DOG ON THE BEACH
クラウド・ダイアリー
- 2010-11-03
- Category - Miscellaneous
- Tag - internet / hatena
先週 Tumblr に流れてきたこのテキスト。
俺は日記は書かない。人のコメント欄を日記として使う。誰にも全体を俯瞰することはできない。これを「クラウドダイアリー」と言う。これ読むと、何だかワクワクするな。ローカルにテキストを残しておけば自分は全てを把握出来るものね。物事は、というか、個々の所在がすべからく流動的である事で、何かしらこれまでにない価値観が生まれて来そうな気がする。
@himanainu_kawai ヒマナイヌ川井拓也
- Last Modified : 2011-11-09
表裏の逆転、若しくは個体内でのパラレルな共存。
- 2006-07-24
- Category - People
- Tag - sociology / internet / philosophy
昔、未だネット上は極めて非日常的な空間で、匿名性を利用して日記を公開している人達がたくさん居て、僕はその人達に引っ張られるようにしてインターネットの世界に入り込んだ。普段目にする事のない言葉がひっそりと書き連ねられ、抑えられていた感情が圧縮機にかけられたようにひりだしてくる様を眺めていたのだった。
それから数年が経ち、インターネットの普及と共に言葉は平準化され、其処は非日常的な場所ではなく日常の延長となった。奇妙な唸り声を上げるモデムを介して、こちらから何かを探しに行く場所ではなく、ブロードバンドに拠りあたかも窓を開けるようにして眺め得る風景となった。良い悪いではない。ただそうであるだけの話。
不便極まりないダイヤルアップの時代にも、少人数ながらコミュニティは在った。匿名性はいつしか人格を持ち、それらが互いに交差していくうちに或る関係性を持つようにもなった。当初の匿名性は希薄になり、書けない事も次第に増えてくる。そして誰かが別な名前で、無料のサーバスペースを使って裏日記を書き始める。勿論最初は誰も気付かないが、そもそも顕示欲が強くなければ日記を公開したりするはずもないので、自分の日記ページの中に隠しリンクを張ったり、特定の人にだけ教えたりする。それがいつの間にか周知の事となって、関係性は複雑化する。非常に人間臭い村がそこに出来上がってしまうのである。
此処までは昔そういう事もあったな、という思い出話でしかないのだが、最近思うのだ。インターネット上でのやりとりがコミュニティ主体になってきている昨今、物理的・社会的な距離を飛躍的に縮め、様々な人と知り合えるのは結構なのだが、それだけに自己が晒し晒される頻度や深度が増大する。それに疲れたり嫌になったのであれば、そのコミュニティから離れれば済む話のような気もするが、中にはそれをドロップアウトのように感じる人も居るかも知れない。学校や会社からのそれと同じ感覚で。
それとは別に、そのドロップアウト的な行動を好む人も居るだろう。極端な話、オフラインで生活していると、日常化されたインターネット村の裏側に居るような気がしてくる事がある。・・・何だか取りとめの無い話になってきた。また後で書き換えるかも知れない。
それから数年が経ち、インターネットの普及と共に言葉は平準化され、其処は非日常的な場所ではなく日常の延長となった。奇妙な唸り声を上げるモデムを介して、こちらから何かを探しに行く場所ではなく、ブロードバンドに拠りあたかも窓を開けるようにして眺め得る風景となった。良い悪いではない。ただそうであるだけの話。
不便極まりないダイヤルアップの時代にも、少人数ながらコミュニティは在った。匿名性はいつしか人格を持ち、それらが互いに交差していくうちに或る関係性を持つようにもなった。当初の匿名性は希薄になり、書けない事も次第に増えてくる。そして誰かが別な名前で、無料のサーバスペースを使って裏日記を書き始める。勿論最初は誰も気付かないが、そもそも顕示欲が強くなければ日記を公開したりするはずもないので、自分の日記ページの中に隠しリンクを張ったり、特定の人にだけ教えたりする。それがいつの間にか周知の事となって、関係性は複雑化する。非常に人間臭い村がそこに出来上がってしまうのである。
此処までは昔そういう事もあったな、という思い出話でしかないのだが、最近思うのだ。インターネット上でのやりとりがコミュニティ主体になってきている昨今、物理的・社会的な距離を飛躍的に縮め、様々な人と知り合えるのは結構なのだが、それだけに自己が晒し晒される頻度や深度が増大する。それに疲れたり嫌になったのであれば、そのコミュニティから離れれば済む話のような気もするが、中にはそれをドロップアウトのように感じる人も居るかも知れない。学校や会社からのそれと同じ感覚で。
それとは別に、そのドロップアウト的な行動を好む人も居るだろう。極端な話、オフラインで生活していると、日常化されたインターネット村の裏側に居るような気がしてくる事がある。・・・何だか取りとめの無い話になってきた。また後で書き換えるかも知れない。
イサム・ノグチ展 / 東京都現代美術館
観に行った時の事を書くのを忘れていた。
入口から入ってすぐ、2m級の提灯が展示してあるスペースで、音声サービスのイヤフォンに耳を傾けつつ、一心に見つめている女の子が居た。他にも閲覧者は何人も居たというのに、何故かその子だけが目に入った。たぶん20歳くらい。美大だとか美術系の学生なのだろう、今の僕が属する環境では考えられない服装をしていた。ま、そんな事はどうでも良い。
それから後も、彼方此方の展示スペースで彼女を見かける。というか目に入ってくる。そうすると、イサム・ノグチの彫刻よりも彼女ばかりを目で追ってしまうのだ。何もその女の子が凄く好みであったとかそういう事ではない。それぞれの彫刻を取り憑かれたように見つめ、彫刻から彫刻へと小動物のように渡り歩くその姿から目を離せないのである。そんなにも熱狂的に彫刻を観る人は他には誰一人居なかった。自分の気に入った物だけを集中的に観る習慣の私とは違い、彼女は何一つ見逃そうとしない。何かしら切実さを感じしてしまう。僕はこういう人を見ているのが好きである。
展示場から出て、関係する書籍やグッズの販売スペースを彷徨いていたのだが、其処でもその女の子を見る事になる。彼女の情熱は留まる事を覚えないようで、此処でも全ての商品を吟味していた。既に手に幾つもの商品の入った袋を下げ、それでも未だ何か探そうとしている。Tシャツを選ぶのには、30分ほどかけていた。最後に彼女が買った物は、イサム・ノグチとは全く関係のない「太陽の塔」のオブジェ。包装して貰っているところを見ると、友人へのお土産か何かにするのだろう。取り敢えずそれで満足したのか、彼女は意気揚々と美術館を後にした。
イサム・ノグチの彫刻を観に行ったというより、その女の子を観に行ったようなものであった。
入口から入ってすぐ、2m級の提灯が展示してあるスペースで、音声サービスのイヤフォンに耳を傾けつつ、一心に見つめている女の子が居た。他にも閲覧者は何人も居たというのに、何故かその子だけが目に入った。たぶん20歳くらい。美大だとか美術系の学生なのだろう、今の僕が属する環境では考えられない服装をしていた。ま、そんな事はどうでも良い。
それから後も、彼方此方の展示スペースで彼女を見かける。というか目に入ってくる。そうすると、イサム・ノグチの彫刻よりも彼女ばかりを目で追ってしまうのだ。何もその女の子が凄く好みであったとかそういう事ではない。それぞれの彫刻を取り憑かれたように見つめ、彫刻から彫刻へと小動物のように渡り歩くその姿から目を離せないのである。そんなにも熱狂的に彫刻を観る人は他には誰一人居なかった。自分の気に入った物だけを集中的に観る習慣の私とは違い、彼女は何一つ見逃そうとしない。何かしら切実さを感じしてしまう。僕はこういう人を見ているのが好きである。
展示場から出て、関係する書籍やグッズの販売スペースを彷徨いていたのだが、其処でもその女の子を見る事になる。彼女の情熱は留まる事を覚えないようで、此処でも全ての商品を吟味していた。既に手に幾つもの商品の入った袋を下げ、それでも未だ何か探そうとしている。Tシャツを選ぶのには、30分ほどかけていた。最後に彼女が買った物は、イサム・ノグチとは全く関係のない「太陽の塔」のオブジェ。包装して貰っているところを見ると、友人へのお土産か何かにするのだろう。取り敢えずそれで満足したのか、彼女は意気揚々と美術館を後にした。
イサム・ノグチの彫刻を観に行ったというより、その女の子を観に行ったようなものであった。
Isamu Noguchi
- 2005-11-06
- Category - Art
- Tag - philosophy / sculpture
東京都現代美術館のイサム・ノグチ展にて購入したDVDを観た。その中で、彼のデザインした提灯を模した照明「AKARI」についてこう語っている。
紙の提灯は壊れても、また新しいものに取り替えられる。私はこの概念を日本に教わった。過ぎゆくものを慈しむ心。いずれ人生は終わり、桜の花は散る。そこに残るのは芸術と命なのだ。これと似たような言葉を、昔テレビで見かけた事がある。確か北欧を紹介する番組で、国はスウェーデンかフィンランドだったと記憶する。我々が普段目にする欧州の教会は、通常は重圧で頑強な石を使って建てられる。しかしその国の教会は木造だった。教会などは何十年も何百年も壊れてしまわないように、石で建造するのが普通の考え方ではないかという問に、木造の教会で神に仕える牧師はこう答える。「形あるものは全て朽ち果て、壊れてしまうものだと私達は考えている。しかし、教会が朽ち果てても、そこに信仰は残るのだ。」僕には、その考えはとても東洋的なものに思えた。しかしその発想は、明らかに間違った認識であるようだ。
新聞・テレビを殺します
- 2005-02-22
- Category - People
- Tag - sociology / internet / philosophy
少し前の記事ですが、ライヴドア堀江社長のニッポン放送株取得に関する記事をまとめたエントリを読んでました。近鉄買収の時から、今回の件に至るまで、さして興味を持っていなかったのですが、タイトルにした台詞がちょっとカッコいいなあ、と思って読む気になったのです。
このエントリの中で気になった箇所がある。
このエントリの中で気になった箇所がある。
普通の人って情報の海から面白そうな情報を探すことに面白さを感じてないと思う。インターネットは能動的なメディアで既存メディアは受動的なメディア。能動的なメディアというのは、どうしても人を選ぶだろう。
考えてみれば先例があった。情報誌のぴあと東京ウォーカーの戦い。ぴあはすべての情報を提示することに命をかけたが、情報のフィルタリングをした東京ウォーカーの前に負けていった。情報がたくさん提示してあって、そこから受け手は面白いものを自動的に拾い上げてくれるだろうというのは受け手の能力に期待し過ぎだ。何となくそうかなあ、と思っている事はハッキリと言葉にされると気持ち良いですね。推測に過ぎませんが、自分で情報の取捨選択をする習慣のない人は増えてるような気がします。子供だけでなく、大人も。溢れる情報が多くなればなるほど、その選択に対する労力は足りなくなり、現代ではそれを金で買っている。やがてそうする事に慣れ切って、自分で判断する機会を失ってしまう。いつの日にか、誰かが自分の為に都合の良い情報をピックアップし、厳かに差し出してくれるのを待っている人ばかりの社会が訪れそう。などと想像したら気持ち悪くなって来ました。
All about orz
上のタイトルでは解り難いと思うが、要は挫折AA(私はこう呼んでいる)の「orz」の事である。それを米国の Boing Boing というサイトで色々と取りまとめをしている。
Orz is a popular symbol, a pictograph, a fun stuff, a strong meme, a fashion and even a subculture in Far East Asia since last year. It's originally from japan and spread soon to other countries such as China and Taiwan.という事らしく、日本で使われているだけかと思っていたら、そんなに広まっていたなんて知らなかった。更には商品化までしてるし。挙句の果てにはこのサイトの作者、自分で曲作って「オー・アール・ズィー」などと歌っている。記事の末尾でその曲のMP3ファイルへのリンクを張っているが、ええと、まあ、自作。
エミール・ガレ展 / 江戸東京博物館
迂闊にも昨晩知った回顧展に行って来ました。これまでアール・ヌーヴォの展覧会などで何点かは目にしていましたが、これだけのガレの作品を目の当たりにするのは初めてです。ガレがデザインした家具は見た事があったのですが、陶器は初めてでした。しかし陶器は私としては今一つ。これなら東アジアの陶器の方が断然良い。ま、比べるものでもないんですが。
ガレと言えばやはりガラス器。今回私の目を惹いたのは、北斎漫画をモチーフ(ほぼ絵をガラス細工でやり換えたもの)にしたガラス器。今現在私が日本の様式美に興味を持っているからこそ、そう思えるのだろうが。しかしそれとジャポニズムは別である。欧州人の好奇な色眼鏡で見られた日本の様式は、微かに歪められ、誇張され、それが非常にエキセントリックな印象を受ける。私が気に入っているのはそういう部分である。
もう一つ。ガレのランプが在る。その斜陽の灯りと眺めていると、不思議な感覚に捕らわれる。例えば自分がこのまま死んでしまうとしても、この灯りを見つめていればさして怖くもなく、緩やかに没する事が出来るのではないか。そんな風に考えてしまった。いずれ、来るその日の為にガレのランプを手に入れるのも悪くはない。さすがにアンティーク・ガレを買うのは無理だが、エミールが没した後も営まれ続けている、ガレ商会製のランプなら買えなくもなさそうだ。
ガレと言えばやはりガラス器。今回私の目を惹いたのは、北斎漫画をモチーフ(ほぼ絵をガラス細工でやり換えたもの)にしたガラス器。今現在私が日本の様式美に興味を持っているからこそ、そう思えるのだろうが。しかしそれとジャポニズムは別である。欧州人の好奇な色眼鏡で見られた日本の様式は、微かに歪められ、誇張され、それが非常にエキセントリックな印象を受ける。私が気に入っているのはそういう部分である。
もう一つ。ガレのランプが在る。その斜陽の灯りと眺めていると、不思議な感覚に捕らわれる。例えば自分がこのまま死んでしまうとしても、この灯りを見つめていればさして怖くもなく、緩やかに没する事が出来るのではないか。そんな風に考えてしまった。いずれ、来るその日の為にガレのランプを手に入れるのも悪くはない。さすがにアンティーク・ガレを買うのは無理だが、エミールが没した後も営まれ続けている、ガレ商会製のランプなら買えなくもなさそうだ。
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