が併設されており、そのどちらも二階建てである。つまり店の二階にも散髪台が在る。そしてこの空間がとても気持ち良くて、それ目当てで通っていると言っても言い過ぎではない。道路に面した大きな窓からは惜しみない陽光が入り部屋を満たす。そしてどの季節に訪れても絶妙な空調が客をもてなしてくれる。一体どうすればそんなにも心地良い設定が出来るのか不思議に思えるくらいだ。空気がとても柔らかく、まるで微睡みの為に作られたかのようだ。
そして更には、店内にはいつも東京FMが流れていて、僕は日曜の午後に訪れる事が多いせいか、山下達郎のサンデーソングブックがよく流れている。これがまたとても具合が良くて、もともとFMの音は柔らかくて好きなのだが、放送する音源自体を山下達郎が拘ってリマスターしている(具体的にどうとかは解らない)からか、耳心地の良いオールディーズが開放的な気分にさせてくれるのである。正に日曜日。幸いな事に主人は無駄に話しかけてこないので、思う様この状況を満喫出来る。
髪の毛を洗って貰ったり切って貰ったりする環境としてこれ以上はないような気がしている。だからこそ僕はこの店にずっと通い続けているのだし、これからも通い続けるだろう。こういう自分の身体に直接触れるような場所では、ほんの少しでも不快な要素があると自然と遠のいてしまうものだ。その要素が見当たらないのだから、自分の生活の中に変わることなく残しておきたいのである。
秋の好きなところ
- 2009-09-03
- Category - People
- Tag - environment
すっかりと秋の色を帯び始めた今日この頃であるが、些か急な変化に戸惑っている。季節が順当に進めばまず、陽気は夏の余韻を残しつつも大気は乾き、空は涼しげな風を吹き流し、地上では黄金色の陽の光の満ちた時を過ごすはずなのであるが、何故かしら今年は気温がやけに低い。朝方に寒くて目を覚ましたりする。僕はそういう経験が本当に好きではないので、朝冷たくなってしまった水道水で顔を洗う時なんかに軽く落ち込んだりする。ああ、これから先は益々冷たくなっていく一方の水で顔を洗わねばならないのか。と、既に冬に対する恐れを抱いていたりもする。
これから僕が過ごす事になる季節にはこんなにも色々な良いところが在るのだ、と念頭に置いて暮らして行かねば、日々を繰り返していく事が憂鬱で仕方なくなってしまいそうだ。それはとても嫌なので、今年の初めにも書いたようにこの季節の良いところを揚げて行こうと思う。何故かこういう事はその度毎に思い出しておかないと、去年の事などすっかり忘れてしまっているのだ。
これから僕が過ごす事になる季節にはこんなにも色々な良いところが在るのだ、と念頭に置いて暮らして行かねば、日々を繰り返していく事が憂鬱で仕方なくなってしまいそうだ。それはとても嫌なので、今年の初めにも書いたようにこの季節の良いところを揚げて行こうと思う。何故かこういう事はその度毎に思い出しておかないと、去年の事などすっかり忘れてしまっているのだ。
- 空の高さ。
実際には雲が薄く高い位置に流れているので空を高く感じる。夏の空に比べて圧迫感が少なく何かしらほっとした気分になる。 - 虫の声。
遠くに近くに、様々な角度から聞こえてくるこの音声は、心地良い距離感をもって僕を慰める。 - 11月に一日だけ遠くから風に乗って届く畑焼きの匂い。
確認した事はないのだけれど、恐らく千葉の方から。毎年一日だけ気付く。 - 稲やススキや葦の穂が風に揺れる様。
しかしその姿にお目に掛かれる事はなかなかない。荒川の辺に葦は生い茂っているけど。 - その年に初めてセーターを下ろして頭から被った時の衣類の匂い。
- デザート・ブーツの皮の柔らかさと可愛らしさ。
今は持っていない。その内に是非手に入れたい。 - 日本酒の舌触りのまろやかさ。
- 梨のシャクシャクとした歯応え。
- 新茶の新鮮さと柔らかい味。
- 本(特に文庫本)の活字の美しさ。
何故だか知らないけどこの季節が一番目に優しくてくっきりと映る気がする。 - J.S. バッハのチェロ・ソナタ
- ジュール・マスネのタイスの瞑想曲
- Last Modified : 2009-09-03
こんなところか・・・意外と少ないな。何だか観念的な事柄が多いし。夏に脳が溶けてるから、その揺り返しかな。
国立科学博物館付属自然教育園
- 2009-01-22
- Category - Hobby
- Tag - walk / japanese / photograph / tokyo / environment / plant
植物に囲まれないと堪えられない(この感覚は非常に理解し難いと思うが)と思い、先々週JR目黒駅に近い国立科学博物館付属自然教育園に行って来た。

これまで東京に在る植物園と言えば都立夢の島熱帯植物園、東京大学大学院理学系研究科付属植物園(小石川植物園)などは時折訪れていたのだが此処には初めて来た。隣の東京都庭園美術館には来た事があったのだけれど。

敷地は広くそして開けた場所も少ないので、敷地の端に寄らなければ森に遮られて周囲に建つビルなど全く視界に入って来ない。森の中を歩き回っていてふいに空を見上げて「あれ、此処は何処だっけ」という感覚に陥る事が頻繁に有る。森林や湿地を歩いていると色々な懐かしい匂いがしてくる。樹木の匂い・落ち葉の匂い・草の匂い・池の匂い・土の匂い。かつての僕は一体何処でこのような匂いを嗅いでいたのかまるで判然としないのだが、とにかく不可思議で安心する。そして遂には此処に住みたいとさえ思うのであった。

これまで東京に在る植物園と言えば都立夢の島熱帯植物園、東京大学大学院理学系研究科付属植物園(小石川植物園)などは時折訪れていたのだが此処には初めて来た。隣の東京都庭園美術館には来た事があったのだけれど。

敷地は広くそして開けた場所も少ないので、敷地の端に寄らなければ森に遮られて周囲に建つビルなど全く視界に入って来ない。森の中を歩き回っていてふいに空を見上げて「あれ、此処は何処だっけ」という感覚に陥る事が頻繁に有る。森林や湿地を歩いていると色々な懐かしい匂いがしてくる。樹木の匂い・落ち葉の匂い・草の匂い・池の匂い・土の匂い。かつての僕は一体何処でこのような匂いを嗅いでいたのかまるで判然としないのだが、とにかく不可思議で安心する。そして遂には此処に住みたいとさえ思うのであった。
冬の好きなところ
- 2009-01-17
- Category - People
- Tag - environment
本当に毎朝が辛い。何故こんな寒さに打ち震えながら過ごさなければならないのだ。気温が摂氏二十度より下がれば寒いと感じる僕にはこの時期は絶望の季節である。しかし日本国には四季というものが在り、つまりは冬という季節は避けがたい環境であって南国にでも移住しない限りは死ぬまで付いて回るものなのだ。やれん。実にやれん。しかしながらそんな僕にも、冬に存在する好きなものは在る。慰めにそれらを羅列してみようと思う。
- クリスマスの飾り付け。
- 教会で歌われる厳かなミサ曲と祈り。
- 真夜中の拍子木の音。
- ヴィヴァルディ「四季・冬」・ユニコーン「雪が降る町」
- 年の暮れの雰囲気。
年が明け正月になってしまえばどうにも白けてしまうのだが、年末の慌ただしくも暮れの休暇に向けて逃亡を図るような解放に向けて直走るような空気が好きである。 - NHK番組「ゆく年くる年」・フジレテビ「爆笑ヒットパレード」・全国各地のお正月風景番組。
- 注連縄飾り。
- 舞い落ちる雪。降り積もった雪の上の足跡。
- ストーブの石油の焼ける匂い。
不快な匂いには違いないが、実際と記憶の両方から暖かさを感じるので好きだ。でも今はストーブは無い。 - 陽当たりの良い暖かな部屋で過ごす時間。結露した窓ガラス。
- 湯船に浸かった時の安堵感。寝床に入った時の安堵感。
- 暖かな電車やバスの中。そこで読む本。
- マフラー・セーター・ニット帽・ダッフルコート。
- マフラーを巻いた女性。
- コートの下にノースリーブでハイネックのセーターを着た女性。
なかなかお目にかかれないが、かなりクる。 - 握った手の平の暖かさ。
- 鍋料理・おでん・雑煮。
- ラーメン・うどん・蕎麦。
- 熱燗・焼酎のお湯割り・ホットウイスキー・ホットラム。
100万人のキャンドルナイト 2008 冬至
- 2008-12-19
- Category - Miscellaneous
- Tag - environment / sociology / ecology
音源棚の省スペース化
- 2008-09-15
- Category - Miscellaneous
- Tag - furniture / environment / music
以前から懸念されていた我が家の収納棚。先日雑誌を処分したので若干のスペースは空いたが、それでも足らずに新たに購入された本やCDやDVDは全て床に直に置かれる事になる。部屋掃除の際はおろか普通に部屋の中を歩行するのにも邪魔になる。或る程度は我慢するつもりでいたがさすがにもう無理だ。購入を控えれば解決すると言われるかも知れないが、そうはいかない。これらを購入するのは日々の食事とさして変わらぬ行為なのである。まあそれは言い過ぎだとしても買わない事は有り得ない。だがしかし、足元が邪魔だからと言って棚に無理矢理詰め込んでしまえば、ちょいと服を引っかけたとか軽い地震が起きた折に、不安定な状態で積まれたCDはバラバラと床に落下し、プラケースがバリバリに割れてしまうという事態が起きてしまう。こういうのは結構凹む。床に這いつくばり夜の夜中の薄暗い電灯の下、潤む目尻を袖で拭いながらも散らばったプラスティックの破片を拾い集めていると、何かしら得体の知れない悪意に晒されているような気持ちにもなるものである。
さて、そういう思いはもう懲り懲りだと長い間この状況の打開策を思案していた僕であるが、ついにこういう便利なものを見つけた。下北沢に在るフラッシュ・ディスク・ランチという中古レコード屋つうかCD屋で考案されたソフトケースである。実はほぼ日のこのページで知ったのだ。他にもこの人なんかも詳しく説明していて、とても良さそうなので実践する事にしたのだ。このソフトケースは当のフラッシュ・ディスク・ランチで店頭販売・通信販売している他、タワーレコーズでも店頭販売・通信阪場している。

左上の写真は、このソフトケースの売られている状態のパッケージ。CD一枚当たりに必要なのは右上の写真にあるように、不織布の内袋と塩化ビニール製の外袋が一枚ずつである。まずはCDをバラバラに分解して表ジャケット・裏ジャケットを取りだそう。

不織布の内袋にディスクを入れ、透明の外袋に裏ジャケを入れる。背表紙の部分が正面に折り返されるがこれは重要。後々にCDを探す時にこれが見えないと大変困る。次に表ジャケを入れて外袋のベロの部分を差し込めば完了。全ての面のジャケが見える状態になる。プラケースというのは普段は余り気にしないけれど、実際には無数の疵が入っていたり黄ばんでいたりして結構老朽化している。今回新品のケースに入れ替えたら、それはもう手持ちのCDが蘇るように綺麗に見える。しかもソフトケースに入れ替える事に因って、何というか買わされてしまった工業製品というのではなく、自分の為の音源ストックという感じがしてとても気分が良い。

左上の写真のように、僕はそれらのソフトケースを無印良品のポリプロビレンの程よい大きさのケースに入れる事にした。何が面倒臭いって、この大きさのケースを探し出し買ってくるのが一番面倒臭い。大きさも確認出来たので今度からは通販にしよう。最初は同じ無印で売っているラタンのケースで小洒落てみようかと考えていたのだが、収納量が少ない割には高いので止めた。
右上の写真では少し見えづらいが背表紙もちゃんと見えるし、このポリプロビレンのケース一箱で約90枚のCDが収まる。その結果不要になったプラケースが左下の写真。これだけの物がゴミとなる。これでも棚からはみ出た分のCDだけを収めたのである。一つの塔の高さを測ったら約34cmであった。CDが33枚で34cmとして考えると、僕の部屋の棚に収められている残りのCDが横幅120cm×4列。120×4÷34×33+90=555。この部屋にはだいたいそれだけの量のCDが在るようだ。
さて、このソフトケースの売り文句は「収納スペースを1/3に!」というものである。そう考えるとつまり、僕の部屋には1500枚相当の収納スペースが存在するという事であり、何となれば「あと1000枚はCDを買っても良い」という事である。これは嬉しい。これは僕以外の「CDを買わずにはいられない」諸兄、特にご家族を持たれた貴兄にも大変な朗報であろう。「もうCD買うのは止めなきゃな」と思っていたのに「三倍の量までは増やせますよ」と甘く囁かれているのである。これでもう「もう収納出来ないんだからCD買うの止めてよ!」と無粋極まりない苦言に甘んじる事もあるまい。
と思ったのだが、もう一つ辛辣な小言があるのを思い出した。「もう必要ないでしょ!?」・・・これはキツい。生活のレベルをどの辺りに設定するのかにも拠るがだいたいこの台詞は言われそうである。音楽なんて個人的なものでしかないと思うので「家族の為に必要なのか?」と訊かれれば必要は無いのかも知れない。しかし僕はこう反論したい。「あのな、人がフツーに生きていて触れられる事柄なんて限りがあるでしょ?それは単に生活する場所の物理的な違いだけの話じゃなくて、生まれも違えば育ちも違う色んな立場で生きている人達のそれぞれの感じ方というかさ、世界観を垣間見る事が出来る訳じゃない?それは最低限度必要な事かって言われれば必要ないかも知れないんだけど、人間の幅を広げるって事を考えれば重要な事だと思う訳よ。それは何も音楽に限った事じゃなくて文学でも美術でも学術的な本にしてもそうだよ。限られた情報だけで生きていくのって余裕が持てないし大変だよ。強さってのは知る事に因って得られると思うんだよね。だから俺はさ、本でもCDでも出来るだけ色んなものを見聞きしたいと思ってるんだ。勿論好き嫌いは在るよ。でもそれは自分にとって好ましい世界が一体どんな風に成り立っているのかという鍵を知る事に繋がると思ってるんだ。」とこのくらいの事は言い返したいのだが、実はこれ、今テキトーに考えて書いただけである。
さて、そういう思いはもう懲り懲りだと長い間この状況の打開策を思案していた僕であるが、ついにこういう便利なものを見つけた。下北沢に在るフラッシュ・ディスク・ランチという中古レコード屋つうかCD屋で考案されたソフトケースである。実はほぼ日のこのページで知ったのだ。他にもこの人なんかも詳しく説明していて、とても良さそうなので実践する事にしたのだ。このソフトケースは当のフラッシュ・ディスク・ランチで店頭販売・通信販売している他、タワーレコーズでも店頭販売・通信阪場している。

左上の写真は、このソフトケースの売られている状態のパッケージ。CD一枚当たりに必要なのは右上の写真にあるように、不織布の内袋と塩化ビニール製の外袋が一枚ずつである。まずはCDをバラバラに分解して表ジャケット・裏ジャケットを取りだそう。

不織布の内袋にディスクを入れ、透明の外袋に裏ジャケを入れる。背表紙の部分が正面に折り返されるがこれは重要。後々にCDを探す時にこれが見えないと大変困る。次に表ジャケを入れて外袋のベロの部分を差し込めば完了。全ての面のジャケが見える状態になる。プラケースというのは普段は余り気にしないけれど、実際には無数の疵が入っていたり黄ばんでいたりして結構老朽化している。今回新品のケースに入れ替えたら、それはもう手持ちのCDが蘇るように綺麗に見える。しかもソフトケースに入れ替える事に因って、何というか買わされてしまった工業製品というのではなく、自分の為の音源ストックという感じがしてとても気分が良い。

左上の写真のように、僕はそれらのソフトケースを無印良品のポリプロビレンの程よい大きさのケースに入れる事にした。何が面倒臭いって、この大きさのケースを探し出し買ってくるのが一番面倒臭い。大きさも確認出来たので今度からは通販にしよう。最初は同じ無印で売っているラタンのケースで小洒落てみようかと考えていたのだが、収納量が少ない割には高いので止めた。
右上の写真では少し見えづらいが背表紙もちゃんと見えるし、このポリプロビレンのケース一箱で約90枚のCDが収まる。その結果不要になったプラケースが左下の写真。これだけの物がゴミとなる。これでも棚からはみ出た分のCDだけを収めたのである。一つの塔の高さを測ったら約34cmであった。CDが33枚で34cmとして考えると、僕の部屋の棚に収められている残りのCDが横幅120cm×4列。120×4÷34×33+90=555。この部屋にはだいたいそれだけの量のCDが在るようだ。
さて、このソフトケースの売り文句は「収納スペースを1/3に!」というものである。そう考えるとつまり、僕の部屋には1500枚相当の収納スペースが存在するという事であり、何となれば「あと1000枚はCDを買っても良い」という事である。これは嬉しい。これは僕以外の「CDを買わずにはいられない」諸兄、特にご家族を持たれた貴兄にも大変な朗報であろう。「もうCD買うのは止めなきゃな」と思っていたのに「三倍の量までは増やせますよ」と甘く囁かれているのである。これでもう「もう収納出来ないんだからCD買うの止めてよ!」と無粋極まりない苦言に甘んじる事もあるまい。
と思ったのだが、もう一つ辛辣な小言があるのを思い出した。「もう必要ないでしょ!?」・・・これはキツい。生活のレベルをどの辺りに設定するのかにも拠るがだいたいこの台詞は言われそうである。音楽なんて個人的なものでしかないと思うので「家族の為に必要なのか?」と訊かれれば必要は無いのかも知れない。しかし僕はこう反論したい。「あのな、人がフツーに生きていて触れられる事柄なんて限りがあるでしょ?それは単に生活する場所の物理的な違いだけの話じゃなくて、生まれも違えば育ちも違う色んな立場で生きている人達のそれぞれの感じ方というかさ、世界観を垣間見る事が出来る訳じゃない?それは最低限度必要な事かって言われれば必要ないかも知れないんだけど、人間の幅を広げるって事を考えれば重要な事だと思う訳よ。それは何も音楽に限った事じゃなくて文学でも美術でも学術的な本にしてもそうだよ。限られた情報だけで生きていくのって余裕が持てないし大変だよ。強さってのは知る事に因って得られると思うんだよね。だから俺はさ、本でもCDでも出来るだけ色んなものを見聞きしたいと思ってるんだ。勿論好き嫌いは在るよ。でもそれは自分にとって好ましい世界が一体どんな風に成り立っているのかという鍵を知る事に繋がると思ってるんだ。」とこのくらいの事は言い返したいのだが、実はこれ、今テキトーに考えて書いただけである。







