DOG ON THE BEACH
ドガと郭絵師
数ヶ月前に録っていた日曜美術館のエドガー・ドガの回を観ていたら、なかなか面白い事を紹介していた。
ドガがよく描いたバレエの踊り子達。その妖しくも可愛らしい踊る姿の向こう側の、分厚いカーテンの影に佇む男達はどういう人間であるのか、という考証。当時のフランスのバレエ界は困窮しており、劇場の運営や、スタッフや踊り子達の生活を維持していく為には、金持ちの客達をパトロンに付けるしかなかったのだ、というような意味の事を言っていた。踊り終えた踊り子達は、カーテンの裏側で贔屓にしてくれている男達の相手をしていたとか。その「相手をする」というのがどの意味まで含めたものなのかは明言していなかったけれど、まあ、それは事情によって色々だろうな。
そして、そういう状況は日本の花柳界や歌舞伎界とよく似ているんじゃないかと思い始めたら、下世話な話だけれども、俄然興味が沸いてきた。今までドガが何故踊り子を描くのかなんて考えた事もなかったけど、彼女達の姿に自分を重ねる事もあったのだろうか。そういう事を考えていると、郭に通い詰めながら遊女達を描き続けた、江戸時代の絵師達を思い起こす。江戸のジャポニスムの運動とそれは、まあ関係ないよな。でも、欧州でジャポニスムが長い間影響を与え続けたのは何故なのか、少し調べてみたくなった。
ドガがよく描いたバレエの踊り子達。その妖しくも可愛らしい踊る姿の向こう側の、分厚いカーテンの影に佇む男達はどういう人間であるのか、という考証。当時のフランスのバレエ界は困窮しており、劇場の運営や、スタッフや踊り子達の生活を維持していく為には、金持ちの客達をパトロンに付けるしかなかったのだ、というような意味の事を言っていた。踊り終えた踊り子達は、カーテンの裏側で贔屓にしてくれている男達の相手をしていたとか。その「相手をする」というのがどの意味まで含めたものなのかは明言していなかったけれど、まあ、それは事情によって色々だろうな。
そして、そういう状況は日本の花柳界や歌舞伎界とよく似ているんじゃないかと思い始めたら、下世話な話だけれども、俄然興味が沸いてきた。今までドガが何故踊り子を描くのかなんて考えた事もなかったけど、彼女達の姿に自分を重ねる事もあったのだろうか。そういう事を考えていると、郭に通い詰めながら遊女達を描き続けた、江戸時代の絵師達を思い起こす。江戸のジャポニスムの運動とそれは、まあ関係ないよな。でも、欧州でジャポニスムが長い間影響を与え続けたのは何故なのか、少し調べてみたくなった。
十月燃ゆ
神無き空の 淋しさよ
年の暮れに寄す
猫伏して 冬の日溜まり 屋根の上
なーんもやる気しねえ。寝てよ。
なーんもやる気しねえ。寝てよ。
- Last Modified : 2008-12-30
絵画と気候
- 2008-06-30
- Category - Art
- Tag - japanese / environment / painting
歳をとってきたせいなのか、近頃興味を持つ絵画と言えば日本画ばかりである。昔、学生の頃には日本画には全く興味がなかった。僕が通っていた大学には存在しなかったが、日本画科に通う連中が居る事が不思議でならなかった。日本画を観て心地良いと思った事が一度もなかったからである。それがどうした事か、最近は日本画ばかりが気になっている。
他人の事は解らないので自分の事に関して言えば、歳をとると生命体として弱くなるが故に、いやが上にも自身のおかれた環境に寄り添うものを好むようになるのではないだろうか。例えば特にこの時期、この高温多湿な環境のもとで油で溶いた絵の具をべったりと厚塗りした絵など観たいであろうか。僕は鬱陶しくて仕方がない。そういう絵は完全に空調管理した室内でのみ、というかそういう環境でしか観る気になれない。こうした環境下で不快をもたらさずにすんなりと入り込めるのは、やはり日本画である。美術とは博物館に閉じこめられたものを観るものではなく、もっと生活の中に散在するものを眺めるべきものであると僕は思う。
学生の頃から日本画に興味を持ち、更にはそれを習得しようとする人達は、これと同じような事を思っているのだろうか。それとも別な入り口が在るのだろうか。今更戻れはしないが、少し興味がある。
そう言えば何年か前に、年若い知人に同じ事を語って聞かせた覚えがある。彼女は東京を離れ、今では何処かで穏やかに暮らしているようだが、元気なのかなあ。
他人の事は解らないので自分の事に関して言えば、歳をとると生命体として弱くなるが故に、いやが上にも自身のおかれた環境に寄り添うものを好むようになるのではないだろうか。例えば特にこの時期、この高温多湿な環境のもとで油で溶いた絵の具をべったりと厚塗りした絵など観たいであろうか。僕は鬱陶しくて仕方がない。そういう絵は完全に空調管理した室内でのみ、というかそういう環境でしか観る気になれない。こうした環境下で不快をもたらさずにすんなりと入り込めるのは、やはり日本画である。美術とは博物館に閉じこめられたものを観るものではなく、もっと生活の中に散在するものを眺めるべきものであると僕は思う。
学生の頃から日本画に興味を持ち、更にはそれを習得しようとする人達は、これと同じような事を思っているのだろうか。それとも別な入り口が在るのだろうか。今更戻れはしないが、少し興味がある。
そう言えば何年か前に、年若い知人に同じ事を語って聞かせた覚えがある。彼女は東京を離れ、今では何処かで穏やかに暮らしているようだが、元気なのかなあ。
絵初め
父方の祖母の葬儀の時に、伯母の一人から少し面白い話を聞いた。僕がまだ幼い頃の話だ。だいたいこういう時というのは、自分の子供の頃のロクでもない話を聞かされるのが常であるが、その時もやはり御多分に漏れず、しっかりとその口を閉じたまま早い内に墓場に直行して貰いたいと思ってしまうような話を聞かされた。ま、そんな話の中の一つ。
ある時、伯母に抱き抱えられていた僕は彼女に向かってこう言ったそうだ。「おばちゃん、ゾウの絵を描いてそれを僕にちょーだい。」・・・どういう事だろうか。普通ならば「ゾウが欲しいから買って。」などと無茶を言うのが無邪気な子供の在るべき姿であろう。なのになぜ「絵」が欲しいのか。その「絵」を自分で描かずに人に描かせようとするところがやはり子供であるが、僕は実物のゾウよりも「絵に描かれたゾウ」の方が好きだったのだろうか。その話は感慨深いようで、それでいて己の恥を露呈してしまうような、複雑な心境に陥る話であった。
ある時、伯母に抱き抱えられていた僕は彼女に向かってこう言ったそうだ。「おばちゃん、ゾウの絵を描いてそれを僕にちょーだい。」・・・どういう事だろうか。普通ならば「ゾウが欲しいから買って。」などと無茶を言うのが無邪気な子供の在るべき姿であろう。なのになぜ「絵」が欲しいのか。その「絵」を自分で描かずに人に描かせようとするところがやはり子供であるが、僕は実物のゾウよりも「絵に描かれたゾウ」の方が好きだったのだろうか。その話は感慨深いようで、それでいて己の恥を露呈してしまうような、複雑な心境に陥る話であった。
箸を手に
垣根とびこえ 猫笑い
秋落ちて
蜻蛉の羽根に 黄金色






